重い足取り、新たな出会い
電車に揺られる賢太は扉のすぐそばの席に座って俯いている。表情は暗い。縋るように右手は左の腕をぎゅっと掴んで、意識してゆっくりと呼吸をしている。
遊びに行くために電車に乗っているのに、なぜか出勤しているような錯覚に陥ってしまっているのだ。会社を辞めてから初めての電車。通勤ラッシュはとうに過ぎていて、通勤時とは比べ物にならないほど空いているのに、憂鬱な朝が呼び起こされる。
駅を視界に入れたとき。改札を通ったとき。電車の音が聞こえてきたとき。電車の姿が視界に入ったとき。電車の扉が音を立てて空いたとき。電車に足を踏み入れるとき。何度も体が拒絶反応を起こした。早く家に帰ろうと訴えてきた。それでもなんとか気力を振り絞って電車の乗った。
そして現在。ちょっと後悔し始めている。後悔してももう遅いのだが。
まあ過呼吸を起こしてないしと気楽に考えてみているがあまり効果はない。途中の駅で降りることも考えたが、帰りも電車に乗らなければいけない。それならば目的地まで行ってしまった方がいい。
賢太は電車の椅子の端で小さくなりながら、目的の駅までの時間を過ごした。
目的の駅に着いた時には、一日働いたのではないかと錯覚するほど賢太は疲れていた。主に精神が。体もカチコチになっている。軽く動かすだけで体はぼきぼきと悲鳴を上げた。
駅を出ると、広がるのは雑多な都会の風景。数多の人間がバタバタと移動している。足音。話し声。車の音。それらが交じり合って街に充満している。人の気配で満ち満ちている空気に賢太は尻込みした。
仕事目的以外で街に来るのは半年以上ぶりだ。仕事のときはまったく気にならなかった。仕事のことで頭がいっぱいで、周囲の状況はまったく意識に入ってきていなかったのだろう。今は世界の状況が正しく認識されているということだ。誠に喜ばしいことなのだが、今の賢太にはいささか刺激が強すぎた。
1人で街に出るのを早まったか。そう感じたが来てしまったものはどうしようもない。せっかく苦しいのを我慢して電車に乗ってここまで来たのに帰るのはもったいない。今までの我慢がすべて無駄になる。電車に対するトラウマ的なやつも耐えられたのだから、街に出ても大丈夫。そう自分に言い聞かせて賢太は街に一歩踏み出した。
そもそも賢太は生まれも育ちも大都会。幼いころから都会の空気には慣れている。映画館までの道も何度も歩いた。今更緊張する必要はない。道に迷う心配なんてまったくない。いつものように普通に足を動かせば簡単にたどり着くことができる。
それなのに、なぜか賢太の足は重かった。理由は賢太にはわからなかった。会社に行くわけではないのに、両足に重りでもついているのではないかと感じる。邪魔にならないように、できる限り足を早く動かす。人とすれ違うたびに得体のしれない不安感に襲われた。初めての感覚に戸惑いながらも賢太は前に進んだ。
賢太は大学卒業後、会社と家の往復以外で家から出ることはなかった。平日の疲れがどっと出て休日は自分の部屋から出るのでさえ億劫になっていたから。プライベートな時間はほとんどベッドでぼんやりとして過ごした。両親には心配かけないようにいつも通りの自分を取り繕っていたが、それが余計、精神的な疲れを悪化させていた。会社では上司や同僚、家では両親に気を遣う日々。人の顔色を伺う癖が付き、日増しに悪化した。いつの間にか人の気配を感じるだけで気が張り詰めるようになった。賢太自身も気づかないうちに人に対する恐怖心がじわじわと成長して、簡単には取り除けないほど心の奥深くにどっしりと根を張っている。
賢太は映画館の前で立ち止まった。ちょっとした達成感。だが、映画館に入ろうとは思えなかった。透明なバリアに拒絶されているみたいだ。それは簡単に破れそうに見えて、意外と頑丈。しばしば格闘したが、結局、最初の一歩を踏み出せなかった。きっと幼馴染が隣にいたら腕を引っ張ってくれた。今は独りぼっち。彼に頼るのは気が引けた。忙しい彼を人が集まる場所に連れて行く気にはなれない。
