第15話 「多幸と多難」
クラリスは仔犬に『神の贈り物』を意味するセオドアという名を付けた。
「セオ、今日のおやつはこれだけよ、食べすぎるとレイチェルに叱られてしまうわ」クラリスは午後3時にセオドアと庭園でティータイムを過ごした。
セオドアはとても賢く、クラリスの目が悪いことを察しているかのようにクラリスの隣に寄り添った。
仔犬ならば飛びつくこともある。しかし、セオドアはダグラスやレイチェルには飛びついたり戯れたりもするが、クラリスには決してしなかった。
毎日のブラッシングや歯磨き、耳の掃除までクラリスは甲斐甲斐しく世話をした。だから、クラリスの真心がセオドアにも伝わっているのかもしれない。片時もクラリスから離れなかった。
これをバディと呼ぶのだろうとレイチェルは微笑ましく思った。
セオドアが別邸に来てからのクラリスは明るくなり、笑い声が聞こえることも多くなって別邸で働いている使用人たちの活力がみなぎった。
別邸は明るい気運に包まれていたが、本邸はそうではなかった。バイオレットの浮気が発覚したのだ。
チェイスは王国議会へ出席するため首都ロンズデールに赴いていて、予定よりも1日早く戻ってきた日の出来事だった。
子供は昼寝をしている時間帯だったが、頭の痛くなるような煩わしい議会から疲れて帰ってきて、一番に見たいものは目に入れても痛くないほどに可愛い我が子の顔だ。
チェイスは帰宅するなり真っ直ぐ子供部屋へ向かった。ドアを開けた瞬間目に飛び込んできたものは、渇望した愛しい我が子の顔ではなく、愛人のバイオレットと忠臣だと思っていた部下のキスシーンだった。
それからは大騒ぎだった。チェイスは部下に殴りかかり、バイオレットは放心状態、子供は騒ぎに目を覚まし泣き喚く。伯爵邸はカオスと化した。
この騒ぎは後日、ダグラスからクラリスに伝えられた。
最近は3日に一度の頻度で、チェイスは別邸へ様子を見に来るようになった。
クラリスとセオドアがピクニックを——ジョナサンに、サンドウィッチやスコーンが沢山入ったバスケットを作ってもらった——楽しんでいるところにチェイスは、「参加してもいいだろうか」と言って混ざった。
5歳は老け込んだような沈んだ顔つきのチェイスをクラリスは気の毒に思った。
「お疲れのようですね、ハーブティーはいかがですか?庭師のジェイクがとても詳しくてブレンドしてくれるのです。レイチェル、リラックスできるハーブティーを伯爵様にお出ししてもらえますか?」
「承知しました」レイチェルは体の弱いクラリスのためにと、ジェイクがハーブの勉強をこっそりとしていることを知っていた。彼が厳選してブレンドした茶葉が入っている瓶から茶葉をすくいティーポットへ入れた。
「今日はピクニックに丁度いい気温だけど、最近は寒くなる日も多くなってきたから風邪など引かないよう気をつけるんだぞ」チェイスが言った。
「レイチェルが抜かりなくしてくれますから、私は贅沢なことに、ただセオドアを可愛がっていれば良いだけなのです」クラリスはくすりと笑った。
クラリスの第一印象は獲物のウサギだったが、今はビクビクとしたところは無く、愛犬に惜しみない愛情をかける儚げな女性だ。
レイチェルの手入れやファニングの栄養管理が功を奏したようで、結婚当初、荒れていた肌や髪も艶やかになり、楚々とした美しさで絶世の美女と言っていいほどだった。
最近では診察もできるようになってきたが、セオドアがファニングに懐いたおかげで、クラリスの警戒心が和らいだからだった。
初めて診察した後でチェイスはファニングから絶望的な報告を受けた。
夜盲症はかなり進行していて、これといった治療法はなく、原因も何かの栄養が不足しているのだろう、ということしか分からない、進行を食い止められるよう栄養管理に手を尽くすしかないという見解だった。
チェイスはクラリスの目が見えているうちに、沢山のものを見せてやろうと計画した。
背中の傷に関しては、まともな治療を受けたことがなく、傷口に塩を塗るような痛みを加えられていたのだろうと、ファニングは憤りを感じ、冷静ではいられず盛大に顔を歪ませ、チェイスに報告した。
だから、クラリスは医者を怖がっていたのだ。チェイスはクラリスを痛めつけた奴らに同じことをしてやりたかった。
グレッグは今も檻の中だ。檻の中にいることを幸せに思うだろう。出てきたらチェイスから残虐な拷問の末に殺されるのだから。
柔らかく微笑みセオドアを愛おしそうに撫でるクラリスに、チェイスは胸が高鳴るのを感じ、そんなまさかと否定した。
「私は大馬鹿者なのだろう。バイオレットを愛していたが、私はバイオレットに最初から裏切られていたようだ、しかも、相手は親友のように思っていた従兄弟だ。従兄弟には妻子がいるのに何故と思ったが、単純なことだ。私が今死ねば、ベレスフォード伯爵の第一継承者は息子だ。従兄弟自身は男爵家の子息だから継承権が無いに等しい、バイオレットを利用してカヴァナー家を乗っ取るつもりだったんだよ」
チェイスの子供が伯爵を継承した後で、その従兄弟がカヴァナー家を乗っ取れるとするならば、子供の父親はチェイスではないということなのだろうかと思いクラリスは訊いた。「——親子鑑定を?」
「ノースウッド閣下に口添えしてもらって、王室から親子鑑定の魔道具を借り受けることができた。結果は予想通り、息子の父親は私ではなかった。明日バイオレットは子を連れて伯爵邸を出て行く」チェイスは情けなく笑った。「それから、子供の戸籍も訂正すことができたから、あの子供は君の子供でもなくなった。陛下から叱責を受けて罰金を払うことになってしまったが、身から出た錆だな」
レイチェルはチェイスにハーブティーを差し出した。「ハイビスカス、ローズヒップ、オレンジブロッサムのブレンドです」
いつもより少し態度が柔らかいレイチェルをチェイスは怪訝に思った。チェイスをいい気味だと嘲笑っているのか、それとも間違いを正したチェイスを評価してくれたのか、チェイスには分からなかった。
チェイスは一口飲んだ「いい味だ」
「よろしかったらお持ち帰りになられますか?」クラリスが訊いた。
「ああ、ありがたい。最近は心休まらないことが多くてな」別邸に来る時だけが一息つける貴重な時間だとチェイスは思った。
クラリスは心配そうに視線を向けて言った。「好きなだけお待ちください」
「クラリス、もし君が本邸に移りたいのなら部屋を用意する。伯爵夫人として本邸に迎えようと思うが、どうかな?」
「——私は、ここにいたいです。ここは人の出入りがありませんが、本邸は人の出入りが多く落ち着かない気がします」
「そうか、君がそうしたいのならそれで構わない」要望を臆せず伝えてくれるようになったのは嬉しいが、チェイスは何故かその答えに落胆した。「そういえば、そろそろ君の誕生日だね、去年は色々あってきちんと祝えなかったから今年は祝わせてくれ。派手なことはしないし、パーティーに呼ぶのは別邸の使用人たちとノースウッド閣下だけだ」
戸惑うクラリスにダグラスが声をかけた。「使用人たちも、クラリス様の誕生日を祝いたいと申しております」
誕生日パーティーなんて初めてのことで、クラリスは照れながら言った。「それでは、よろしくお願いします」
今日、ここへ来た理由はクラリスの誕生日パーティーへ主役を誘うためだった。チェイスは拒否されるのではと不安に思っていたが、受け入れてくれたクラリスに、満面の笑みを向けた。
「良かった。プレゼントしようと思って、もう既にドレスを発注してしまったからね、嫌だと言われたらどうしようかと思ったよ。パーティーの後はオペラの観劇を予定しているんだ」
クラリスの顔が暗く沈んだ。「外出はしたくありません」
申し訳なさそうに、小さな声で言ったクラリスを、チェイスは衝動的に抱きしめたくなったが、既の事で思いとどまり、レイチェルから引っ叩かれる事態にならずに済んだ。
「もしも、去年のオペラハウスでのことを気にしているのなら、2度とあんなことにはならないと誓う。あれはバイオレットが君を困らせるために仕組んだ罠だったんだ。今回はネズミ1匹だって君に近づけさせはしない」
「ご迷惑をおかけしてしまいます」
「迷惑だなんて思っていないよ。私はクラリスと一緒にオペラを観に行きたいんだ。だから私に付き合ってくれると嬉しい」
「——分かりました」クラリスはまたオペラを観たいと思っていたので、嬉しそうに微笑んだ。
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