▼便宜上・第六階層~:振り出し以下

 空気の匂いが変わった。

 じめじめとした水が腐った淀んだ匂いから、乾いた空気が流れている。

 壁は相変わらずの石壁だが、時折壁を走る虫には見覚えがあるものも少なくない。

「ジェイスの地図はここまでか」

 最初に見つけた地図に、この先はない。

 これを記したジェイスという人物はどうなったのだろう。

 ここまでこれたのだから脱出できただろうか。

 彼は危険を常に避けてきたはずだ。

 それは地図に記された無数のバツのマークからもわかる。中にはそれほど危険のないルートもあって、行ってみると近道だったりもしたが、危険を感じて避けたのだろうと思われる。

 地図係は最初は俺が見ていたが、いつの間にかボグルが担当している。

 ボグルは方向音痴だと自称していたが、実際のところは几帳面な正確で、安全に道案内をしてくれていた。

 ファハンの魔法は、最初の不安もどこへやら、短い詠唱で繰り出す大魔法で葬り去った怪物共は数しれずだ。

 だが。

「慎重に行こう」

 なんとなく迷宮に名残惜しくなる自分の感傷を大きく首を振って振り払い、俺は言った。それが迷宮の呪いではないとは言い切れない。

 それにここから先は地図がないのだ。

「怪物どもはもう物の数ではないな。やつがれの魔法もいらんだろう」

 ファハンの言葉にはどこかほっとしたような響きがあった。

 俺たちは数度の回り道をしながら、迷宮を進んで行った。

「暗闇だ」

 扉を開けると、その先は真っ暗闇になっている。

「おい、ファハン、魔法の光は」

「これは魔法の闇だ。魔法の光も通らない。もちろんエルフの目もな。危険だな。避けたほうが無難だろう」

 なかなか話がわかるようになったじゃあないか。

 俺が扉を閉めようとしたところで、視界の隅で何かが光ったようにみえた。じぃい……という音も聞こえる。

「どうした」

「敵かも」

「闇の中からか」

「わからん。だがあとで背後を襲われるのは嫌だな」

 俺たちは魔法の闇に目を凝らした。

 しかし、本当の危険は背後にあったのだ。


「うわっ!」

 ボグルの悲鳴が聞こえて、俺は振り返った。

 人間だ。

 みずぼらしいボロをまとった男が一人、そこにいた。

 そいつはボグルを、魔法の闇が支配する扉の奥に突き飛ばした。

 普段なら、重心が低くて屈強なボグルは容易には押し込まれなかっただろう。

 しかし、扉の中の闇を覗き込んでいたため、ボグルはたたらを踏んで扉の奥に転がり込んでしまう。

「くそっ! 敵……」

 俺は剣を抜こうとしたが、ボロを着た男は俺とファハンにまとめてしゃにむに抱きついてきた。痩せこけた姿からは信じられないほどの腕力だ。息はドブのように臭く、髪の多くは抜け落ちて、顔は頭蓋骨に皮が張り付いたかのようだが、その目は炯々として輝いていた。俺は振りほどくことができず、なんとか扉の前で踏ん張るのが精一杯。

「ボグル! こいつを!」

 叫ぶがボグルの声が聞こえない。なんだ? やられたのか?!

「ドワーフ! 返事をしろ! ……うわぁ!」

 悲鳴じみてボグルを呼んでいたファハンが、どん、と突き飛ばされて扉の向こうに転げ込んでしまう。

 俺たちの光源はファハンの持つ杖だけだ。その杖が闇の中に消える一瞬、俺はもみ合いの中で男の右腕に、傷のようなものがあるのを見た。

 その傷はおそらく尖った石か何かで刻んだものだろう、文字のように見えた。

 その文字にはこうあった。

 ジェイス。

 俺の力が一瞬緩んだのを、ジェイスは見逃さなかった。

 彼は俺を最後に突き飛ばし、闇の中に押し込んだ。

 ジジッ……という耳障りな、虫の羽音のような音が聞こえて、俺は一瞬目がくらんだ。

 そして次の瞬間には何もわからなくなった。

 あの男が地図の主だったのかも、ずっとついてきていたのがあいつだったのかも。何もかも。


 ◇◆◇


 この迷宮でこんなふうに意識を失うのはこれで三度目だ。

 一回目はもちろんここに来た時、二回目はキマイラをファハンが大魔法で倒した時。そして三回目に目が覚めた時、今度はおそらく一瞬だったとは思うが、本当に一瞬だったかは定かではない。なにせ俺たちは、全く別の場所にいたからだ。

 そこは概ね5マス四方の部屋で、最初に俺たちが目覚めた井戸のどん詰まりと同じだった。違うのは、きちんと扉があることくらい。それ以外はほぼ全く同じと言っていいだろう。

 匂いや空気の重さも。

「下に戻された……」

 ファハンは呆然と呟いた。

「戻された? 落とし穴かなにかか? そんな落ちた気はしないぞ」

 いやまぁ、意識がなかったから本当にそうかはわからないのだが。

「物質的に落ちたわけじゃない。瞬間移動の魔法だ」

「瞬間移動?」

「そういう魔法があるんだ。言っただろう。地下の最下層に魔法使いの住処があって、その魔法使いは地上までの近道を必ず持ってるって。まさか歩いて上がる近道だとでも思っていたのか」

 ファハンは軽くパニックになっているようだ。もともとこいつは冷静なのはポーズだけで、割とよく切羽詰まるというか、取り乱すことはよくあったから、いまさらこのくらいでは驚かない。

「待ってよ。でも瞬間移動でどこにでも行けるなら、ここはさっきまで居た迷宮とは違う場所ということはないか?」

 ボグルの疑問はもっともだったが、ファハンは天を仰いで早口で続けた。

「は! ドワーフの理解力には恐れ入るな。説明しただろう。迷宮とはどんなところかを。迷宮は、逃さないんだ。迷宮から脱出させたくない。他の場所に飛ばすなんてことがあるか?」

「ない……だろうな」

 それは今までの迷宮探索の傾向で何となく分かる。

 迷宮の主は、俺達の持っているこの財宝や武器を回収したいだろう。俺たちの命と一緒に。

 だが、俺たちを突き飛ばしたのは……。

「ここはどこだ。今まで来たことのあるところか?」

 俺は最後に見た、あのジョイスの炯々とした目を思い出して、背筋が寒くなるのを感じた。

「脱出しないと」

 あれは、俺たちの未来かもしれない。今まで迷宮の呪いというものを軽く考えていたきらいがある。なんとなく迷宮に居続けたくなる、くらいの。だが、あのジョイスの姿はそんなものではない。居続けるのみならず、他人の足を引っ張って迷宮に留めようとする。彼も脱出を目指して進んでは戻り、戻っては進みしながらあの地図を作ったのだろうに。壁に自分の名前を書き込む姿を想像し、俺は冷や汗をかいた。

「わからん」

 ボグルはうめいた。

「構造自体は似たような部屋が多かったし、あの将棋の部屋みたいな特徴があればいいんだが」

「まぁ……少し旅は長くなるが、なんとか上を目指すことには変わりない。全部の部屋を回ったわけでもないしな」

 俺は努めて明るく言って、扉をゆっくりと開いた。


 廊下は他の場所とは全く違っていた。その違いで、俺たちはここが完全に今までの場所とは違う場所だということがわかった。

 通路の幅は2マス程度とそう変わらないが、壁には等間隔に松明かかかっている。まったく消える様子がないところを見ると、ファハンが作ったような消えずの松明だ。それらは彫刻された金属の松明かけにかかっていて、壁のあちこちには飾りであろう柱が設えられていた。

 最も手近な壁には金属のプレートがはめられており、なにか見たこともない文字が刻まれている。帝国公用語で使われる文字ではない。もちろん俺には読むことができない。

「おいファハンこれ……」

 俺が言うよりも早く、ファハンは目を見開いて青ざめて、その場にへたり込んだ。

「なんて書いてあるんだよ」

 ファハンは首を振って、杖にすがるように立ち上がる。

「大魔法使い、くろごろものラスタンの迷宮。ラスタンの邸宅」

「なんだそりゃ」

「わかりやすく言えば……ここが最下層ってことだ。これを信じるなら」

「ここが?」

 俺は周囲を見渡した。これだけ消えずの松明を灯すことができるのも、主の魔法使いの住居だから、というわけだろうか。

 なら、と、俺は思う。

「悪くないじゃないか」

「何が」

「最初にファハン、お前言ってたろ。さらに地下に降りようって。チャンスなんじゃあないか? その魔法使いの……ええと、ラスタン? とやらの勝手口を使えば地上に出られるんだろう?」