会社を辞めてから賢太は、幼馴染に対して引け目のようなものを感じるようになった。気兼ねない関係だったのに、遠慮をするようになった。もともと自分から連絡をする方ではないのだが、今まで以上に連絡できなくなった。賢太はそんな自分が嫌で嫌で仕方ない。
映画館の前でずっと立ち止まっているわけではない。同じ場所をうろちょろしているのもそれはそれで怪しい。賢太はその場を離れることに決めた。
でも、せっかく電車に乗って街まで来たのに、何もせずに帰るのはもったいない。
よし、本屋へ行こう。
そう思って目的地を本屋に設定する。どこに行こうか迷ったときは本屋に行けばいい。本に囲まれると癒される。大量の本で溢れる空間を想像すると、ほんのすこし、本当に少しだけだが足が軽くなった気がした。
無事に本屋へ到着。映画館の前で立ち往生していたのが嘘のように、楽々中へ入ることができた。目の前に広がるのは、懐かしさすら感じる光景。懐かしい匂いが鼻をくすぐる。1日中居ても飽きない場所。心のオアシス。自然と足どりも軽くなる。
賢太はとりあえず端から端まで見て回る。買いたい本があるわけではない。店に入った時点で欲しい本がなくても、本を眺めているうちに、いつの間にか読みたい本リストが頭の中に出来上がる。誘惑に勝てずに買ってしまうこともしばしば。そうやって買い集められた本は、賢太の部屋の本の山を構成する一員となる。
ふと背伸びをする女の子が目に入った。小説がずらりと並ぶ本棚の前。一番上の棚に向かって、片手に数冊の文庫本を携えた髪の長い女の子が頑張って手を伸ばしている。だが、ギリギリ指先が触れるばかりで、取り出すのは到底無理そうだ。
賢太は迷わずスタスタと近づいて、ひょいっと彼女の欲しい本を取り出し、驚いた様子の彼女に差し出した。
「これであってますか?」
「……はい、あってます。ありがとうございます!」
本を受け取ると彼女は困惑の表情を和らげて明るい声を出した。
やるべきことはやった。長居するのは不審者だと思い賢太はそそくさとその場を立ち去ろうと彼女に背を向けたのだが、
「ちょっと待ってください」
と呼び止められた。近くに他の人はいないから確実に賢太に投げられた言葉だ。呼び止められる理由が見当たらず困惑したが、無視して立ち去るのは感じが悪いと思い賢太は声のほうに体を向けた。
呼び止めた主は遠慮がちに切り出した。
「あの、よければ、なんですけど、一緒に本屋を回ってくれませんか? さっきからなんでかわからないんですけど、目当ての本が一番上の棚にばかりあって、そのたびに店員さんを呼び留めるのが大変で。店員さんを連れまわすわけにもいかないし。迷惑なのはわかってるんですけど、お願いしたいです。駄目、ですかね」
本当に申し訳なさそうにしているものだから、賢太は少し考えて了承した。身長が150センチもなさそうに見える彼女が困っているのは事実だろう。対して賢太は180センチくらいある。暇だし、一緒に本屋を見て回るのもいいだろう。
彼女はほっとしたように、ありがとうございますとぺこりと頭をさげた。それじゃあ行きましょうということで、小柄な彼女の後ろをついて回った。
疲れた。広い店内をあっちこっち行ったり来たりした。彼女は本を探すのが壊滅的にヘタクソで、何度も同じ場所を探していた。途中から、見かねた賢太が題名を聞いて探してあげた。驚くほどすぐに見つかった。わかりやすい場所にあるのになあと賢太は思ったが、キラキラした目で見られたので口には出さなかった。
レジに行く頃には本が30冊以上になった。漫画小説問わずたくさんの本がカゴに入っている。
彼女が会計をしている間、賢太はせっせと本をエコバックに詰めていた。これは頼まれたわけではなく、自ら進んでやったことだ。手持無沙汰だったから。持ち帰るの大変そうだなと思ったが、持ちましょうか、とは口に出せなかった。さすがに知らない人に荷物を預けるのは不安だろう。
