第16話 「誕生日」

 空が澄み渡り、清々しい秋晴れの日、クラリスの誕生日パーティーは和やかに進んだ。クラリスは今日で20歳になった。


 別邸の使用人たちは、クラリスにとって初めての誕生日パーティーを完璧にするために、終業後なのにもかかわらず、何日も前から温室をパーティー仕様に飾り付け、準備を整えた。


 温室は本邸と別邸の間にあり、本邸で働く使用人たちは、その準備を何ごとだろうかと噂し、覗いてみようとしたが、チェイスはパーティーが終わるまで温室を立ち入り禁止にしてしまったので、遠目に見ることしかできなかった。更にパーティー当日は庭園へ出ることも禁じた。


 チェイスがそこまで大事にしている伯爵夫人を、ひと目見たいと思う者も多かったが、バイオレットが追い出された今も、クラリスが本邸へ移らず、別邸に隠れ住む理由は、長年受けてきた虐待に原因があると知らされた使用人たちは、クラリスに同情し、チェイスとクラリスが別邸でゆっくりと愛を育んでくれているのなら、今は我慢しようと話し合い、庭園を盗み見ようと思う不届き者は一人もいなかった。


 温室へ初めて足を踏み入れたクラリスの鼻先を、花の艶やかな香りがくすぐるように掠めていった。


 室内にいるとクラリスの目は、役目をすっかり忘れてしまったように役に立たなかったが、屋外ならば機能を取り戻したように、花が咲き乱れる景色をその瞳に映した。


 初めての誕生日パーティーを素晴らしいものにしたくて、ジョナサンはクラリスの好物のチョコレートを、たっぷり使って大きなケーキを作った。


 ウエディングケーキよりも大きなそれにクラリスは目を丸くした。そして【Happy Birthday Lady Clarice】の文字に目頭を熱くした。


 今までパーティーへ行っても会場をすぐに抜け出し、使用人棟へ逃げ込んでいた——パーティーの最中、使用人棟のキッチンに来る者はいないので良い隠れ場所だった——クラリスにとって初めて、きちんと参加したパーティーだった。


 チェイスからダンスに誘われたが「踊れない」と答えた。子供の頃にダンスレッスンを受けたが、ダンスと呼べるようなものではなく、殴られたり蹴られたりすることの方が多かった。


 クラリスのこれまでの生活を考えると、骨ももろくなっている可能性が高い、転ばないよう注意が必要だとファニングから言われていたチェイスは、目が悪いクラリスに正式なワルツは危険だと判断して、クラリスを抱き寄せ、ダグラスが弾くピアノに合わせて体を揺らした。


「これならクラリスも楽しめるだろう?音楽に合わせて体を揺らすだけだ」


「はい、楽しいです」


 クラリスは初めてのダンスを、チェイスやレイチェルたち皆と踊り、最後にノースウッドと踊った。


「クラリス、誕生日おめでとう」


「……ありがとうございます」父がこんな穏やかな笑みをクラリスに向けるなどと、以前は想像できただろうか、ずっと嫌われていると思っていた父から、クラリスが大事だと言われても、素直に受け止めきれず半信半疑だった。


「私からの誕生日プレゼントは別荘だ。お前の母、アビゲイルと私は子供のころに決められた許嫁だった。でも私はアビゲイルを一目見た瞬間、恋に落ちてしまったよ。アビゲイルは14歳で私は12歳だった。アビゲイルは生まれ育ったウェザースの土地が大好きだと言っていた。そのウェザースに別荘を建てることにした。クラリス、お前のものだ」


「……ありがとうございます」母はクラリスの出産で命を落としたのだから、当然クラリスは母を知らなかった。母さえ生きていれば、あの日、母ではなく自分が死んでいればと幾夜も考えた。長い年月、生死でしか繋がれていなかった母と、故郷という新たな繋がりを持つことができて、クラリスは涙がたまり目を瞬いた。



 ガーデンパーティーの後、皆でオペラハウスに移動した。チェイスはオペラハウスを貸し切っていた。これならクラリスは誰とも会わず、心ゆくまでオペラを観劇することができる。


「毎年君にオペラハウスを丸ごとプレゼントする」チェイスは少年のようにいたずらっぽく笑った。


「嬉しいです。ありがとうございます」クラリスはチェイスとノースウッドにエスコートされオペラハウスの階段を登った。堂々と正面から入る気分はとても良かった。


 この日の出来事はすぐに社交界に知れ渡った。父であるエンディコット公爵はクラリスに別荘を贈り、夫であるベレスフォード伯爵はクラリスのためにオペラハウスを丸ごと貸し切った。


 更にはクラリスが、いつでも気兼ねなく行けるようにと、オペラハウスにクラリス専用の出入り口を作る計画があるらしいと、新聞は大袈裟に書き立てた。


 今まで険悪だと思われていた父と娘の関係は、グレッグが逮捕されたことで事実が明るみに出た。


 これまでクラリスを馬鹿にして、からかいの対象にしていた貴族たちは、クラリスが政界のフィクサーであるエンディコット侯爵サイモン・ノースウッド、経済界の中心であるベレスフォード伯爵チェイス・カヴァナー、この有力な2人から大事にされていると知り、手のひらを返したようにクラリスへ、パーティーの招待状が続々とベレスフォード邸に送られてくるようになったが、チェイスは全てクラリスには伝えず処理した。


 突然仲良くしましょうと言われたところで、クラリスが喜んでお茶会に参加するとは思えないし、チェイスはクラリスを自分の目が届かないところへ行かせたくなかった。

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