1.それぞれの決意

 ――――――

 ――――

 ――ロアンは、病弱な子供だった。

 両親は早くに亡くなり、兄と二人で暮らしていた。

 家は貧しかった。昔はそれなりの名家だったらしいが、その時代のことをロアンは知らない。兄は少しだけ覚えているようで、その頃の伝手を頼って日々出稼ぎに行き、二人での生活をなんとかやりくりしていた。

 ロアンとしては、早く大きくなって兄の手伝いをしたかった。しかし病弱な体だと、そうもいかない。

 幼い頃のロアンは、一日の大半をベッドで過ごしながら、誰かの役に立ちたいと願い続けていた。


 ――――――

 ――――

 ――伏せていた頭を持ち上げる。

 頭上に積もっていた雪がパサリ、パサリと落ちて行く。それと同時に、サク、サク、と雪を踏む音が近付いてくる。

 見上げた鉄格子の向こうには、白い外套を頭から被っている誰かがいた。

「貴方が……――」

 何かを言っているが、罵倒と悲鳴以外の声を久しぶりに聞いた耳では、上手く言葉を聞き取れない。

 人か。いや、人にしては、何か。

 火神の意識が入り混じっている今の自分では、正しく判別することができない。

 ただ、そこにいるのが人の姿をした、女性、だということだけは、なんとなくわかる。

 彼女の口が動く。

「――貴方を、助けたいの」

 助ける?

 誰の役にも立つどころか、罪ばかり侵している自分を?

 もはや世界の敵に成り果ててしまっている自分のことを、助けるだなんて思う人が、まだ居たとは。

 ぼんやりと、彼女だけは死んで欲しくないと、火神の意識が混じりながらも、そう思考した。


 ――――――

 ――――

 ――目の前で、彼女が倒れた。

 パンッ、と、軽すぎる発砲音と共に。

 倒れた彼女を目で追いかけた視界の中で、彼女から赤い血が流れ、血溜まりを作っていくのを見る。

「――もはや四神なぞいらぬ! 私こそが新しい神となるのだ!」

 押さえつけてくる男の声が耳障りだ。

 スッと、体中が冷たくなる。それと同時に、胸の辺りに、何かが湧き起こる。

 撃たれる直前に彼女が見せた笑顔が、脳裏に焼き付いている。

 ガチャリと、金属質な音と共に、頭の後ろにガツリと銃口が押し付けられた。

 ああ、止めろ、誰の役にも立たないどころか、彼女すら守れなかった、今、ロアンとしての心すら無くしたら。

 自分は、何をするか。


 ――――――

 ――――

 ――呆然と天井を見上げていた。

 胸に突き刺さったままの剣が、視界の端に見える。自分の胸からは絶えず鮮血が溢れ、炎になっては自分へ還る。

 もうこの世界には、自分しかいない。水神も、風神も、兄も、彼女も、もういない。

 どうして自分は、皆の元へと逝けないのか。早くいなくなってしまいたいのに、この身にある火神の力がそれを許してくれない。

 お前だけは許すものか、と。

 ならせめて、このままでいい。これ以上、自分が何もしないように、このままで。

 だと言うのに、唐突に視界に入り込んだのは、黒い影だった。

 やめろ、と口を動かした。声にはならなかったが。

 その影が、胸にささったままの剣に、手をかけて――



 ――そして今、再び目を醒ます。

 見覚えのある天井、見覚えのある光景。あの時のまま時間が止まってしまっていた旧世界は、自分が戻ってきたことにより再び動き出し、辺りで息を吹き返した炎が燃え上がっている。

 胸からは鮮血が流れ続けている。その血は炎となって、あの時と同じように自分へと還り続けている。

 あの時の、続きだ。

 今度こそ、自分は死ななければ。

 玉座の向こうにある扉。そこに向かって、這うように体を引き摺る。

 しかし。


 見上げた玉座の前には、あの時に見た、影が、自分を見下ろすように立っていた。


 ×××


 突如現れた影によって、世界は各地で混乱が起きていた。

 それは軍の拘置所でも同じだった。外から聞こえる騒音に対し、彼――エリック・ハードンは、鉄格子越しに様子を窺う。

 いくら軍であっても、現状の混乱に速やかな対応ができないほどの騒動が起こっているらしい。異変はまだここにまで入り込んではいないが、伝達経路が絶たれているのか拘置所内部にまでは詳細な情報が入って来ず、目に見えない不安で他の囚人たちが騒ぎ出している。

 そんな中でただ一人、エリックは冷静だった。

「……まったく、何をやっているんだ、あの人たちは」

 密偵の為だったとは言え、五年ほど観測所に勤め、間近で神という存在を観測していたのだ。今起きているのが人災では起こり得ない事象であることは、エリックには容易に推測できる。

 とはいえ、あの泉がある地域から距離があるというのに、この規模、これほどまでの混乱と騒動。観測所は今頃どうなっていることやら。

 息を吐き、エリックは静かに機会がくるのをただ待った。



 その頃、観測所ではロキ・エルドランが部下たちへ緊急収集をかけていた。

「これから先、影による襲撃が更に激化すると予測される。影の最終的な狙いはあいつとチガヤのようだが、被害は今や世界各国に広がっている。故に、この観測所を放棄し、人命救助に集中することにする。お前たちは街の住民たちを避難誘導し、避難所になっている孤児院にて防衛してほしい」

 ロキの指示に、部下たちはすぐには頷けない。

 真っ先に声を上げたのはジャン・ユライドだった。

「ま、待ってくださいよ所長! チガヤちゃんはどうするんですか?! 所長はチガヤちゃんが自力で戻ってくるって言いますけど、だったら泉を守らないと……」

「わかっている。だから、泉には俺一人で残る」

 え、と部下全員が声を上げた。

 今度はアルテ・ベルリアが身を乗り出して一歩前へ出る。

「それでしたら所長、私もここに残ります! 所長だけに任せるわけにはいきません!」

「いや、アルテ。おそらく、これが今の俺たちができる最善手だ。この街に駐在する軍人として、街の人々を見殺しにするわけにはいかない。その為には手分けして住民を誘導する為の人数が必要だ。だからここに残るのは、この場の管理者である俺一人でいい」

 ロキは淡々とそう説明した後、あえて微笑んで見せた。

「お前たちも俺の実力は知っているだろう。心配は不要だ。こっちのことは気にせず、街の防衛に集中してくれ。それと……私情を挟んでも許されるなら、プリシアのことを、頼みたい」

 アルテを含む全員が、ぐ、と言葉を詰まらせた。

 ロキ・エルドランは誰よりも責任感が強い男だ。そのことは部下である自分たちが何よりも理解している。故に、この場の責任を一人で務めようとするロキを説得する難しさを知っており、且つ、そんな彼から私情を溢して頼まれたのなら、断ることなどできない。

 最初に覚悟を決めたのはユークリッド・アドソンだった。

「なら、所長代理の指揮は、俺がします。フィル、支援してくれるか」

「ああ、わかったよ兄貴。アルテとジャンも、それでいいよな」

 ユークリッドに続いてフィル・アドソンも頷き、残りの二人を見る。アルテは唇を噛みしめながらも前のめりだった身を引き、しかし、ジャンだけは納得できないようで三人を見渡した。

「ま、待ってよ、本当にいいの?! いくら所長でも、所長一人だけにするのは……」

「ただしロキ所長、一つだけ、許可をください」

 まだ言いかけているジャンを押さえ、ユークリッドが口を開く。

「街の安全が確保され次第、観測所へ戻ってきても良いという、許可を」

 ユークリッドの言葉に、驚いたのはロキだった。

 僅かに目を見開き、息を止める。数秒の後、ゆっくりと長く息を吐き出したロキは、頷いた。

「――ああ。許可する」

「ありがとうございます。よし、お前ら、すぐに向かうぞ! ジャンは観測所内にある医療品をかき集めて先に孤児院へ行ってくれ! 俺とフィルとアルテは三手にわかれて住民の誘導をする! 行くぞ!」

 大声を張り上げたユークリッドに、すぐさまフィルとアルテが動き出した。これにはジャンも納得できたようで、ロキへ向けて勢いよく頭を下げた後、医療品を詰めている鞄を抱えて三人の後を追いかけて行った。


