続5日目、友達

 水族館を出た賢太とソラは駅に向かって歩いていた。他愛のない話を心地よいリズムで続けていると、突然、不自然にソラの言葉が途切れた。プツリと千切れた会話になにかあったのだろうかと疑問を感じた賢太は、道の途中で立ち止まってしまった彼女のほうを振り返った。

 賢太の目に映ったソラは、目を見開いて一点を見つめていた。口をぎゅっと固く結んで、今にも泣きそうな顔をしていた。賢太が見た中で最も寂しそうで悲しそうな表情をしている彼女は、心配そうな視線に気づくと、賢太のほうに顔を向けて「ごめん」と震える声を落として、くるりと踵を返し、そして走り出した。驚いた賢太は一瞬、ソラが見つめていた方向を確認してから、遠ざかる少女の背中を慌てて追いかけた。

 ソラに追いつくのはあまり大変ではなかった。賢太が息を切らす彼女の腕を掴むと、彼女は抵抗することなくすんなりと足を止めた。手を放しても、彼女が逃げ出すことはなかった。ほっと胸をなでおろした賢太は、とぼとぼと力なく歩き出すソラの後ろを、何を言うでもなく、ただついていった。

 どんな言葉をかければいいのかわからない。きっと何を言っても意味がない。きっとできることは何もない。それでも、たとえソラのためにできることが何もなくても、彼女をひとりにしたくない、その一心で賢太は彼女の後ろをついて歩いた。

 ぼんやりと歩くソラが変な方向に進まないように、人にぶつからないように、たまにサポートしながら賢太は歩いた。

 そろそろ声をかけた方がいいかもしれない。

 賢太がそう思い始めたころ、無言を貫いていたソラが、足は止めないまま、ぼそっと声を発した。

「ごめん、付き合わせて」

 いつもの太陽のような明るさは感じられなかったが、その弱々しい声を聴くだけで賢太は安堵した。

「いいよ、気にしないで」

「ついていてくれてありがとう」

「ひとりにするのは心配だからね。もし話したいことがあるなら、何でも聞くよ」

 賢太はソラの存在に助けられてきた。5日間という短い時間で、彼女は賢太の心を暗闇の底から引き上げた。光をもたらしてくれた彼女が曇るのならば、今度は自分が彼女の心を軽くしてあげる番だと賢太は思った。元気にしてあげるのは無理でも、ほんのわずかでもいいから彼女の抱えているものを減らしてあげたい。

 ソラはしばらく黙り込んだまま歩みを進めたのち、ようやくその足を止めた。彼女は真横の建物を指さしながら、賢太のほうに顔を向けた。彼女は無理やり作ったと思われる弱々しい笑顔を張り付けていた。そうでもしなければ涙があふれてしまうのだろう。泣いたら、せき止めていたものが決壊し、もう止まらなくなってしまうから、無理やりでも笑顔を作って自分をごまかさなければ正気を保てないのだ。

 ソラはゆっくりと口を動かした。

「ここ、入りたいな」

 ソラが立ち寄りたいと示した場所はゲームセンターだった。さまざまな音が無秩序にうるさく鳴り響く空間は、今の彼女のまとう雰囲気とは真逆の場所だ。不思議に思いつつも、賢太は「いいよ」と彼女の望みを叶えることにした。

 いろんな音が充満するごちゃごちゃした空間。底抜けに明るい店の中を歩きながら、その空間には似つかわしくないような話をソラは始めた。能天気な音たちにかき消されてしまいような大事な音を賢太は逃さないように努めた。


 ソラの話の内容は次の通りだった。

 ソラは入学から卒業まで同じ学校に通ったことがない。親の仕事の都合で、頻繁に引っ越しを繰り返していた。離れがたい友達が出来ても、居心地のいい空間が出来ても、お気に入りの場所が出来ても、否応なしにその場を離れなければならなかった。本心では嫌で嫌で仕方なかったけど、親が申し訳なさそうにするから、彼女は笑顔で「大丈夫」と言うしかなかった。幼いころから笑顔で取り繕う癖がついていて、幸か不幸か、彼女の本心に気が付く者はいなかった。どこに行ってもすぐに周囲に馴染み、すぐに仲の良い友達を作り、楽しい学校生活を送った。

 スマホを手に入れてからは、仲の良い友達と連絡を取り続けられるようになり、寂しさは軽減された。でも、会いたくても会える距離にはいない。新しい学校に行けば新しい人間関係ができる。いつの間にか友人との連絡は途切れてしまい、結局、親しい友人はできなかった。