 案外状況は悲観するほどではないかもしれない。この階層のどこかに、迷宮の主ラスタンだかの、地上へとつながる近道があるはずだ。それが、今ここに来てしまったときのような瞬間移動装置なのか、果てしなく長い階段なのか、はしごなのか、下からアブクのでる水の柱なのかは分からないが、たしかに自分が迷宮の主としたら、出入りにいちいち長い迷宮をてくてく歩くなんてまっぴらだ。勝手口を作ってそこから簡単に出入りできるように作っておきたい。

「あぁ、出られるだろうさ」

「なんだよ。お前が言ったんだぞ。そりゃあ下の階層に行くほど怪物は強くなるとは聞くけど、これまでだってうまくやれたんだ。お前の魔法だってあるんだし……」

「ないんだ」

「何がだよ」

「やつがれの魔法だ」

 ファハンはがっくりと肩を落とし、絞り出すように言った。

「もうおしまいなんだ。どん詰まりだ。魔法が残っていないんだ」

「はぁ?」

 エルフは座り込むと、やけっぱちのように叫んだ。

「魔法はもうないんだ! 今まで使っていた魔法は、この杖に蓄えられていた魔法で、わたしの魔法じゃあないんだ! ぜんぶこの杖のおかげだったんだよ! 借り物だったんだ!」

「待てよ。意味がわからない。お前は帝国魔法大学の凄腕魔法使いで、杖があれば魔法が使えて、その大魔法でキマイラを倒して、今まで戦って来たんじゃあないのか?」

「違う」

 ファハンは首を振った。

「わたしは森で才能を認められて、帝国魔法大学に出ていった。そうさ。森の同世代の間では最高の魔法使いだったんだ。でもそれは、わたしの生まれた小さな森での話だった。知っているだろう? 帝国魔法大学にはすべての種族や地方から選りすぐりの未来ある魔法使いがやってくるって」

「あぁ」

「わたしは意気揚々と大学に行ったが……そこではわたしは、なんてことない、三流魔法使い見習いに過ぎなかったんだ……。わたしはそもそもたいして勉強しないでもある程度魔法を使えた。だから才能を認められたんだが、大学でわたしに勉強の仕方を教えてくれる人はいなかったし……今更聞くこともできなかった。故郷には勉学順調の手紙だけを出して……わたしは酒場で偉大な魔法使いのエルフ顔で座って、何も知らない人間たちに尊大に振る舞って見せることしかできなかったんだ」

 こいつマジか。

 俺は一転、自信なくうなだれるファハンに、なんと声をかけたものか思いつけなかった。まずい。こいつの悩みや虚勢は、そりゃあこいつにとっては大問題だろうが、なんなく共感できる部分はある。俺も街に意気揚々と出てきて歌を披露したときの周囲の反応におおいに傷ついたものだ。案外話せるやつじゃないか。これが今でなければ酒場で飲み明かすのも悪くない気がする。しかし今は不味い。

「その……杖の魔法は後どのくらい残っているんだ?」

「五回……しぼって六回くらいかな。十分出られる算段だったんだ。脱出は……不可能だ」

 ここから脱出するなら、俺たちは協力しなければならない。多少弱かろうが、ファハンの魔法は不可欠なのだ。

「ボグル! お前だって脱出して、その……ディーモンとやらを倒さなきゃならないんだろう?!」

 俺はボグルに水を向ける。ボグルはかつて棲家をディーモンに滅ぼされ、一族の掟に則って復讐を果たすために旅をしていると言っていた。不運にも会えていないというが、頑固なドワーフがその目的を捨てるとは思えない。きっと力強い言葉でファハンを挑発してやる気を取り戻させてくれるだろう。

「ぼくは……」

 ぼく?

「ぼくもそうなんだ」

 ボグルはひげの奥でもごもご言って、ファハンの隣にしゃがみこんだ。

「ぼくの故郷はディーモンに滅ぼされたのは本当だ。その敵討ちをしなければならないのも……でも……ぼくは、戦士じゃない。ただのおもちゃ屋なんだ」

「おもちゃ屋?」俺は聞き返した。

「うん。故郷が滅びた時、ぼくは怖くて、ずっと店の奥で震えていた。故郷を失ったぼくは……他に行くところがなかったし……ぼくのおもちゃを喜んでくれていた子どもたちが死んだのも悲しくて、一族の掟に従おうとした。でも……できなかった」

