久しぶりの外出の疲れ、落ち着く電話
賢太は自分の部屋に入ると扉に背をつけてずるずると滑り落ちた。目はどこか虚ろでどこを見ているのかわからない。床に着地するときは音をたてないように慎重に。両親に心配をかけないように細心の注意を払う。
賢太は膝を抱えて顔をうずめた。奥歯をかみしめる。こみ上げてくるものをグッとこらえる。自分が情けなくて情けなくて仕方ない。どうしてこんなにも自分はひとつのことにとらわれ、そこから抜け出せないのか。今は近くに自分を攻撃する人間は存在してないのに、どうして前より深く沈んでしまっているのだろうか。怒り、悔しさ、失望などが混ざって熱を持った息をゆっくりと口から吐き出す。
賢太はついさっきまで両親と夕食を食べていた。いつもと変わらない雰囲気。いつもと変わらない両親。いつもと変わらない自分。そう。何も変わらなかった。何も変わらなかったのだ。いつもと変わらず、少なくとも賢太にとっては、居心地の悪い空間だった。両親がどう思っているかは知らないが、父や母と同じ空間にいると、呼吸するたびに肺に重苦しいものが溜まっていくようで、賢太は無性に逃げ出したくなるのだ。半年くらい続いていて、日に日に症状は悪化している。
でも、今日は大丈夫かもしれないと思っていた。昼間にソラと出会って、居心地のいい時間を過ごして、ちょっと元気になった。ちょっと元気になったから、ちょっとだけ電車に楽にのれた。ちょっとだけ道を楽に歩けた。ちょっとだけ朝よりもやが薄くなった。だから、家族との時間もちょっとだけ楽に過ごせると思っていた。いつもよりもちょっとだけ会話を楽にできると思っていた。
しかし、そうはならなかった。いつも通りの重苦しい雰囲気に賢太はとらわれていた。両親から賢太に対する態度は昔からあまり変わっていない。会社を辞めたからといって何も変わっていない。両親と3人の空間を『重苦しい』と感じているのは自分だけだと賢太は知っている。だから余計に自分のことが嫌になる。
今日は良い変化を期待してしまっていただけに、受けたダメージは深刻だった。だから、いつもはため息をついてどんより沈むだけなのに、今日は部屋に入った途端、小さく丸くなってしまった。自分を抱きしめる。喉に詰まる塊を吐き出してしまわないように。
いつまでそうしていただろうか。すっかり体は冷えきってしまった。風邪を引いたらソラとの約束が果たせない。それは困る。賢太はようやく全身から力を抜いて、冷たい床に張り付いていた冷え切った尻を持ち上げた。ゆっくりと立ち上がって、ふらふらとベッドまでの短い距離を移動する。ベッドに、ぼすんと倒れこんで少ししてからのそのそと布団の中に潜り込む。
布団は冷え切っていた。体が、ぶるりと震える。冷たい。寒い。最悪。どうやら芯まで冷え切った体は当分温まらないらしい。体を温めるには風呂がいいかもしれないが、両親が帰ってくる前に入ってしまった。二度も風呂に入るのは面倒だ。それにもう部屋の外に出たくない。両親と顔を合わせたら(一方的に)気まずい。これはもう自力で熱を発するしか無いようだ。どれだけ布団が冷たくとも、どれだけ自分が冷たくとも、きっといつかは温まる。ぽかぽかしてくるはずだ。
賢太は胎児のように体を丸めた。しばらくするとじわじわと温かくなってきた。温かくなってはきたが、まだ眠るには冷たすぎる。これでは冷たすぎて眠れない。それに足を伸ばしたら冷たい布に包まれることになって冷えてしまう。これはしばらく眠れなそうだ。
どうしようか考えて、スマホを手に取った。時間は20時を少し過ぎたくらい。寝るにはまだ早い時間だが、久しぶりに外を出たのもあり、体が温まりさえすれば眠れそうだ。体が温まりさえすれば、の話だが。
ずっと丸まってるのも疲れるからとりあえず足を伸ばす。せっかく温まってきた足先の熱が吸い取られる。すごく冷たいが、いずれ温まるだろう。人間だし。
スマホのメッセージアプリを開いて、一番上にある名前をタップ。最後のやり取りは昨日。相手は、毎日やり取りをしている幼馴染、景斗だ。
パパッと文字を打つ。
『今日外に出た』
とりあえず報告。昔から気にかけてくれる幼馴染には知らせておきたかった。
