期間限定の友達、今後の約束
さっき知り合ったばかりの女の子は軽い足取りで歩いている。荷物を預けた男が付いてきているかを確認することもなく、振り向かずにずんずんと進む。知り合ったばかりの男を信用しすぎではと少し心配になりつつも賢太は後ろをついていく。
しばらくすると、目の前の彼女はピタリと足を止めて、賢太のほうを向いた。
「ここにしましょう」
そう言って彼女が指差したのは、カフェというよりも喫茶店という言葉が似合いそうなレトロな雰囲気のお店。外には黒板にチョークでメニューが書かれた看板が置いてある。
「いいですよ」
賢太の返事を聞いた彼女は、寒いので早く入りましょうと、店内までのわずか数歩をタッタと早足で移動した。賢太も遅れないように早足で彼女の後に続いて店の扉をくぐった。
暖かい。賢太が店に入って最初に思ったことだ。寒さのせいで無意識に体に入っていた力がフッと抜ける。と同時にぶるりと体が震えた。体の芯まで冷えてしまっているようだ。早く温かいものを飲みたい。
2人掛けの丸いテーブルに向かい合って座る。親切なことに、荷物を入れるためのカゴが置いてあった。そこに持っていた荷物を入れた。
ゆったりとした時間が流れる温かみのある店内。漂うコーヒーの香り。ほっと一息つくにはちょうどいい空間だ。
「荷物、ありがとうございます」
「気にしないでください」
どこかよそよそしい会話。改めて向かい合うとなんかちょっと気まずい。少なくとも賢太はそう感じていて、思わず下を向いてしまった。手を組み合わせて指をもむ。なにを話せばいいのかわからない。どうすればいいかわからないので、とりあえず名も知らぬ女の子の様子を伺うことにした。
賢太が視線を向けると、目の前にちょこんと座る彼女は、メニューを開いて目を輝かせていた。わくわくしているのが隠しきれていない。幼い顔つきで目をキラキラさせている彼女を見ると、そもそも成人しているようには見えないのに、より一層子どものように見えてしまう。
彼女曰く、二十歳を超えた大人であるらしい。正直なところ、賢太には高校生くらいに見えている。彼女が嘘をついているようには見えなかったので、見た目が幼いだけなのだろう。
賢太がぼんやりとしていると、メニューに釘付けになっていた彼女が顔を上げた。そしてメニューを賢太に差し出した。
「私は頼むもの決まったので、どうぞ」
賢太はありがとうと言ってメニューを受け取った。そしてざっと中身を確認する。ナポリタンやサンドウィッチ、オムライスなどのフード、モンブランやパンケーキなどのスイーツ、コーヒーや紅茶などのドリンクの名前がずらりと並んでいる。
さて、何を頼もうか。ホットコーヒーは確定だ。それにプラスしてなにか食べたい気分。どれにしようか。しばらく考えて、賢太はすでに決まっている彼女に訪ねることにした。
「あなたは、何を頼むんですか?」
「ホットコーヒーとモンブランです」
「じゃあ僕も同じのにします」
「わかりました。注文しちゃいますね」
「お願いします」
彼女は店員に声をかけて注文をした。彼女は店員を呼び止めるときにためらうことなく、慣れた様子で店員に声をかけていた。賢太はすごいなと思いながらそれを見ていた。賢太は店員に声をかけるのが苦手だ。だから、必要な時にしっかりと店員に声をかけることができる人がうらやましい。話しかけられればそれなりに会話はできるのだが、自分から人に声をかけることがどうにも苦手だ。代わりに店員に声をかけてくれる人間がいるのは本当にありがたいのだ。
感謝を伝えると、彼女はどういたしましてと微笑んだ。そして気まずくなる間もなく彼女が提案をした。
「敬語をやめませんか? 敬語だとよそよそしいというか、話しずらいので」
「いいですよ」
彼女は柔らかく微笑んで、安堵したようによかったと息を吐いた。彼女の肩からフッと力が抜けたように見えた。心なしか雰囲気も和らいだ気がする。
「じゃあ、お互いため口で。敬語ってなんか疲れるよね」
そうですかね、と言いかけて賢太は慌てて「そうかな」と言った。思わず敬語がでそうになってしまった。気をつけなければ。
「なんか、敬語ってため口よりも疲れるでしょ。ため口よりも言葉選びで大変で、すっごい気を遣うから」
「そうなんだ。僕はあんまり感じたことないかな」
「すごいね。なんか、大人って感じがする」
「君も大人なんだから敬語使うことあるでしょ」
「あるけど、しっかりと話せるけど、敬語で話してるとどっと疲れるんだよ。なんか敬語って、話してるとき、うまく話せてるかどうかってすごく緊張するんだよね」
「へー、そういうもんなんだ」
「そういうもんなんだよ。だから、不通に敬語使えるのすごいよ!」
彼女は本気で賢太のことをすごいと思っているようだ。