 ボグルは気力を失ったようにうつむいたままだ。

「ぼくがディーモンと会えてないのは、ぼくが避けていたからなんだ。そういう噂を聞いては、そっちの方向と反対に進んでた」

「じゃあお前は方向音痴なんかじゃなくて」

「そうだよ。怖いんだ。怖いだけだ。本当はどこかでまたおもちゃ屋の店を開きたい。でもそれもできない……ぼくは棲家亡くしのドワーフだから……」

 通路の隅でうずくまるエルフとドワーフを見て、俺は絶句した。なんてこった。

「おい、しっかりしろよ。迷宮の呪いか? 出たくなくなるっていうやつ……」

「いいじゃないか」

 ファハンが顔を上げる。

「このままこの迷宮で過ごすのもいいかもしれない。味は良くないが食べ物と飲み物はある。財宝も。さっきは楽しかった。この迷宮に隠れ住んでしまえば、ボグルだってディーモンなんか探す必要はない」

「そうだなぁ」

「そうだなぁ、じゃねぇよ!」

 俺はさっきのジェイスの目を思い出した。やつはどの罠かは分からないが、絶望したんだ。こんなふうに。きっと。

 確かにこの迷宮の中で過ごす限りは、俺たちには使い道のない富がある。

 この最下層の怪物がどんなのかは知らないが、隠れ住むことくらいはできるだろう。なにせ水も食べ物もある。そこで三人で、ギターでもかき鳴らして過ごすのもいい。客はいないんだから、俺の歌に文句を言うやつもいない。比べられることもない。

 だけどそんなことに魅力を感じる訳にはいかない。

「ファハン! お前それでいいのかよ。森を出て魔法を勉強しにきたのにそれも全部忘れて、どこの誰かもわからない魔法使いのエサになって死ぬのか?」

「他にどうしようもないだろう」

「そんなことはない! ボグルだってそうだ。おもちゃ屋を開きたいんだろう? 敵討ちが嫌ならやめちまえよ。そんでおもちゃ屋を開こう! ギターを直してくれただろう? いい手並みだった」

「できない」

 ボグルとファハンはうつむいて首をふるだけだ。

「ロビン、お前だってたいして違いはなかろう」

 ファハンが半眼で言って、俺は言葉に詰まった。俺が吟遊詩人を目指して村を出て、そしてそうなれなくて傭兵剣士になったのは、それはそっちのほうが才能があったからだし、ベターな人生だと言っていた。だがそれは次善、セカンドベストであってベストではない。

 おれは確かに、不本意なんだ。そうだ、ずっとそれから目をそらしていた。俺は、不本意な人生だったんだ。

 どん詰まりか。

「つまり俺たちは不本意な人生の挙げ句どん詰まりに入り込んでしまった仲間ってわけだ。ファハンは大学でうまくいってない。ボグルは抱えなくても良い問題を抱えてしかもそれから逃げ続けている」

 俺は二人の腕を取って立たせようとした。ぐったりとした二人は動かない。くそうそんな根性あるんだったらさっき魔法の闇に突き飛ばされたときにもうちょっと抵抗しろよ。

「でも三人なら」と、俺は続ける「俺たち三人はどん詰まりで出会ったけれど、ひょっとしてだからこそ、組んであと一歩の所まで来ているんじゃあないか。さっき一緒に歌ったろ。俺にとっては久しぶりだったんだ」

「わたしだってそうだ。でも傷の舐め合いだろう」

「上等だよ。お前らが、俺に俺が本当は何がしたかったのかを思い出させてくれたんだぞ。責任を取れよ。こんな気分じゃ死ぬに死ねない」

「言いがかりだ」

「あぁ言いがかりだ。文句あっか。もうあと一歩だろう。この階層で出口を見つけて……脱出するんだ。俺たち三人で。そうしたらボグルはおもちゃ屋を開けばいい。ファハンはもう一回勉強しようぜ。俺は吟遊詩人になって帝都の酒場で歌ってやるよ。無視されたって構うもんか。あと一歩だ! そうなんだろ?」

「……あぁ。確かにそうだ」

 ファハンは唸って、立ち上がる。

「最下層は魔法使いの居室にすることがほとんどで、わたしの読んだどの資料でも決して広くない。当たり前だ。どこの世界の魔法使いが読書中に隣の部屋のドラゴンのいびきを聞きたいものか」

「確かファハンは言ってたよね。財宝を持ち帰って故郷を復興させたほうが祖先は喜ぶって」

「あぁ、言った。少なくともわたしならそう思う。自分の子孫が自殺するのを望む親がどこにいる」

 ボグルは立ち上がって、ハンマーを手に取った。

「行こうか」

 俺はほっとため息を付いて、前を歩きだす二人の姿を見る。二人は振り返って、怪訝そうに言った。

「早く来いよ。先頭はお前だぞ」

「どんな罠があるかわからんからな」

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