すぐには既読はつかないと思ってスマホを閉じようとした瞬間、小さく『既読』の文字が現れた。
そして間髪入れずに返信が。
『おー、映画見たか?』
はや。いや、仕事中じゃないのかよ。その疑問を打ち消すように、間をおくことなく続けてメッセージが出現。
『今、休憩中』
『見てない。心読んだ?』
『生まれたときからずっと一緒だからわかる』
『こわ』
『お前もだろ』
『それは、そう』
『映画は気が向いたら見てよ』
『気が向いたらな』
『今日あったこと聞きたいけど、時間なさそう』
『文字打つのは面倒だからしねえぞ』
『あとで電話しよ』
『何時?』
『11時くらいには』
『寝てるかも』
『起こすから大丈夫』
『何も大丈夫じゃねえよ』
『えー』
『起きなくても文句言うなよ』
よくわからないうさぎが全身で喜んでいるスタンプが景斗から送られてきた。どことなくあほっぽさを感じるうさぎだ。なんとなく見覚えがあるような、ないような……。あ。
『似てる』
『かわいいってこと?』
『なわけねえだろ』
『呼ばれちゃった。じゃあ後でね』
『あとで』
会話終了。
賢太はスマホを定位置の枕元に戻した。最近、スマホはあまり定位置から動かない。賢太はゲームもしなければSNSもほとんどしない。そのうえ、1日中部屋にこもっていることがほとんどだった。だからスマホを動かす必要がないのだ。
やることがなくなってしばらくぼんやりしていると、瞼がどんどん重くなって、ゆっくりと瞳を覆う。いつの間にか賢太は、自分の内側から湧いてくる言葉に苛まれることなく、穏やかに眠りに落ちていた。体を動かすことは安眠への第一歩であるらしい。
賢太の安眠は、電話を知らせる機械音によって中断された。しかとしてもなり続ける耳に障る音に、スマホをぶっ叩きそうになったが、手を軽く浮かせたところで、ピタリと動きを止めた。寝る前の会話がぼんやりと浮かび上がってくる。
そういや景斗と電話する約束してたんだった。
賢太は目覚ましを止めるときも優しく手探りでスマホを見つけ、間違えて切ってしまわないように慎重にスマホの画面をノールックでスライドした。3回目でうるさい音を止めることに成功した。
今度は微かに人の声らしきものがスマホから聞こえてくる。ぼそぼそと何か言っている。耳をすませば辛うじて聞き取れるが、会話はものすごくしづらい。
仕方なくスマホがあるほうに体を向けて、少し頭を持ち上げる。強い光に思わずギュッと目をつむる。目を薄っすらと開けて、スピーカーのマークをタップする。すると聞きなれて新鮮味のない声が、うるさいほどはっきりと耳に入ってくるようになった。ミッションコンプリート。というわけで、賢太は元の体勢に戻った。
布団は賢太の体温ですっかり温まっている。いつでもよく寝れそうな環境が整っている。が、うるさいほど名前を呼ばれているので、このまま気持ちよくまどろみに身を任せるわけにはいかない。
いったん名前を呼ぶのをやめさせるために、賢太は、んー、と眠気を隠さないぼんやりとした返事を返した。すると、よかった起きてる、と安心したような景斗の声が耳に入った。
わずか数時間の外出で疲れている賢太。対して景斗は朝から晩まで仕事をしてきているのに相変わらずの元気な声。元気すぎて逆に怖い。
眠そうな賢太を気にする気配も見せず、景斗はうきうきと話し始めた。
『なあなあ、今日、外でなんかいいことあったか?』
数秒のタイムラグ。
『……んっと、あったといえば、あった』
『なになに、教えて教えて!』
賢太は思わずうるさいとこぼした。景斗は悪い悪いとまったく反省してなさそうな元気な声を発した。寝起きでかすれ気味な賢太の声なんてかき消されてしまいそうだ。景斗は昔からテンションが上がると声が大きくなる性質を持っていた。そしてそれは年々酷くなっているような気がしなくもない。同じ空間にいるときならば、昔からのことだから、あんまり気にならないのだが、電話となったら話は別だ。シンプルにうるさいし、耳がぶっ壊れそうだ。
どうせ指摘しても無駄なので文句を言うことはせず、賢太は今日会ったことをこの上なく簡潔に伝えた。
『映画館は無理だった。本屋行ったら友達出来た』
