母と2人の会話、未来に目を向ける

 賢太はソラと一緒に何軒も書店を巡り、小説や脚本の書き方を数冊見つけた。何冊か気に入ったものを購入し、ソラと別れて家に帰った。本が並んでいる場所に行けば長居せざるを得ない性分の2人は、一か所一か所、端から端まで本棚を見て回ったので、賢太が家に帰る頃にはすっかり日が暮れていた。結構歩いたせいで足が重くなったが、それも悪くないと思うほどに楽しかった。本に囲まれた空間はいい。

 賢太が家に入ると、玄関には母の靴が揃えて置いてあった。リビングのほうから料理をしている音がする。短い廊下をゆっくり歩き、ゆっくりと母が居るであろうリビングに続くドアを開ける。

「ただいま」

 声が小さくなってしまったが、しっかりと母の耳には届いたようで、おかえり、と優しい声が返ってきた。

「夕ご飯、いるわよね」

「うん。いる」

「まだ時間かかるから、お風呂入ってきなさい」

「わかった。お風呂掃除、できなくてごめん」

「そのくらい大丈夫よ。いつもやってもらってるんだから気にしないで」

「うん。ありがと」

 ぼそっとそう言うと、賢太はそそくさと自分の部屋に入った。荷物を置くとさっさと風呂に向かい、ゆっくりと風呂に入った。外を歩いて冷えたからだがじんわりと温まり、疲れが体から抜けていくようだった。しっかりと温まった賢太は、髪を乾かしてからリビングへ戻った。

 ちょうど母が夕食を作り終えたようだったので、賢太は配膳を手伝った。用意されていたのは2人分。今日は父の帰りは遅いらしい。つまり母と2人きりの食事。父親の帰りが遅い日は昔からたまにあるのだが、賢太が家にこもるようになってからは初めてだった。

 そういえば、賢太は気づいた。最近、母も帰りが早い。もしかしたら自分のことを心配していたから職場の人や友人と外食に行くことができなかったのかもしれない。もっとこのことに早く気付くべきだったのかもしれないが、気づきたくはなかった。賢太は胸が苦しくなったが、正面に母が座っているので、それを表に出さないように努めた。

 賢太にとっては気まずい時間。母がどう思っているのかは知らない。賢太にはそれを聞く勇気がなかった。賢太のことをどう思っているのか。聞きたいけれど聞きたくない。毎日毎日、賢太は何か言おうと口を開くが、どうしても言葉が出てこず、結局母の作ってくれた料理を詰め込むしかできずにいる。

 黙々と食事が進む。あっという間に夕食はなくなった。

 ごちそうさまでした、と手を合わせて賢太は立ち上がろうと椅子を引いたが、母に呼び止められ、元の位置に戻った。

「久しぶりに2人で話さない?」

 母にそう言われて、賢太は戸惑いながらも頷いた。正直、今すぐにこの場を去りたかったが、逃げても何も変わらない。でも声を発したらこの場を去るための言い訳を始めそうだったから、首だけを動かした。母親と向き合う機会を逃してはならない。友人と話すのとは違う、逃げ出したくなる独特な緊張感と不安感が、親との会話には存在している。少なくとも賢太はそう感じている。

 賢太はちらっと母の表情を伺った。怒っているわけでも悲しんでいるわけでも喜んでいるわけでもない。いたって普通の表情だ。いつもの母親だ。どうして呼び止められたのだろうか。賢太は机の下で手をもんだ。落ち着かない。

 そんな賢太の心情を知らないであろう、母が口を開いた。

「最近、外にたくさん出てるけど、体調は大丈夫?」

「……うん、大丈夫。心配かけてごめん」

「謝らなくていいのよ。ただ昔から体調崩しやすいから、ちょっと心配になっただけよ。もう昔よりもずっと体が強くなったのにね」

 母は優しく目を細めた。

「もう幼くないのに、いまだに昔と同じように接してしまうの。許してちょうだい」

 母はマグカップを両手で口元に運んだ。

「最近、あなたが外に出てて、それで楽しそうで嬉しいの。体調崩さないように気をつけながら、自分のペースで楽しんでね」

 なんて返せばいいかわからず賢太は視線をさまよわせた。昔と変わらず母は暖かい愛情で包み込んでくれる。自分は与えられた愛情に見合うだけの人間にはなれていない、賢太はそう思って膝の上でこぶしを強く握りしめた。

「……平日なのに家事出来てなくてごめん」

 そんなこと気にしなくていいわよ、と母は軽い調子で言って微笑んだ。

「あなたはあなたのやりたいことをやればいいのよ」

 賢太はまともに母の顔が見られなくなってしまった。呼吸が浅くなる。胸が苦しくて苦しくてたまらない。賢太は唇をグッとかみしめて、絶対に泣くまいとこみ上げてくるものに抗う。鼻がつんとする。

 賢太は大きく深呼吸をして、気管に詰まった塊を整理する。そしてゆっくりと顔を上げる。自分の思っていることを伝えるには今しかない。

 賢太は恐る恐る口を開いた。

「でも、迷惑かけてない?」

 少し声が震えてしまった。母の口が動くまでのわずか数秒が、賢太にとっては、耐えがたいほどの長い時間だった。心臓がバクバクと高速で動く。

 母が呆れたように口を開いた。

「なに言ってんの。迷惑なんて思うわけないでしょ。半年で会社辞めちゃったのは驚いたわよ。でも、理由が理由だったからすぐに納得した。むしろ、すぐに辞める判断ができて偉いって思ったわ。もっと長く続けてたら、手遅れになってたかもしれない。私はそっちのほうが怖い。だから、賢太、今は迷惑とか考えないで、自分がしたいと思うことをしなさい。私はしっかりと見守ってるから。安心して」

 賢太は耐え切れずに涙をこぼした。何があっても絶対に受け止めてくれるだろうという安心感が母の言葉にはあった。底知れない愛がそこにはあった。賢太の想像が及ばないほどに、母は賢太のことを考えて心配してくれていた。その事実に賢太は嗚咽を漏らした。嚙み殺していた声が次から次へとこぼれる。

 母はただ黙って手を伸ばして、涙が止まらない賢太の頭を優しくなでた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。ようやく賢太が落ち着いたときには、机の上はすっかり片づけられ、冷たくなっていたはずのマグカップからは湯気が薄く上っていた。

 賢太はのろのろと手を伸ばして、マグカップを手に取った。ほうじ茶の暖かさに体と心のこわばりが緩んだ。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「あのさ」

「なに?」

 賢太は今日決めたことを母には伝えておこうと決めた。まだ具体的には伝えられないけれど、ぼんやりとでも伝えたいと思った。居住まいを正して母の顔をまっすぐと見つめた。

「僕、やりたいことができた。まだできるかどうかわかんないけど。目指そうって覚悟したら伝えるから待っててほしい」

 そっか、と母は表情を柔らかくした。どことなく嬉しそうだと賢太は感じた。

「話してくれてありがとね。待ってるから、言いたくなったら遠慮なく教えて。私は、あと10年は元気で働くから、その間はちゃんと面倒見るから、安心してね」

「さすがにそれは……」

 そこまでは頼れない。賢太は何が何でも10年以内、いや5年以内には自分で稼げるようになりたいと思った。ひとり立ちして親孝行もしなければいけない。ここまでの深い愛情を見せられたら、絶対にそれ以上で返さなければならない。

「また、変に気負ってるでしょ」

 え、と言った口のまま固まった賢太を見て、母は呆れたように、やっぱり、と言った。

「あなたは昔からそうよね。どうせ、与えられた分以上に返したいとでも思ってるんでしょうけど、必要ないわ」

 でも、と賢太が口をはさんだが、でもじゃない、とバッサリと切り捨てられた。そして、母は正面から賢太の顔を真剣に見つめた。

「いい、ちゃんと聞きなさいよ」

 賢太はコクリと頷いた。頷くしかできなかった。

「あなたが今やるべきことは、休むこと。目標を見つけたならそれに向かって、無理せず自分のペースで進むこと。いい、無理せず自分のペースで、だからね。親のことなんて考えなくていいわよ。とはいっても私たちにも限界はあるから、10年後には自分で生き延びる力をつけてほしいっていう気持ちもあるの。だからね、その間に自分がやりたいって思うことに躊躇せずに挑戦してほしい」

 最後には母はもう一度「無理せず自分のペースでね」と強く念を押した。母は賢太が無理をしている姿を何度も見ているからこそ、心配でたまらないのだろう。

「わかった。気を付けるよ。ありがとう」

「そう言ってくれるのはありがたいんだけどねえ、やっぱり心配なのよ」

「そんなに心配する?」

「もちろんよ。昔は景斗くんが一緒にいてくれたからまだ安心できたけど、今は景斗くん忙しくなっちゃって、彼に任せるわけにもいかないからね。一層心配なのよ」

 母の言葉からは不安が痛いほどに伝わってくる。昔から母の景斗に対する信頼が厚すぎるほどに厚いのだ。子どもの頃、友達ができなかった賢太の唯一といっていい話し相手が景斗だった。学校に行きたがらない賢太を小中高の12年間学校に引っ張って連れて行ったのが景斗だった。大学1年生のときの一人暮らしを支えてくれたのが景斗だった。仕事が忙しくなっても賢太のことを景斗は気にかけてくれる。などなど、母が景斗を信頼する理由を挙げればきりがない。

 景斗のことを考えていると、賢太はこの前の日曜日の会話を思い出した。同居の話を賢太は前向きに検討している。だが、本当にそれでいいのか分からず、結論を出すことができない。せっかく母と話しているのだから相談してみるのもありかもしれない。そう思って、賢太は景斗に一緒に住まないかと誘われたことを話した。母は「いいじゃない」と、景斗の提案を受け入れる姿勢を示した。

「親元を離れてみるのもいいかもしれないわね。環境を変えた方がいいこともあるから」

「でも、この家を出て生活できるか不安なんだ」

 大学1年生の時のことが賢太の中でトラウマのようになっていて、それが景斗の誘いにすぐに返事できないひとつの理由になっている。

「そうねえ、今、無理するのはよくないかもしれないけれど、4月からなら大丈夫なんじゃないかしら。まあ、無理そうになったら家に帰ってくればいいわ。景斗くんも駄目って言わないだろうし、無理しないで帰ってきたくなったら帰ってきて、大丈夫そうだって思ったら、景斗くんのとこに戻ればいいんじゃない?」

「そうだね。でも、僕、家事、特に料理とかうまくできる自信ないんだよね」

「大丈夫よ。ちゃんとできてるから。いつも助かってるのよ。料理は、そうねえ、賢太ならネットでレシピ調べるとか、レシピ本買ってみるとかすれば大丈夫よ。私も料理まったくできなかったんだけど、続けてたら人並みにはできるようになった。そうだ、私が使ってたレシピ本、古いけど、いる?」

「もらってもいいの?」

「もちろん。もう使ってないからあげるわよ」

 ここで賢太は気づく。景斗との同居が決定したかのような会話が続いている。まだ返事してないのに。でも、この会話で賢太の心はほとんど決まった。難しく考えないでとりあえずやってみようと思えた。

「いろいろとありがとうね」

 賢太は改まって感謝を伝えた。

「まだまだ迷惑かけると思うけど、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。無理しないで自分のペースで進んでってね」

「わかった」

 2人は目を会わせて微笑み、改まった空間が緩んだ。

「お父さんにも話した方がいいよね」

「そうね。また明日にでも話せばいいわ」

「そうする」

 2人はしばらくぶりの親子の会話を楽しんだ。


 賢太は部屋に戻ったあと、ベッドにドスッと座り込んで、母と普通に話せたという事実をかみしめた。本も何冊か買えた。着実に未来へ向かって進み始めていると賢太は実感した。

 次は仕事について考えなければならない。もちろん小説家を目指すがそれがうまくいく保証はない。いつ芽が出るかもわからない。自分にできることは何だろうかと考えていると、ふと財布の中に入っている、1年ほど前に半ば強引に渡された名刺の存在を思い出した。それを有効活用するのもありかもしれない。その場合の景斗や両親への説明や仕事内容について考えなければならないが、今日はいろいろと疲れていて頭がうまく働く気がしなかった。考えるのは後日でいい。まだ時間はあるのだから。

 賢太は布団に潜りこみ、名刺の連絡先に電話をした場合の未来を軽く想像しながら眠りについた。


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