「……えっと、ありがとう?」
賢太は迷いながらもとりあえず感謝を述べた。褒められたらまずは感謝を述べるべし。そう幼馴染に教わったから。褒められたら出来るだけ感謝を述べるようにしているが、たまに恥ずかしくてできないこともある。
今度こそ自分から話を始めようと、頭をぐるぐると働かせながら、口を開こうとしたが、ふと目の前の女の子の名前がわからないことを思い出した。いったいなんて呼べばいいのだろうか。そういえば自分も名前を教えてない。
彼女はそのことを忘れているのだろうか。名前を聞いてくる気配がない。どうやら賢太のほうから名前を尋ねるしかなさそうだ。いきなり名前を聞いていいものなのだろうか。ちょっと迷うが、呼ぶ名前がないのは不便だ。
しばらく待ってみるが、やっぱり名前を聞いてくる気配がない。賢太から聞くしかない。よし、と心の中で気合を入れて、名前がわからない彼女に問いかけた。
「……名前、なんていうの? そういえばお互いに名乗ってなかったからさ。あ、別に言いたくなければ言わなくていいよ」
と、ここまで言ってから賢太は自分が名乗っていないことに気が付いた。名前を聞くならまずは自分から名前を教えるべきだ。とりあえず自分の名前を言おう。
「俺の名前は……」
「ちょっとまって」
え、と思わず間抜けな声をもらす賢太。目をぱちくりさせて、予想外の反応に戸惑う。予想外の言葉に賢太は思考停止した。ただでさえ会話が得意ではないのに、想定外の事態が発生してしまったら、どうすることもできずただ固まることしかできない。フリーズしてしまった賢太を見て、予想外の言動をした彼女はごめんごめん、と言って説明を始めた。
「えっと、考えてることがあって。本名じゃなくて、別の名前で呼び合いたいなって思ってて。理由は、なんていうか、特別感があるから。……って理由になってないかな」
彼女は困ったように笑った。歯切れの悪い説明。本当の理由は他にありそうな感じがするが、彼女はそれを話したくないみたいだ。
賢太は気になったが、話したくないことを無理に説明してもらう必要はない。聞いたら話してくれそうな気配を感じるが、それはしたくない。言いたくないことを言わせたくはない。
「いいよ。面白そうだし」
「ほんと、ありがとう!」
彼女は顔をほころばせた。
「でも、名前考えるの大変だな」
「私はもう決まってるよ」
「何?」
「ソラ。さん、とか、ちゃん、とかいらないからね。ソラって呼んでね」
彼女の言葉に、賢太は頷いた。彼女の名前はソラ。きっと天井に広がる青い空が由来だろう。明るく元気な彼女にはよく似合う。
さて、自分の名前は何にしようか。賢太は「ちょっと待って」とソラに伝えてしばらく頭を働かせた。名前。名前ね。これは難しい問題だ。大学の入試よりも難しい問題だ。自分で自分の名前を考えるのはなんというか気恥ずかしい。自分で自分につけても恥ずかしくない、変じゃない名前はなんだろうか。難しい。悩む。
「お待たせいたしました、モンブランとホットコーヒーです」
注文していたものが運ばれてきて、机に並べられた。器に入った小分けになったミルクたちが机の中央に置かれた。賢太は思考を中断させて、目の前のおいしそうなモンブランに向き合った。
まずは暖かいコーヒーを一口。全身に温かさがじんわりと沁みわたる。体の芯からぽかぽかと温まる。今の悩みを忘れてほわっと一息ついた。
ソラのほうを見ると、顔をしかめているのが目に入った。「苦い」と小さく口が動いた。どうやらコーヒーが苦すぎたらしい。ミルクの入った器を差し出すと、ソラは次々とコーヒーの中に入れた。その数は4つ。器に入っていたもの全部だ。ソラはぐるぐるとかき混ぜてから口に運んで、表情を緩めた。
「苦いの苦手なら最初からミルク入れたらよかったんじゃない?」
「最初はそのものの味を味わいたいんだよね」
「そういうもの?」
「そういうもの」
苦手なら無理しなくてもいいのではと思わなくもないが、賢太はとりあえず納得することにした。その人にしかわからない感覚があるものだ。
「「いただきます」」
次に2人はモンブランを口に運んだ。栗の味が口中にブワッと広がる。栗以外の余計な味がしない。栗そのものの味を楽しむことができるモンブランだ。これはおいしい。おいしすぎる。
賢太もソラもパクパクとモンブランを食べ進めた。無言でモンブランしか眼中がないみたいだ。あっという間にモンブランはお皿の上からきれいさっぱりなくなった。
「おいしかったね」
「うん。すっごくおいしかった」
「また来たいね」
「僕も。他のメニューも食べてみたい」
「また来ようよ」
「そうだね」
会話の流れで次の約束までしてしまった。次なんてあるのだろうか。
あ、そういえば名前考えなきゃ。
すっかり頭から抜け落ちていた今までの人生で最大の難題。
いっそのこと本名を言ってしまおうか。お互いについてなにも知らないのだから本名を言ってもばれない。一瞬本気でそう思ったが、すぐにそれは駄目だとその考えを振り払った。嘘をつくのは避けたかった。でも考えるのは大変だ。だからいったん聞いてみることにした。
「ねえ、やっぱり本名じゃ駄目か?」
「うん駄目」
「ですよね……」
でも、これ以上考えても何も出てこない気がする。人の名前を考えるのは苦手なのだ。賢太の頭にはいろいろな名前が浮かんで来てはいるが、浮かんでくる名前がどれもキラキラしすぎていて自分には似合わない。幼馴染の名前を借りるのは駄目だし。
悩んでる賢太を見かねてか、ソラが助け舟を出してくれた。
「わかった。私が考えてあげる」
「ぜひお願いしたい」
「そうだなぁ……私がソラ、だからダイチでどうかな?」
「採用」
「はや」
「いい名前だと思うから。ありがと」
「いや、ごめんね。そんなに悩むとは思わなくて……。大変な提案しちゃったね」
ソラはしゅんとした様子で賢太を見た。
「謝る必要ないよ。ソラの提案を受け入れたのは僕だから」
「ありがと。そう言ってくれて」
少し間を取ってから、ソラはおずおずと「もうひとつ提案があるんだけど」と切り出した。ついさっき賢太を悩ませてしまったから、少し躊躇したのだろう。
賢太は悩むことなく、いいよと返事をした。たぶん名前を考えることより大変な提案ではないだろう。
「ありがと。優しいね。……あのさ、私と友達になって欲しいんだ」
「……えっと、僕でいいの?」
「ダイチがいいの。友達といっても期間限定でいいから」
ソラと友達になったところで不都合は何もない。感情が顔とか雰囲気に現れる彼女が悪い人だとは思えない。ぜひ友達になりたいと思う。でも、すぐに了承しなかったのは『期間限定』という言葉が引っ掛かったから。
「どうして期間限定なの?」
「それは、今はまだ言いたくないんだけど、いいかな?」
ソラは不安そうな表情を浮かべている。
「そっか。わかった。いいよ、友達になろ」
「ほんと!」
「ほんと」
「ありがと!」
「どういたしまして」
不安げな様子が嘘のように、ぱあっと輝いた。全身で嬉しいと語っている。その太陽のような笑顔が賢太には眩しかった。自分と友達になれただけでここまで喜べるとは。驚きと共にちょっと嬉しいと賢太は思った。
ソラはスマホを取りだして何かを確認した。
「期間なんだけど、明日から7回。平日に合うっていうので大丈夫?」
「僕は大丈夫だよ。連絡先交換した方がいい?」
「いや、しなくていいよ。ちゃんと前日に約束すればきっと会える」
「確かに。でも体調崩したらどうしよう」
「15分来なかったら帰るってことにする?」
「じゃあ、そうしようか」
ソラはふふっ、と小さな笑い声をこぼした。
「どうしたの?」
「なんか、特別って感じでわくわくしない? 連絡先も本名も知らない、ただの口約束でつながってる関係って」
「確かに。わくわくするかも」
ソラは笑みを深めた。賢太もつられて口角を上げた。久しぶりにこんな笑顔になったかもしれない。外に出てよかったと心の底から思った。一瞬で真っ暗闇から晴天の下に救い出された。絶対に出られないと思っていたところから驚くほどすんなりと抜け出せて賢太はびっくりした。
「ダイチ、7日間よろしくね」
「こちらこそよろしく、ソラ」
改めて挨拶を交わしたところで、ブーブーッとソラのスマホが震えた。メールを確認するとソラは慌てたように立ち上がった。
どうしたのかと賢太が尋ねると、美容院の予約があるんだとソラは荷物を回収した。動きも話す速さもテキパキとしている。すごく急いでいる。
「本屋にいると時間を忘れるからってお母さんが連絡くれたの。助かった。ごめん、ばたばたして。お会計いくら?」
「いいよ、払っとくから」
「でも、」
「いいから。これでも少し社会人やってたから。……じゃあ、明日、ソラの分渡してくれればいいよ」
「ごめん。ありがとう。明日、午後2時にこのお店でいい?」
「いいよ」
「じゃあ、またね!」
「気をつけてな」
本当に時間がないようで、ソラは申し訳なさそうにしながらも、ピュンッと去っていった。急いでいても荷物を忘れないのはさすがだ。本が本当に大好きなのだろう。
賢太はソラを見送ってしばらくゆっくりしてから会計を済ませて店を後にした。
帰り道、家から街に向かうときよりも、本当に少しだけだが、すれ違う人のことが気にならなかったし、電車にもすんなりと乗れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます