5日目、友達と水族館
友達になって5日目、賢太とソラは水族館にいた。平日の午前中だからか、時期的な問題か、それとも両方か。想像以上に人が少なく、がらんとしていた。たいていの人間は学校へ行っているか仕事をしているのだろう。忙しなく動く社会なんて知らんと言わんばかりの非日常の静寂が賢太には心地よかった。
なぜ水族館にいるのかというと、理由は単純。ソラが行きたいと言ったから。いつもと違う場所に行きたいという話になり、しばらく行っていない場所がいいということになり、結果、水族館ということになった。彼女は高校1年生の時に友人と行って以来らしく、久しぶりに訪れてみたくなったらしい。賢太はもちろん了承した。ちなみに賢太は小学生の頃、学校の行事で連れていかれたのが最後だ。記憶も朧気で、どんな場所であったかほとんど覚えていない。
ほぼ初めての気持ちで、賢太は水族館に足を踏み入れた。
目をキラキラと輝かせながら軽い足取りで神秘的な空間を進むソラの後を賢太は、子どもを見守る親のような気持ちでついて行った。端から端まで見逃すまいとじっくりと見るソラは、新しいものが目に映るたびに「見て見て」と楽し気に賢太に報告する。跳ねるように話す彼女は屈託のない笑顔を浮かべている。
クラゲのエリアに入った時、賢太はソラの後ろを追いかけるのを忘れ、吸い込まれるように水槽に近寄った。賢太の目に映るのは、のんびりふわふわ漂うクラゲ。さまざまな色に照らされる彼らは幻想的で神秘的で非現実的だった。まるで夢の世界に迷い込んだようだ。賢太はソラに声をかけられるまで、美しくてマイペースな彼らに意識を支配されていた。ソラが居なかったら、賢太はいつまでも彼らに囚われていただろう。現実に戻ってこられないかもしれないと思うほど、賢太はクラゲという存在に惹きつけられていた。
現実に引き戻された賢太はソラの後ろをついて歩くが、心はクラゲから完全に開放されていなかった。ぼやぼやしていて危なっかしいと思われたのか、いつの間にか賢太の右腕はソラに掴まれていた。手をつないでいるわけではなく、どこかに行ってしまわないように腕を引かれている。
ようやく賢太の腕が解放されたのは、大きな水槽の前で立ち止まったときだった。悠々と泳ぐ魚たちに目を向けたままソラは口を開いた。
「クラゲ、好きなの?」
「どうして?」
「熱心に見てたから、好きなのかなって思って」
別に好きじゃない、と答えようとして賢太はやめた。その言葉が正しいのかわからない。そして、今もクラゲに囚われ続けている自分の心もわからなかった。クラゲのことを特別好きと感じたこともなければ、嫌いと感じたこともない。クラゲという生物に興味を持ったこともなく、テレビでちらっと見かける程度だ。それなのに、どうしてかクラゲがまとわりついて離れない。
「今日、水族館に来ることになって、スマホで調べたとき、クラゲの集合を見て気持ち悪いって思ったんだけど、実際に見て見るとそうでもなかった、っていうのが感想で、好きでも嫌いでもない」
ありのままの感情を言った賢太に、ソラは妙に納得したように「確かに好きって感じじゃなかったよね」と独り言のように呟いた。
賢太はソラのほうを見て首を傾げた。彼女は相変わらず海の欠片から目を離さないままに口を開いた。
「好きって言うか、飲まれてるって感じだったよね」
『飲まれてる』というソラの言葉がしっくりきた。賢太はクラゲに飲まれていた。全身を飲み込まれていた。悠々自適にただ漂うだけの彼らから目が離せなくなっていた。
腑に落ちた様子の賢太に視線を向けることなく、ソラは言葉を続ける。
「君は、きっと彼らのことがうらやましいんだね。何も考えないで、ただひたすらに水の中を漂う浮遊物がうらやましいんだよね」
私もその気持ちわかる、と共感をこぼすソラの目は確かに魚を追っているはずなのに空虚だった。彼女の目には何が映っているのだろうか。感情が抜け落ちたような彼女の表情を見ていると、なぜか胸が苦しくなって、賢太も魚群に視線を映した。魚群はガラスの外の様子なんて知らん顔で、相変わらず能天気に泳ぎ続けていた。