 後に残ったロキは、一つ、大きく深呼吸をする。そして顔を上げ、部下たちが向かった方角とは逆へと足を動かした。

 向かった先は、泉だ。泉の淵には真黒の鳥が、少しでも翼を休めるように佇んでいる。

「……もういいのかい? ローシュ」

 真黒の鳥――風神が、ロキを見上げて嘴を動かす。

 そんな風神の横にロキも立つ。手にした剣の柄を握りしめながら、頷いた。

「ああ」

「この先、本当に何が起きるかわからない。ボクをもってしても、命の保証はない……それでも、もう会っておかないといけない者はいないのか」

「会えば迷う。迷っている時間まではない」

 一瞬だけ、ロキの脳裏にプリシアの姿が浮かぶ。

 が、それをロキは、目を伏せて胸の内に押し留めた。

「――彼女も、わかってくれる」


 泉の周辺は、今は静かだ。しかし不穏な気配は刻一刻と強まってきている。

 青年が再生の力で巻き戻した時間が、再び戻ってきている。未だ視界には映らないが、確実に、影の群団はそこにまで迫ってきているのだ。

「今はチガヤを待とう。影が動き出す前に戻ってきてくれると、いいんだが」


 ×××


 どうして、こんな事になったのか。

 『赤の使徒』の信者である三人は、一様にそう思いながらも足を動かしていた。

 彼らの後方からは、少女が息を切らしながらも必死について来ている。そう、邪神へ捧げる生贄候補として狙っていたはずの、あの赤毛の少女である。

 今歩いているのは獣道だ。この山を拠点にしている信者たちにとっては歩き慣れた道ではあるが、見るからに体力が無さそうな少女ではこの道は厳しいだろう。

 現に、今まさに少女が足を滑らせ、地面に手をついている。

「おい、大丈夫か? 本当にあの村にまで行けるのか?」

「っ、は、い……っ、大丈夫、です……っ!」

 息も絶え絶えだが、少女は言う。

 少女は一言も弱音を口に出さなかった。着ているワンピースが泥だらけでみすぼらしい姿になっても、擦り傷だらけの足で懸命に立ち上がる。

 どうしてこんなに必死なのか、その理由を少女は話さなかった。否、話す余裕がないだけなのかもしれないが。

 少女が追いつくのを待ちながら、信者たちはそれぞれ顔を見合わせた。

「……どうする? なんだかんだでここまで来ちまったが」

「でも、今更になって置いていけるか?」

「助けてもらったのは事実だしな……」



 実のところ、今ここにいる三人は、『赤の使徒』の中でも下っ端にあたる者ばかりである。

 現状の『赤の使徒』は、教団の創設者であり教祖でもあったアルクハイト・グレイスが行方不明となったことにより、自分たちを率いて指揮する者が誰もいない状態だ。教団の中でも発言力のある者たちが辛うじて自分たちを取り纏めようと奮起してはいたが、元々が烏合の衆であった教団はたちまち団結力を失って混乱していた。

 そんな状態の中、あの正体不明の影に襲われたのだ。混乱は錯乱へと悪化し、皆が皆、誰の指示も聞けずに散り散りになって逃げ惑ってしまったのである。

 集団で群れていた為に力があると錯覚していただけの彼らには、個々の実力なんてものはない。冷静な判断力も失ってがむしゃらに逃げ回り、仲間が次々と影に捕まって絶叫を上げながら燃えていく様を見ては、ただ恐怖するしかなかった。


 そんな時に現れて、自分たちを助けてくれたのが、この生贄の少女なのである。


 錯乱状態から我に返った今、彼らとしては散り散りになった教団の本隊を探し出して合流することを第一の目標にするべきなのだろう。が、自分たちの無力さを身をもって実感してしまった上に、一緒に逃げていたはずの仲間が気付けば三人しか残っていなかったという絶望も合わさり、彼らの心はポッキリと折れてしまっていた。

 その状態の中、少女が一生の頼みだと懇願してきたのが、「私の故郷まで連れて行って欲しい」という願いだった。命の恩人という借りに加え、これから先の指標もない彼らは、こんな自分たちでも頼ってくれる少女の願いを無碍に断ることができず。



