第10話 「クラリスの病状」
クラリスの脆弱な体を案じたチェイスは、別邸を、しばしば訪ねるようになった。
事情を知らされていない、本邸の使用人たちは、その行動に戸惑ったが、伯爵と夫人が仲良くなり、バイオレットがいなくなれば、喜ばしいと思っていた。
代々、カヴァナー家に仕えてきた誇り高き彼らは、伯爵の愛人だからと、平民であり教養の無い——学ぶ姿勢があれば良かったが、バイオレットは学ぶことを放棄した——バイオレットへ、頭を下げなければならないことに、嫌気がさしていた。
チェイスは医師を数人手配し、1番人当たりが良さそうな、ケンドリック医科大学の助教授プレストン・ファニングを、クラリスに引き合わせようとしたが、クラリスが拒否した。そこでチェイスは、医師の意見を聞いてみようと思い、応接室に呼び出した。
「Dr.ファニング、わざわざ来てもらったが、妻との面会は難しそうだ。極度の人嫌いでね、すまない」
「構いませんよ。人嫌いでなくとも、医者は、マッドサイエンティストかのように思われるようで、いつも怖がられていますから、慣れています」ファニングは、来客用の椅子に礼儀正しく座り、面白がるように笑った。
顔や頭に年齢が出始めた39歳の彼には、妻子がいるということも、選抜の理由になった。チェイスは独身の男を、クラリスに近づけたくなかった。
「Dr.聞きたいことがあるのだが、妻は目が悪いようで、ほとんど見えていない。治せるだろうか?」
「視力が低下した患者が、治ったという症例は、聞いたことがありません。夫人が目に異常を感じ始めたのは、いつからでしょうか?」
「覚えていないそうだ。子供の頃から、徐々に悪くなっていったと言っている。手元の字を読むことはできるが、ままならないようで、本は侍女に読んでもらっている。原因として考えられるものは何だ?」チェイスが訊いた。
「そうですね、生まれつき目に、何らかの異常があるのかもしれませんし、遠視や近視といった屈折異常なのかもしれません。屈折異常ならば、眼鏡をかけることで、不自由なく過ごせます」
「眼鏡か、医者に診てもらうのも難儀しているのに、眼鏡を作るなんてこと、できないだろうな」
別邸の使用人たちは、クラリスを甲斐甲斐しく世話してきたおかげで、彼らがすることに、クラリスが疑心暗鬼になることはないようだが、知らない人となると、何かされるのではと、疑心暗鬼になってしまうようだった。
チェイスは、どうしたものかと、椅子の背に寄りかかって、天井を見上げた。
「他に症状はありませんか?」
「日中の屋外ならば見えているようだが、薄暗い室内は、昼間でも、ほとんど見えていないみたいだ」
「なるほど……」これを言えば気分を害してしまうかもしれないが、黙っていれば伯爵夫人は、失明してしまうかもしれないと思い、ファニングは意を決して言った。「栄養失調かもしれません」
「栄養失調?それで、視力というものが低下するのか?」
貴族という人種は、往々にして他人の意見を聞こうとしないが——特に学者は鼻につくらしい、だから助教授である自分が、夫人の主治医に選ばれたのは意外だった——流石は、資産総額がイングラム王国一だと言われているだけはある。
若くして父を亡くし、伯爵を継承することになった当代当主も、聞く耳を持っていて、才覚のある人物のようだ。
怒ったようには見えないチェイスを見て、ファニングは安堵した。
「貧しい平民によく起こる病気で、夜盲症と言います。以前は、毒物や感染によって
チェイスは、顎に手を当て、少し考えてから言った。「今から言うことは、他言無用にしてくれ」
「はい、もちろんです」この約束を破れば、殺されるということなのだろうと、ファニングは理解して頷いた。
「妻は長い間、虐待を受けて育った。詳しくは知らないが、食事を与えられないことも多かったのだろう。ここへ来て1年以上になるが、未だに食が細いままだ」
「失明の原因になり得ますね。このまま栄養が不足し続ければ、完全に視力を失ってしまうかもしれません。船乗りに多い壊血病も栄養不足——特に酸味のある果物が不足することで、壊血病になるのではないかと言われています。壊血病に
「Dr.ファニング、食事の管理ができるか?」
「はい、食が細いということなので、栄養価の高いものを中心に、食事を楽しめるようなメニューを考えます」
「よろしく頼む。他にも悪いところがあるかもしれない、侍女のレイチェルと相談しながら、ゆっくりでいいから、診察もできるよう努力してみてくれ」
「承知しました」
チェイスは、ファニングとの話し合いの後で、別邸へ向かった。クラリスが医師の来訪に動揺していると報告を受け、心配になったからだ。
クラリスの部屋の前には、護衛騎士が5人立っていた。
護衛騎士は通常、24人が3班に分かれて、交代で24時間護衛の任務にあたる。
室外は、ドアの前で廊下を警戒する騎士が2人、室内は、窓の前で屋外を警戒する騎士が2人と、護衛対象から目を離さない騎士が対象の背後に1人、中と外を行き来し、全体を把握するリーダーが1人という体制で行う。
5人が外にいるということは、リーダーが1人だけ中にいる状況だ。この異例の人員配置は、人との接触を嫌うクラリスの負担を、減らすために考えられたのだろうと、チェイスは推測した。
クラリスを驚かせてはいけないので、ダグラスが先に、チェイスの来訪を知らせに行った。
ダグラスの合図を待ってから、チェイスは部屋に入った。
案の定、騎士はクラリスの背後に立ち警護するのではなく、気配を殺して窓の前に立ち、いつでも剣を抜けるよう身構えていた。
背後に立たれるのを、クラリスが怖がったのだろうとチェイスは思った。
クラリスはレイチェルと、服のカタログを見て話をしていた。レイチェルは上手くクラリスを落ち着かせたようだ。クラリスの愛らしい笑顔を見て、チェイスは胸を撫で下ろした。
「クラリス、チェイスだ。突然訪ねてきて、すまない。医者が来たことに動揺したと聞いて、どうしているかと思ってね。落ち着いたようで良かった。君の体が心配だから、医者を呼んだが、君が嫌がることを、無理にさせようとは思わない。嫌なことは嫌だと言ってくれて構わない」
「はい、お気遣い感謝いたします」
「彼の名はDr.プレストン・ファニングだ。Dr.ファニングは、君の食が細いと聞いて、食事を楽しめるような、栄養のあるメニューを考えたいと言っている。彼に食事の管理を任せてもいいだろうか?」
「……ジョナサンはどうなるのですか?」クラリスは恐る恐る訊いた。
「勿論そのまま、ここで働いてもらうよ。Dr.ファニングが考えたメニューを、ジョナサンに作ってもらうんだ」
「ジョナサンのお給料に、影響しませんか?」
「ああ、ジョナサンを心配しているんだね。クラリスは何も心配しなくていい。ジョナサンには、これまで通り働いてもらうし、待遇が変わることはないと誓おう」
クラリスはほっとした。「分かりました。Dr.ファニングに、メニューをお任せします」
他人から痛めつけられ育ったというのに、他人を気遣えるほど、優しい人間になるものだろうか?これは、クラリスの生まれ持った優しさなのだろうと、チェイスは思った。
そして、そんな女性を軽蔑し、愚図でのろまな臆病者と罵った自分が、どれほど非情な人間なのかを思い知った。
「ところで、観たいオペラは決まったかな」
「椿姫を観てみたいです」クラリスは遠慮がちに答えた。
「初めてのオペラに丁度いい作品だ。良い選択をしたね」
「今は当日、何を着て行くか、相談していたところなのですよ」レイチェルが言った。
「どれでも好きなドレスを選ぶといい。初めてのオペラだからね、記念に私がプレゼントしよう」
「ありがとうございます」クラリスは嬉しそうに笑った。
こんなに可愛く笑う人を、どうして虐待だなんて、酷いことができるのだろうかと、チェイスは憤った。
虐待について調べているというエンディコット公爵から、まだ詳細は入ってきていない、必ず罪に問うと言っていたから、クラリスが心の重しを、少しでも捨てられたらいいと、チェイスは考えていた。
チェイスもクラリスを傷つけた。その罪をこうやって、彼女の好きなことをさせてやることで、償えているのだろうか、足りないのではないかと、心が沈んだ。
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