2人は一緒に店を出た。
「ありがとうございました」
「いえいえ、では……」
賢太はその場を去ろうとしたが、また本を抱えた彼女に呼び止められた。
「あの、よければそこのカフェでお茶でもどうですか?」
賢太はフリーズした。まさかお茶に誘われるとは。ちょっと緊張した様子の彼女の意図が見えずに困惑する。
言葉を発しない賢太に焦ったのか、彼女は慌てて説明をつけ足した。
「別に他意はないですよ。ただのお礼と言うか、まだ次の予定があって暇つぶしに付き合ってほしいというか。それだけです。あ、それと、私見た目こんなかんじでちっさいですけど、一応未成年じゃないですよ。ハタチ越えてますから安心してください。一緒にいても大丈夫です」
「ナンパは遠慮しておきます」
賢太は冷静に誘いを断った。
「未成年かどうかはさておき、見知らぬ異性を誘うのは辞めた方がいいですよ」
「それはそうですけど、手伝ってくれたから、いい人だと思いますし」
「すぐに信用しないほうがいいですよ。人は見かけによらないとよく言われているじゃないですか」
でも、と目の前の女性は言い淀んだ。何か言いたいことがあるようだが、言うのを迷っているようだ。賢太は何か言うでもなく、次の行動を静かに待った。
彼女はもごもごとしたあと、おずおずと口を開いた。
「失礼を承知で言うんですけど、いいですか?」
「いいですよ」
「なんか、あなたが、消えそうな顔してたんです」
「消えそう?」
頭にハテナを浮かべる賢太とは対照的に、彼女は深刻そうな表情を浮かべている。
「はい。詳しいことは省きますが、見覚えがある表情で。言うか迷ったんですが、いつか屋上から飛び降りそうな感じがして」
彼女の言葉は尻すぼみになっていったが、しっかりと賢太の耳に入った。まるで『屋上から飛び降りそうな感じ』の人の顔を見たことがあるような口ぶりだった。
沈黙は良くない、何か言わなければと賢太は口を開きかけたが、間抜けに口をパクパクさせることしかできなかった。言葉が何も思い浮かばなかった。否定する言葉も肯定する言葉もどちらも噓のように思えてしまったから。
賢太は屋上から飛び降りようと思ったことはない。自ら命を絶とうなんて能動的に考えたこともない。それなのに否定できなかったのは、奈落に引っ張られる感覚がわかるからだ。
会社員時代、前のほうで電車を待っているときに、暗い線路に呼ばれたような気がした。ふらふらと吸い寄せられるようだった。その時は途中で我に返って事なきを得たが、自分がしようとしていたことを認識して震えた。そのことがあってから電車に待っている間は、電車が到着するまで線路に近づかないようにしている。線路から距離を取った方が安全だし、今度こそ引きずり落されそうで怖いから。
何も言わない賢太に気分を害したと思ったのか、彼女はごめんなさいと申し訳なさそうに頭をさげた。
賢太は慌てて頭を上げるように言った。
「謝らないでください。別に怒ってないので。ちょっとびっくりしただけです。図星、とは言いたくないですけど、否定はできないから」
賢太が起こってないとわかると、彼女の表情のこわばりがほぐれた。
「そうですか。よかったです。あ、いや、全然よくないんですけど。……立ち話だと寒いんで、近くのカフェ行きませんか?」
「ナンパはお断りですよ」
「ナンパじゃないです。助けられたのでお返しです」
「それならわかりました。僕も寒くて、温まろうと思ってたところです」
彼女の表情がぱあっと明るくなった。どこかほっとしたようにも見て取れる。
「そうなんですね、寒いから早く行きましょう」
「本、持ちますか?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
本の入った袋を賢太に渡して、名も知らぬ彼女はいそいそと歩き始めた。賢太は置いて行かれないように後を追いかけた。
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