 友達はできるけれども孤独なソラは、高校2年生のとき、親友と呼べるような存在を手に入れた。2人は出会ってすぐに意気投合した。高校を卒業をした後、大学生になって新しい環境になって、新しい人間関係が出来ても、連絡が途切れることはなかった。離れた大学に通っていたが、必ず年に一回は顔を合わせていた。親友の存在により、ソラは孤独から解放されていた。


 ソラはそれはもう楽しそうに親友のことを話した。小さな出来事まで鮮明に覚えているようで、迷うことなく次から次へと話がソラの口から滝のようにあふれ出した。とめどない思い出。ソラにとっては、なにものにも代えがたい大事な大事な宝物なのだろう。

 記憶をなぞりながら、声を弾ませていたソラは、大学生の時のエピソードを話し終えると、それまでの楽し気な雰囲気は消え失せた。

 長い沈黙。ソラは適当なクレーンゲームの前で立ち止まった。そして、か細い声で、ソラは悲しそうに、申し訳なさそうに話を再開させた。

「私のせいで、親友も失っちゃった。さっき、見た? あの子の顔」

 賢太は迷ってから、首を縦に振った。賢太が見た、ソラの親友らしき女性は、ソラと同じくらい寂しそうな顔をしていた。こぶしをグッと握りしめていた。自分がそばにいなかったら彼女はソラを追いかけていただろうか、と賢太は考えてしまった。

 そっかあ、とソラは顔を上げて、喉の奥を鳴らした。

「私に悲しむ権利なんてないんだけどね」

 ソラは自嘲する。自分を蔑んで嘲って見下す。これでもかと自分を追い込んでいる人の顔。まるで賢太は鏡を見ているようだと思った。最終的に自分を追い詰めて苦しめるのは自分なのだ。

「理由は知らないし、聞かないけど、まだ2人のあいだには友情はあるって感じた」

「……そう、だといいな」

 ソラは一瞬ゆるりと口角をあげて、すぐに口を固く結んだ。上がった口角を無理やり引き下げたように賢太には見えた。

「でも、私と一緒にいても苦しめるだけ。一緒にいない方がいい。早く私のことなんて忘れた方がいい」

 自分自身に言い聞かせているような口調だった。必死にそう思い込もうとしているようだった。本心では親友と一緒にいたい。けれど、ソラの抱える事情がそれを許さないのかもしれない。賢太にソラが抱える問題はわからない。ソラも賢太が知ることを望んでいないのだろう。

 もし自分が幼馴染と離れなければならない状況になったら耐えられないと賢太は思った。漠然と、何の根拠もなく、ずっと一緒にいると思い込んでいる存在、居心地のいい存在を失うなんて考えたくなかった。

「仲がいい人と離れるのは辛いよね」

 ソラはコクリと頷いた。

「君の事情は知らない。話したくないだろうから話さないでいい」 

 賢太は一息おいた。

「事情を知らないから、言っちゃいけないこととかわからないから、嫌なこと言ったらごめん。でも、後悔はしないでほしい。ソラは離れるのが最善だって判断したんだろうけど、親友さんも、君もどっちも傷ついてる。何か事情があるんだから仕方ないのかもしれないけれど、僕がソラのそばにいられるのはあと2日だけだから、本当にそばにいてほしい人がいるのなら、それは離さないでほしい。確実にソラの心を支えてくれるから」

「でも、伝えたら悲しませちゃう」

 ソラは悲痛な声を絞り出した。決して大きな声ではないが、まるで叫んでいるようだった。

「きっと苦しめちゃう。知らないままでいた方がいい。もちろん、時間が許すかぎり親友として一緒にいたいけど、それは私のエゴでしかなくて。たったひとりの親友の悲しむ姿を見たくないから。それに、もう連絡先ブロックしちゃったから」

 親友でいることを諦めようとしている彼女。きっと悩んだ末の決断なのだろう。その判断に、たった7日間だけの関係の自分が口を出すべきか悩んだ結果、賢太はソラの選択に異を唱えるような自分の考えを伝えることにした。正しいかどうかはわからない。それでも、伝えるべきだと直感したから。

「聞いて。ソラ。親友が急に消えたら、僕だったら、すっごく取り乱して、泣いて、日常生活に支障が出るかもしれない。事情を知ったら悲しませちゃうんだよね。それでも、僕だったら知りたい。すべてが終わった後に、親友が苦しんでいたことを、人づてに知ったら、僕だったら、後悔する。どうして話してくれなかったんだろう。僕にできることってなかったのかな。気づいてあげられなかったって。大切な友達、親友だからそう思う。もし自分にできることがそばにいることなら、喜んでそばにいる」

「……あとで、深い悲しみが待ってたとしても?」

「もちろん」

 賢太は考えることなく即答した。

「僕なら、だけどね。ソラと親友さんの関係を知らないから参考になるかはわからないけど。悲しませたくない気持ちもわかるし、知らせてほしいって気持ちもある。どっちもわかるから、難しい判断だよね」

 黙り込んでしまったソラに、賢太は自分の話をすることにした。

「僕、パワハラで会社辞めたんだ。新卒で入社してたった半年足らずで。段々追い詰められていって、自分を責めるようになって。追い詰められちゃうんだよね。もとから自己評価低いって、幼馴染に言われてたんだけど、それが悪化した感じ」

 当時のことを思い出して震える体を、賢太はこぶしをグッと握りしめてなんとかこらえる。思い出すだけで一気に心が当時に引き戻されてしまう。会社とは全く異なるゲームセンターというガヤガヤとしたカラフルな場所に居ても、息が苦しくて震えが発生するのだから、会社という場所に足を踏み入れたらどうなってしまうのだろう。

 賢太はこれからのことを考えてうんざりしたが、今はその思考を振り払って、目の前の特別な友人に集中する。深呼吸をして全身を落ち着かせる。大丈夫。敵はいない。近くにいるのはソラだけだ。彼女は賢太が嫌なことは絶対にしない。

 何度か呼吸を繰り返すと、段々と震えが、恐怖が小さくなっていった。完全には消えないが、まともに話せる程度にはなった。隣から視線は感じるが、あえて無視をする。その視線が言いたいことが理解できるから絶対にそちらに顔は向けない。

 賢太は何事もなかったかのように少し前の出来事についての話を続けた。

「なんか、身動きが取れなくなっちゃうんだよね。大きな問題が起こると周りが見えなくて。取り繕うことだけはなぜかうまくできて。両親には迷惑かけたくないし。幼馴染は、ソラも知っての通り忙しいから、心配かけたくないし。だから、誰にも相談できなくて、どうしようもなくなっちゃって。で、それはやっぱ、長くは続かないわけで。ちょっとした違和感はずっとあったんだけど、見て見ぬ振りしてたら、家から出られなくなっちゃって。有休取って、休み続けて、そのままやめた。何があったか知った両親は、優しく受け入れてくれた」

 賢太はここで一度言葉を区切る。

「でも、幼馴染は違って、怒られた。あんなに怒ってんのは初めて見たよ。親友なんだから、生まれた時からずっと一緒なんだから頼れって。遠慮しないで話したいことがあるんならすぐ話せって」

 今にも泣きそうになりながら言葉をぶつけてくる景斗の姿を景斗は今でも鮮明に思い出せる。部屋にこもっている賢太のところへ遠慮なく乗り込んできた景斗は、思っていることを全部ぶちまけた。景斗が忙しそうで心配かけたくないから相談できなかったことを伝えると、彼はキレた。悲しそうに怒った。彼は親友に壁をつくられたと感じて悲しくなったらしい。二度と遠慮しない、と賢太が誓うことでなんとか景斗は落ち着いてくれた。

 賢太はソラのほうをしっかりと見た。

「ソラ、人は、親友っていうのは、自分が想像する以上に自分のこと思ってくれてるんだよ」

 ソラはゆっくりと賢太の顔を見上げた。

「……私が一方的に連絡を絶ったとしても?」

 震える声で問いかけるソラを元気づけるように、賢太はいつもより明るい声で「絶対に大丈夫だよ!」と言い切った。根拠がなくても信じてしまいそうなほど自信満々な声を出した。

「ソラの話を聞く限りはね。だって、大学がすごく離れてるのに、毎年必ず会ってたんでしょ。移動って大変なのに、ソラに会うために時間をかけてくれる人でしょ、幼馴染さんは」

 ソラは頷いた。

「なら、大丈夫! もし駄目だったら僕のこと恨んでもらってもいいからね」

「でも、もう連絡先ブロックしちゃった……」

 ソラは顔を歪めてうつむいた。

「ブロックしただけなら、ブロックリストから解除できるよ。まだ間に合うから、泣かないで」

「……泣いてない」

 ソラは顔を上げた。むっとした表情を見せたあと、ニッと口角を上げた。

「ありがとね。助かった。元気出た。辛いのに話してくれてありがと」

 賢太は表情を緩めた。全身に入ってた力がフッと抜けて、近くのクレーンゲームの台に寄りかかった。

「気にしないで。助けてもらった分を返しただけ。少しは元気になった?」

「うん。もちろん!」

「ならよかった」

「でも、ごめんね、引きとめちゃって。時間大丈夫?」

「僕はずっと暇だから大丈夫。ソラは?」

「私も大丈夫だから、少し、ここで遊んでこうよ。楽しい思いで作りたい」

 ソラの提案に賢太は賛同した。

 2人は満足するまで遊んだ。


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