 そして今に至るというわけである。

 三人がそれぞれこの現状に対して頭を悩ましている間に、ようやく少女が彼らに追いついた。その場に膝をつき、なんとか呼吸を落ち着かせようとしている。

 弱音は一向に口にはしないが、体力はもう限界なのだろう。立ち上がろうとしてはいるが、足が震えて力が入らない様子だ。

「……~~っ、ああ、もう、わかった、背負ってやるからしっかりしろ!」

 見かねた一人が声を上げた。 

 それを合図に残りの二人も頷いて動き出し、少女の両脇を支え、声を上げた男の背に少女を乗せる。

「え……あ、あの……っ」

 少女が戸惑っている間に男がしっかりと背負い上げ、左右に二人がついて支える。その体勢で山を昇り始めた三人に、少女は体を硬直させて慌てた。

「わ、私、大丈夫です……! 歩けますから……っ!」

「あの村は山頂にあるんだぞ、いいから黙って背負われてろ!」

「いくら敵同士だったとはいえ、俺たちの命の恩人だしな」

「何をそんなに必死なのか知らねぇが、こんなボロボロの状態を見過ごせるほど、そこまで人間落ちぶれちゃいねぇよ!」

 口々に言われ、少女は困ったように口を閉じる。

 そして、おずおずと硬直していた体から力を抜いて、彼らに身を預けた。三人はざくざくと山を切り分けては登り、少女はその背で小さくなる。

 と、少女が口を開いた。

「……あの……皆さんのお名前を、お伺いしてもいいですか?」

 三人は一瞬、それぞれ目を合わせた。そういえば自己紹介すら済んでいなかった。

 少女を背負っている男から答えた。

「ガイルだ」

「俺はイグルス」

「テッドだ。そういえば俺たち、お前の名前も知らないな」

「ガイルさんに、イグルスさんに、テッドさん……」

 少女は三人の名前を復唱した後、小さく頷き、口を開いた。

「私は、チガヤです……チガヤ・アルベルネです」


 ×××


 山頂に辿り着いたのは、それから一時間後のことだった。

 チガヤの足だと半日ほどかかっていたかもしれない。地面に降ろしてもらったチガヤは、運んでくれた三人へ何度も頭を下げた。

「わかった、わかったから、もう頭を下げるな。それより、ほらよ、目的地だぞ」

 ガイルが指を差しつつチガヤを振り向かせれば、目の前には朽ち果ててはいるものの、懐かしい面影が残っている村の門が佇んでいた。

 ここへ戻ったのは半年振りになるのだろうか。あの日以来、村には人が訪れることがなかったようで、焼け跡には苔や草花が覆い被さるように群生していた。その様子は焼け跡を通り越し、もはや廃墟だ。

「こんな風にさせた俺たちが言うのも変だけど……ここにはもう何も無いぞ? 何の用があったんだ?」

 イグルスが怪訝そうな表情で問いかける。

 チガヤは村を見渡し、すぐに一点へと視線を定めた。

 門の横。朽ちた柱の先に、一匹の蝶が止まっている。

 西に傾き始めている日の光を受け、キラキラと輝いているように見える。その小さいながらも存在感がある色鮮やかな蝶に、チガヤは歩み寄って近付き、そっと声をかけた。

「……土神様、ですか?」


 世界を統べる四神の内の、一柱。

 今までチガヤの前に姿を現さなかった、最後の神。それが、半年前に故郷へ帰った際にも見た、この蝶だったなら。


 蝶からは声が聞こえなかったが、感じる気配は水神や風神を前にした時と同じものを感じる。

 チガヤは確信を持って、蝶へと懇願した。

「土神様。私を、導いて下さい。あの方……火神様の元へ」

 一瞬だけ、蝶と視線が合ったような気がした。

 キラキラと輝く羽根を動かし、ひらひらと舞い上がった蝶は、チガヤの回りを飛び回った後に彼女の肩へと留まる。チガヤはその蝶の動きを、土神からの肯定だと判断することにした。

「ありがとうございます……よろしくお願い致します」

 肩に停まっている蝶に指先で触れ、チガヤは小さく頭を下げる。

 そんなチガヤの様子を、後ろにいる三人は不思議そうに眺めていた。彼らにはきっと、この蝶が見えていないのだろう。一人でぶつぶつと呟いているように見えるチガヤを、三人は訝しげに眉を潜めながらも口を開く。

「なぁお前、さっきから何を――」

「お、おい! マズいぞ、またあいつらだ!」

 声を上げたのはテッドだった。ぎょっとした様子で回りの森を見渡し、それにつられて同じように周辺へ目を向けたガイルとイグルスも顔を強ばらせた。


 村周辺の森の奥。木々の間で、無数の何かが揺れている。

 間違いなく、自分たちを襲った、あの影の群体だ。


「待てよ、これ……囲まれてないか?!」

「本当にマズいぞ、逃げ場が無い!」

「どうする?! どうしたら良いんだ?!」

 影に追われていた時の恐怖を思い出し、三人は途端に取り乱す。

 そんな中、チガヤは冷静だった。顔を上げ、キッと影たちを睨みつける。

 そして声を張り上げた。

「私について来て下さい! 村の奥、崖の方へと走って!」

 三人へと指示を出し、自分が一番足が遅いと自覚しているチガヤは一目散に駆けだす。

 慌てて三人がチガヤの後を追いかけてきた。すぐに追いついた彼らは、それぞれ焦った声を上げる。

「おい、お前……チガヤ! 崖って、行き止まりだぞ?!」

「そういえば、俺たちがこの村跡で追い詰めたあの時も、崖の方へ走っていったけど……っ」

「でもあの時、すぐに探索してもお前たちは見つからなかったぞっ? ま、まさか、崖から飛び降りるとか言わないよな?!」

 そう言っている間に、早々に村の奥へと辿り着き、目前には崖が迫る。

 チガヤはその淵へと立つと、三人を振り返った。

「そうです。ここから飛び降ります」

「いやいや、待てよ、いくら何でも自殺行為だ!」

「待てません。影はそこまで追ってきています」

「こんな所から飛び降りて助かる見込みはあるのか?!」

「それは……やってみないとわかりません。でも」

「ふ、巫山戯るなよっ、俺たちに心中しろって言うのか?!」

 そう叫ばれても、チガヤは怯むことはなかった。

 ただ彼女は、真っ直ぐに三人を見つめる。


「私を、信じてください」


 三人は息を呑んだ。

 この時、三人の視界では、西日がちょうどチガヤの背後を照らしだしていた。

 凜とした声と、強い眼差し。彼女の赤毛は西日の光と色に透けて輪郭を曖昧にし、あたかも後光が差しているかのように見せ。

 その立ち姿は、あまりにも神々しく。

 神を信じ崇め、導きを必要として『赤の使徒』の狂信者となっていた彼らの心を動かすには、それは十分な光景と状況下であった。

 三人は恐怖に身を震わせながらも、歯を噛みしめ、腹を括る。

「わ……わかった、お前を信じるぞ!」

 ガイルがそう言えば、あとの二人も大きく頷いた。

 森の奥にいた影の群れは、気付けばすぐそこにまで迫ってきている。じわじわと、隙間なく距離を詰め、もはや崖以外の逃げ道はない。それでも今すぐに飛びかかってこないのは、チガヤの手元に水神の遺物である鱗があるからか。

 影たちを牽制しつつ、チガヤは三人へと両手を差し出した。

「私に掴まってください、手を離さないように」

 そう言えば、三人はすぐに従ってくれた。チガヤの右腕にガイル、左腕にイグルスとテッドがしがみつく勢いでそれぞれ掴む。

 崖の淵に立ち、チガヤは大きく、深呼吸をした。


「――いきます!」


 チガヤの合図と共に、全員で崖の淵から一歩を踏み出した。

 一瞬だけの浮遊感。すぐに四人の体は落下する。

 落ちる先には轟々と音を立てる激しい川。目を閉じずに自分たちの行く先を見定めていたチガヤは、目の前に、自分たちと同じ速度で落ちている色鮮やかな蝶がいることに気が付いた。

「土神様――」

 呼びかけた、その刹那。

 蝶を起点に白い光が視界に広がった。

 この白さはなんだろうか。ひんやりとして、冷たく、寒い。

 ああ、これは、雪だ。

 そう脳内で正解に辿り着いた時、白い光から視界が晴れた。

 いつか見た、雪の景色。

 そこに佇む、白い外套を頭から被った赤髪の女性が。


 気付けば水の中にいて、チガヤは慌てて水面へと飛び出した。

「っ、げほっ、けほっ」

 一気に息を吸い込んでしまった為に噎せてしまうが、構わずに顔を上げた。

 チガヤの回りにはガイルとイグルス、そしてテッドの三人が、水の中で腰が抜けたように呆然と座り込んでいる。

「チガヤ」

 声がする。この声は、ロキだ。

 振り返ったチガヤは、ロキの姿を確認すると共に、ここが見慣れた泉の中だということを瞬時に把握した。


 そして、この場に青年がいないということも。

 

「俺自身が言えた事ではないが……君もよくやるよ。まさか君だけでなく、他に三人もつれて帰ってくるとはな」

 ロキが手を差し出しながら苦笑する。

 チガヤはその手をとり、立ち上がった。


「すみません、遅くなりました。チガヤ、ただいま戻りました……!」



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