『前半は理解できた。後半は言葉の意味はわかるけど、わからない。言葉通りなんだろうけど、お前がそう簡単に友達を作れるなんて信じらんねえな』
『それは、わかる。信じられないと思うけど、本当に起こったことなんだよな』
『何があったか教えてよ。話せる範囲でいいからさ』
しばらく無言の時間が続く。
こういうとき景斗は急かさず静かに待っていてくれる。ありがたい。ゆっくりと話す内容を考えることができる。今日あったことをどこまで話してもいいのだろうか。
しばらく悩んだ末、ソラのことはぼかして伝えることにした。
『映画館行けなかったから本屋へ行った。そこで、なんか本に手が届かなくて困ってる子を見つけた。で、なんやかんやあってカフェに行って、なんやかんやあって友達になった』
『へー、なんやかんやあったのね。よかったじゃん、友達出来て』
『まあ、期間限定だけど』
『なんで?』
『それは知らない』
『ふーん。賢太がいいなら別にいんじゃない? 楽しかった?』
『まあ、それなりには』
『ならよかった。つーか、その友達良いな~。俺とも遊ぼうぜ』
拗ねたような声。お前忙しいからしょうがないだろと言うと、変なうなり声みたいな音が電話の向こう側から聞こえてきた。昔から変わらず、拗ねた景斗からはいつも変な音が鳴る。いつになっても変わらないそれにちょっとした安心感を覚えた。
景斗が忙しいのは仕方がないことだ。仕事の予定は不規則で、忙しいときはスケジュールがぎゅうぎゅう詰めで休みがほとんどない。たとえ休みの日だとしても、やらなければいけにないことが詰まっていたりする。だから、景斗が賢太と遊ぶ頻度は数年前と比べてガクンと減った。学生時代はほとんど毎日会っていた。景斗の仕事が少なかったときは、週5で会っていたときもあった。
昔と比べて今はあんまり会えない。会えない代わりに電話で話すことが増えたが、景斗は寂しいらしい。直接顔を合わせるのと声だけでは全く違う。
しばらく無言で放っておいたら、ピタリと変な音が消えた。
『ねえ、無視はひどくない?』
拗ねた人間の対処法は心得ている。この世に生を受けてから23年、数えきれないほど拗ねた景斗の相手をしてきた。たどり着いた最良の対応は『無視』だ。一番復帰が早い。
『いちいち拗ねるな』
『童心を忘れてはいけない』
『何言ってんだよ』
意味が分からない。
『そんなことより、次の日曜日の昼間、暇なんだよね』
『しっかりと休めよ』
『えー、遊ぼうよ』
『疲れるだろ』
『賢太の部屋まで行くから』
『だから休んだ方がいいぞ』
『見慣れた顔見ると休まる』
『わかったよ、勝手にしろ』
『鍵開けてよ』
『気が向いたらな』
『冷たいー』
景斗はいつもたくさんの人間に囲まれて仕事をしている。信用できる人、信用できない人、仲がいい人、仲良くできないけどしなきゃいけない人、仲よくした方がいい人。それぞれの思惑が絡みあった決して単純ではない人間関係。大人になればそう簡単に友達はできない。子どもの頃はもっと単純で簡単で気楽に人と話せたのに。
大人の世界が苦手な景斗は、絶対に信用できる賢太と話すと癒されるようだ。
『賢太に相談したいことあるから、ちゃんと聞いてよ』
『気が向いたらな』
『そう言って聞いてくれるんでしょ』
『うざい』
『えー、ひどいなあ』
賢太は大きなあくびをひとつした。景斗に『眠い?』と問われて素直に肯定する。久しぶりの外出で体は賢太が自覚している以上に疲れているようだ。運動不足。体がずしんと重くなっている気がする。布団に縫い付けられて動けない。布団の中はぽかぽか温かくて賢太を眠りに誘う。閉じそうな瞼をなんとか持ち上げるが、そろそろ限界が近そうだ。
『じゃあ、そろそろ切るな』
『うん』
『また日曜日な。俺が行くときはちゃんと起きてろよ』
『……なんじ?』
『9時』
『にどね、してるかも』
『安心しろ、ちゃんと起こす。じゃ、おやすみ』
『んー、おやすみ』
電話の切れた音がした。
明日の予定と日曜日の予定をぼんやりと思い出しながら、賢太は睡魔に身を任せた。
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