ペパーミントの氷解
「ふうん、これがレオの頼んだ絵?なかなかいいできなんじゃない」
「当たり前だろう。俺の仕事なんだからな」
アトリエの窓辺に飾られたカンバスは、外の夕闇に浮かぶ街灯や家々から漏れ出すキャンドルの灯りに照らし出され、きらきら輝くようだった。ぼろぼろに砕けてしまった人形が、美しく蘇ったような錯覚すら覚え、レオの胸に暖かい懐かしさを呼び起こさせる。
「ほ、ほんとに、ありがとうございました…!ジャンさんにお願いしてよかった!」
「まだ乾くまでに時間がかかるがな。ここは寒いし乾燥しているから、明日の昼までには乾くだろう」
「で、これって額はどうするの?」「額?」
「だって美術館とかにある絵画って、だいたい綺麗な額も含めて作品じゃない?」
額のことなんてさっぱり考えていなかった。美術館など縁のないレオはぽかんとしてしまって、揃って眉をひそめる2人を交互に眺める。
「しまった!額のことを忘れてたな。今そのサイズの額はアトリエにないんだ」
「じゃあ額縁屋に行くの?明日頼んで間に合う?」
「いや、近所の店は年末休業中でな」
「まずいじゃない!どうすんのよ!」
「簡単な木枠ならすぐ組めるがなあ、それじゃ簡素過ぎるし」
「そう…そうだ!ならこれ使いなさいよ」
何も口を挟めないレオに向かって、マチルダがポケットの中から何かを差し出す。手のひらに受け取ると、それは淡いピンク色のシルクのハンカチだった。
「そのハンカチを一旦ばらして、フリルに縫い詰めて額のまわりにくっつけるの!いいアイデアでしょ?」
「おお!洒落てるじゃないか」
「えっ!?そんな、君のハンカチなのに…できないよ」
「はあ!?あんたね、このあたしがいいって言ってるんだからできるに決まってるでしょ!貸してみなさい、言ったでしょ、あたしって裁縫得意なんだから!」
「あ、ほんとに、いいの…?」
「いいってば!ジャンはさっさと木枠組みなさいよね!」
「わかったよ、まったくとんだわがまま娘だな」
「マチルダ!エリザちゃん来たわよ」「え!?」
エリザはぎょっとして顔を真っ赤にすると、後でやるからあんたが持ってて、とハンカチをレオに押し付けて階段を駆け降りて行った。マチルダが僕のためにあんなことを言ってくれるなんて。まっさらで手触りのいいベビーピンクのハンカチを撫でる。小学校の頃のことが嘘みたいだった。
「わだかまりは消えたか」
「…僕、いいんでしょうか」
「いいんだろう。あのマチルダがいいと言うんだから」
「…はい!」
「降りよう。俺たちにもことを見届ける権利がある」
頷いて、ジャンと共にベーカリーへと向かう。もう看板の明かりは消えていて、街灯だけが鮮やかな黄色の扉を照らしていた。
扉を開けるとすぐ、アメリが立っていた。しい、と口の前に人差し指を立てて、奥のテーブル席を向く。窓辺にある丸い2人がけのテーブルに、見たことのない女の子がひとり、座っていた。腰まである長い黒髪をポニーテールにして、夜の町を歩く人々をガラス越しに眺めている。
「あれがエリザさん…?」
「そう。今マチルダがケーキを準備してるわ」
言うが早いか、店の奥からマチルダが現れる。手にはクローシュを被せた皿を持って、ぎこちない様子でゆっくりとテーブル席へ近付いていった。マチルダの手足は緊張のせいかキャンディケインみたいにかちこちで、レオは内心ひやひやしながらマチルダを見守っていた。
「お、お待たせ、エリザ。わざわざ来てくれてありがと」
「うふふ、マチルダってば、お顔が引き攣ってる」
「う、うるさいな、緊張してるんだって…」
マチルダはいつになく弱気な表情を浮かべていた。レオはがんばれ、と心の中で声援を送る。メリークリスマス、と震える声で呟いて、マチルダがクローシュを取り去る。皿の上には、ケーキで出来たドレス姿の愛らしい人形が乗っていた。
「まあ!なんて可愛いんでしょう、これがケーキ?」
「そ、そう…あたしが作ったの」
「マチルダが?あの調理実習でオムレツを真っ黒にしてた不器用なマチルダが!」
「うるさいってば!!まあ、たくさん、いろんな人に、手伝ってもらったんだけど…」
マチルダはちらりとレオ達3人の方を見た。アメリが手を振ると、エリザは長い髪を揺らしてお行儀良くお辞儀を返す。
「とっても素敵!せっかくだから、みなさんで一緒に頂きましょうよ」
「ま、まあ、別にいいけど…」
照れ臭そうに手を仰いで、マチルダがレオ達を呼ぶ。改めて近くで見たケーキはとっても綺麗だった。人形の上半身はジャンの手によって作られたマジパン細工でできていて、お菓子とは思えないくらい緻密に顔や髪の毛などが作り込まれ、本物の人形のようだった。絵が描ける人はみんな彫刻もできるものなんだろうか。
少し勿体無く思うが、マチルダはそろりとマジパン細工を外して、ケーキにナイフを入れていく。薄く切ってドーム型に繋ぎ合わせたスポンジの中に、クリームとフルーツがぎっしり詰まっていて、断面もカラフルで楽しい見た目だ。
「ど、どうぞ。エリザ」
「ありがとう。いただきます」
エリザがフォークを口に運ぶ。マチルダは息を飲んでその光景を見つめていた。エリザは少しすると目を丸くしてマチルダを振り返る。
「…これ、カステラのショートケーキ?どうして…?」
「ああ!よかった、同じ味なんだ!ね、あんたのいちばん好きなケーキを準備するって言ったでしょ?」
「信じられない!あなた…もしかして私のために?すごい、マチルダ!すごいわ!」
どうやらマチルダが作っていたのはショートケーキと呼ばれるお菓子だったらしい。エリザは感極まった様子で立ち上がると、マチルダを力強く抱きしめた。マチルダはびっくりして固まっていたが、やがてぎゅっと親友の背中を抱きしめ返す。
「あなたって最高!でもどうして?私、こんな素敵なプレゼント、あなたに用意できてなくってよ!」
「だって…最後くらい、エリザに、喜んでほしかったの」
「最後?最後って?」
「エリザ。外国に行っても元気でね」
マチルダは意を決したようにエリザの目をまっすぐに見つめる。その頬に涙が伝っているのがレオにもわかった。雪解け水のような雫は外の光を反射してきらきらと輝く。
「マチルダ…?」
「エリザ、…っあ、あたし…ごめん、やっぱり無理、決めてたのに…笑顔で送り出そうって…」
マチルダはしゃくりあげながらエリザの胸に弱々しく縋りついた。エリザはマチルダの背を優しくさすり、涙の粒を指先で拭ってやる。
「や、やっぱりやだ、エリザ、行かないで!ずっと友達だって言ったじゃない!」
「マチルダ」
「お願いよ…またあたしをひとりぼっちにするの?さみしいよ、エリザ…」
アイスブルーの瞳を溶かすみたいに泣き続けるマチルダの姿に胸が痛む。いつの間にかエリザの目にも、薄らと涙が浮かんでいた。
いつだって強気で、人に弱みを見せることを嫌っていたマチルダが、剥き出しの脆い感情を親友にぶつけていた。何だかレオまで泣きそうになってしまって、ぎゅっとシャツの裾を握りしめる。エリザはマチルダの濡れた頬をそっと包み込んだ。
「泣かないで、マチルダ。大丈夫」
「なにが?!なんにも大丈夫なんかじゃない、あたし、」
「大丈夫よ。お土産をたくさん持って帰ってきますから」
「そんなの、いつになるかなんてわかんないくせに!」
「いいえ。明日の朝発って、年が明ける頃には戻りますわよ」
「え?」「ええっ?」
今、なんて?その場を満たしていたセンチメンタルな空気が急速に冷凍されたみたいにぴしりと固まった。その場の全員が耳を疑うような台詞が続けて飛び出してくる。
「もう、マチルダったら、早とちりさん!私確かにお祖母様に会いに行きますけれど、なにも引っ越すわけじゃありませんわよ!」
「はああ!?だ、だって」
「きっとクラスメイトか誰かが、私が冬休みに旅行する、って噂してたのを断片的に聞いて、勘違いしてしまったのね。あなたって思い込みの激しいところがあるもの」
マチルダもレオ達もこれには呆気に取られてしまって、エリザだけがころころと笑っていた。ひとりで愉快そうな親友に、マチルダが文句の一つも言ってやろうとしているのが見て取れるが、エリザの笑顔は口を挟むにはあんまりにも幸せそうだった。なんだか力が抜けてしまって、あはは、とレオの口をついて笑い声が漏れる。マチルダはすっかり意気消沈してしまって、エリザの肩にもたれかかった。
「う〜、なんだ、帰ってくるのかあ…よかった…」
「もう会えないと思ったの?」「…うん…」
「私のマチルダ、あなたのことを放って、遠くへ行ってしまうわけがないでしょう!」
ずっと一緒よ、と微笑むエリザに、マチルダはぐずぐず泣きながら何度も頷いた。
「なんだか私たち、お邪魔虫だったわね」
「そうさな。ひとしきり感動の抱擁が済んでから呼んでくれ」
「うるさい!も、もう済んだわよ!」
「嫌だわ私ったら、皆さんを差し置いてはしゃいでしまって…はやく召し上がってみて!とっても美味しいから、ね?」
そうマチルダにウインクして、エリザはまた一口ケーキを頬張った。切り分けられたケーキは、たくさんのフルーツがオーナメントみたいに色鮮やかで、白いクリームが雪を纏ったようで。ひとくち食べると心がふわりと温かくなる、サンタクロースの魔法みたいなケーキだった。
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