沈黙。2人は黙り込んだまま、ただ目で魚を追っていた。限られた空間をひたすらに泳ぎ続ける彼らはいったい何を思っているのだろうか。分厚くて頑丈なガラスの檻。海に比べたら小さすぎて窮屈なガラスの箱。水の中の彼らの目には人間なんて映っていない。命の危険も飢える可能性もなく泳ぐ生物たち。泳いでいればすべてが与えられる。
ああ、なんてうらやましいんだろう。
賢太はソラの言葉を理解した。
「ソラの言う通りだな。僕はあいつらがうらやましいんだ。何の心配もなく能天気に生きてそうなあいつらがうらやましくて憎らしくてうらやましい」
生きるために最適な空間を丁寧に用意されて、その中で一生を終える。身の回りの面倒は飼育員が見てくれる。濁ることのない透き通った水の中、限られた空間で生きるのに最適な空間で生きている。生かされている。
かわいそう、なんていう人もいるが賢太にはうらやましいとしか思えなかった。たとえ大海を知ることがないとしても、賢太は彼らがうらやましかった。
「ほんと、こいつら悩みなさそうでいいよな」
意識して明るめの声を出す賢太に、ソラは小さく笑った。
「衣食住に悩まなくていいっていいよね」
「将来に不安がなさそうでほんと、うらやましい」
「そうだね。さて、そろそろ次の場所行こっか」
少し前まで流れていた重い空気を吹き飛ばすように、ソラは元気に歩き出した。賢太もおいて行かれないように、大きな大きな水槽に背を向けた。
水族館を端から端まで見終わって、時計を確認すると、午後2時を少し過ぎていた。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。水の世界から現実に戻った2人は、空腹を感じた。ぐうっと賢太のお腹が鳴る。朝ご飯しか食べていないからしょうがない。ソラもお腹が空いたようで、2人は水族館の中にあるカフェに立ち寄った。
賢太とソラは同じもの、ホットドッグとパンケーキを頼んだ。空腹もあってか、2人はすぐに食べ終わった。パンケーキにはペンギンの可愛らしいイラストが描かれていたのだが、どちらも写真を撮ろうとはせず、ためらわずにナイフを入れた。お腹が空いていたのだから仕方ない。
「疲れたね。もうちょっとここで休も」
「そうだね。僕もしばらくこのまま休憩したい」
昼前からずっと歩き回っていたから足が岩のように重い。ソラと出会ってからほぼ毎日外出していたとはいえ、彼女と出会う前の賢太の運動不足の影響は大きい。一度座ってしまえば、しばらくは動くことができそうになかった。
ラジオ体操でも始めようかと賢太は本気で考え始めていた。何をするにもまずは体力。体力がなければなにもできない。毎日継続して動かなければ。
賢太が下を向いて考えこんでいると、ソラが「大丈夫?」と心配そうな声を出した。疲れすぎて元気がないとでも思ったのだろう。賢太はすぐに顔を上げて大丈夫だとソラに伝えた。
「自分の運動不足について考えてたとこ」
「動かないとすぐに体力落ちちゃうもんね」
「そうなんだよなあ、ほんと。そろそろ真面目に運動しないと」
ダンスもできないや、と賢太がこぼすと、「ダンスやってたの!」とソラが食いついた。
「やってたよ。幼馴染と一緒に。小学生の頃のことだけど」
「幼馴染くん、ダンス上手だよね。ってことは、ダイチも上手だったでしょ」
「僕は、そんなに。あいつについていくのすごい大変だった。運動はあいつのほうが飲み込み早くて、センスもあって、上達するのが早くて。それなのに、同じくらいのレベルを僕に求めてくるから、大変だよ。……でも、もう1年近く踊ってないから、もう無理かなあ」
きっともう幼馴染が求めるレベルのダンスはできない。賢太は背もたれに寄りかかり天井を見上げて、震える息を吐きだした。ダンスは好きでも嫌いでもない。幼馴染に誘われたら一緒に踊るだけ。ただそれだけ。ダンスというものに執着も何もないと思っていた。もう幼馴染と一緒に踊ることはできないと考えると、無性に悲しさがこみあげてきた。
