第11話 「悪因悪果」

 オペラ鑑賞当日、クラリスが心配だったチェイスは同行することにした。


 クラリスは社交界では有名人だ、チェイスと結婚したことも知れ渡っている。その夫であるチェイスがオペラハウスの席を予約したことも知られているだろう。クラリスにちょっかいをかけてくる男がいるかもしれないと警戒してのことだ。


 クラリスのドレス姿を見てチェイスは胸が高鳴った。舞踏会ではいつも保守的で地味なドレスを着ていたが、今回はレイチェルが張り切ったのだろう。


 雪景色を思わせるようなスノーホワイトのドレスに、夜空を思わせるようなミッドナイトブルーのドレープがサイドへと流れ落ち、満点の星がキラキラと輝いている。


 鞭による背中の傷跡は魔道具を使って綺麗に消されていた。この魔道具は傷を隠すだけでなく、瞳を魅力的に見せたり、ぱっちりとした二重にしたり、鼻を高くすることが出来る優れもので、家が買えるほどに高価だ。


 どうやらレイチェルは、カヴァナー家の財産をすっかり使い果たす勢いで、クラリスを飾り立てることに注力しているようだとチェイスは苦笑した。


 少し肩を出しすぎな気がするが、若い令嬢たちの間で流行っているドレスのデザインだ。これが独身の女性の間で流行っている理由が分かった。妻の露わになった肌を極力人目に晒したくはないと思い、チェイスは仮面夫婦のくせに何を考えているのかと自嘲した。


「もしも何かあったらいけないからね、私も同行することにした。クラリスは私が一緒でも構わないかな?」


「はい、お気遣い感謝いたします」


「それじゃあ行こうか、伯爵夫人、お手をどうぞ」


 チェイスは手を差し出し、その手にクラリスがおずおずと手を重ねた。


 その光景をバイオレットが物陰から憎々しげに見つめていたことに、チェイスもクラリスも気がつかなかった。


 会場の裏口に馬車をぴたりと止めてもらい、クラリスは誰にも会うことなく席までたどり着けた。


 初めてのオペラは、大きな音にびっくりしたけれど、隣にはレイチェルがいて手を握っていてくれたし、皆が舞台を見つめていて、誰もクラリスを見る者はいない。そのことがクラリスの心を軽くした。


 終盤ヴィオレッタが愛を胸に抱き、天に召されるシーンはとても感動的で、クラリスは涙が止まらなかった。

 それはレイチェルも同じで、クラリスとレイチェルは一緒に泣いた。


 そんな2人をチェイスは愉快そうに笑った。

「さあ、お嬢さん方、そろそろ涙を止めて家に帰ろう。私は腹ペコなんだ」


「もう、台無しにしないでください。伯爵様はロマンスが全く分かっていらっしゃらないのですね」レイチェルは口を尖らせて苦情を言った。


「男なんて誰もがそんなものさ、カント曰く、『真面目に恋をする男は、恋人の前では困惑し、拙劣であり、愛嬌もろくに無いものである』恋愛において男は臆病で幼稚だ。いつまでたっても女には勝てないんだよ」


 チェイスたちが裏口へ向かって廊下を歩いていると、誰かが呼び止めた。


「カヴァナー伯!こんな所で会えるなんて奇遇だな」


 チェイスは咄嗟にクラリスを背に隠し、レイチェルはクラリスをしっかりと抱きしめた。


「久しぶりだな、カーライル。ハンティントン伯爵のパーティーで会ったっきりだったかな」


「そうそう、あの時は面白かったな——そういえば、どうして裏口に向かってるんだ?」


 カーライルが芝居がかっている気がしてチェイスは嫌な予感がした。「馬車をこっちに待機させててな、お忍びなんだ」


 チェイスの背に隠されたクラリスを見ようとカーライルが身を乗り出した。「何だ?バイオレット嬢じゃないのか、てことはもしかして……ウサギちゃんか?」


「やめろ、そういう言い方はよせ」やはりカーライルはクラリス・ノースウッドだと気づいて声をかけてきたようだとチェイスは苦々しく思い、カーライルの肩を押してクラリスから遠ざけさせた。


「何だよチェイス、お前だってそう呼んでたじゃないか。狩の獲物みたいだって。せっかく結婚までして捕まえたんだから、俺たちで美味しくいただいちゃおうぜ」


 手を伸ばしてクラリスの髪を掴もうとするカーライルの手をチェイスは払いのけた。

「やめろ!事情があるんだ。すまないが失礼させてもらう」チェイスはクラリスの腰に手を回し、足早に馬車へ向かった。


 震えるクラリスの体をさすり、落ち着かせているレイチェルの視線がチェイスに突き刺さった。


「クラリス、すまない。嫌な思いをさせてしまった」あんな奴と同類だとクラリスに思われることが耐えられなかった。「私はずっと君を誤解していたんだ。それで、心無いことを言ってしまったことがある。今はとても後悔している。謝らせてくれ」チェイスは頭を深々と下げた。


 クラリスは何も言わず、悲しそうに琥珀色の瞳を俯けた。


 チェイスは馬車の中で、ずっと無言だったクラリスを別邸へ送り届け——予定では一緒に食事をするつもりで用意させていたが、食事どころではなくなってしまった——本邸へ戻ろうとしたチェイスをレイチェルが呼び止めた。


「以前パーティーで酒に酔った男たちがクラリス様に懸賞金をかけて追い回したことがありました。狩の獲物とはそういう意味ですよね。彼らはクラリス様を凌辱しようとした。私はその男たちを軽蔑します。今後同じようなことがあれば、たとえ伯爵様が相手でも、私はクラリス様の侍女として脅威を排除しなければなりません。肝に銘じてください」レイチェルは憤慨して立ち去った。


 チェイスは顔を手で覆い、後悔の沼に沈んだ。懸賞金をかけた胸糞悪いレースに参加はしなかったが、止めもせず助けもせず、面白がって揶揄やゆした。あの時クラリスが下劣な奴らに捕まっていたらと思うと吐き気が込み上げてきた。


 出かける時は良かった。オペラも楽しく観れた。それなのに過去の自分が全てを台無しにした。


 事情を知らなかったからと言って、女性の尊厳をけがすような発言をしたことが悔やまれた。


 過去に戻って愚かな自分をボコボコに殴ってやりたい衝動に駆られた。

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