ダンスレッスンに通い続けている幼馴染と運動すらしていない賢太。昔以上に2人の差が開いてしまったのは明らか。追いつけないのはしょうがない。昔からそうだから。でも、幼馴染との差が大きくなることについては、しょうがない、と賢太は割り切れなかった。もっと早く気付けばよかった。
「もう遅いよね」
ぽつり。すぐに消えてしまいそうな声。それをソラは聞き逃さなかった。
「そんなことないよ」
ソラの声は力強かった。賢太は思わず声のほうに顔を向けた。彼女の表情は真剣で、目は本気だった。
「遅いことなんてない。君にはまだまだ時間があるんだから、いくらでも取り戻せるよ」
ふっと表情を緩めて、ソラは微笑んだ。優しく、大丈夫だよと賢太をはげましているように思えた。
「ダイチならできるって思うよ」
「どうして?」
「そうだなあ。……直感的にそう感じるのと、あとは、私の願望も混じってるかな」
「願望?」
賢太は首をかしげた。
「ダイチの夢は全部叶ってほしいっていう願望。この世に生きてる人間全部の願いなんて叶わないけど、ダイチの願いだけは全部叶ってほしいって思うの」
「どうして?」
「もちろん、友達だからだよ」
賢太は納得した。納得せざるを得なかった。ソラの言葉に疑問なんて持てなくなった。友達だから、信じるし願ってしまう。その気持ちが賢太には痛いほどわかった。弱音を吐いていれば元気づけなくなるし、少しでも力になってあげたいと感じる。
「僕たちって、ちゃんと友達になれてるみたいだな。僕も、ソラの願いは叶ってほしいと思うよ」
ソラは目をぱちくりさせたあと、「ありがとう」と嬉しそうに、でもどこか寂しそうに呟いた。今にも泣きだしてしまいそうな彼女の笑顔に、賢太はどんな表情をすればいいのかわからなかった。
賢太の戸惑いが伝わったのか、ソラはいつもの明るい表情に戻って、いつもの調子で水族館の感想を話し始めた。それはもう楽しそうに話すから、つられて賢太の口角も上がった。
「ダイチも楽しかった?」
ソラにそう問われて、賢太は自信を持って頷いた。
「楽しかったよ。人がいない、自由に動ける水族館っていいね」
「私のペースに合わせてもらってた気がするけど」
「それはまあ、そうだけど。学校の行事で連れてかれるって、自由に動いていいって言われてもなんか不自由だったし。ソラに連れまわされるのは楽しいからいいんだ」
「それなら、よかった」
「楽しさを隠そうとしない人と一緒にいるの、けっこう好きなんだよね」
「ダイチはもっと全身で楽しさを表現してもいいと思うよ」
「それは、厳しいな」
2人は顔を見合わせて笑った。こんな時間が続いて欲しい、と賢太は思ってしまった。
しばらく話した後、そろそろ出ようということで、席を立った。
賢太とソラはお土産屋に立ち寄った。ざっと一周見回って、何もほしいものがなかった賢太はそのまま店を後にしようとしたが、ソラは欲しいものがあるらしく、「ちょっと待ってて」と言って店の中へ戻っていった。
戻ってきたソラは、手に水族館の袋を持っていた。袋の中から、青いイルカのキーホルダーを取り出して、賢太に渡した。
「これ、あげる」
「ありがとう。……僕、何も買ってない」
「いいよ。私が買いたくて買っただけだから。ほら、私の」
ソラは袋の中からもうひとつ、青いイルカのキーホルダーを取り出した。
「夢みたいな時間は夢じゃないって証明になるでしょ?」
賢太は手のひらの上のイルカを見つめる。現実であることの証明。この時間が終わったとしても、この2人の時間は、ソラとダイチの時間が確かに存在していたと感じられるもの。賢太はイルカを優しく握りしめた。
「大切にする」
「私も、大切にするよ」
「そろそろ帰る?」
「そうだね」
2人は出口に向かって歩きながら会話を続けた。
「明日はどうしようか」
「ソラは行きたいとこある?」
「もう一回、カラオケに行きたいな」
「じゃあ、明日、行こうか」
「そうだね」
次の日の約束を交わした2人は水族館を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます