陰鬱とした朝、何かが変わる予感

 ……ピピピピピ……


 賢太は布団に潜ったまま枕元を叩く。何度かバシバシするとひんやりと固い物が手に当たった。体温が奪われる感触が気持ち悪い。手荒に見つけたスマホの画面を、これまた手荒に何度かタップすると、ようやく不愉快な高い音が消えた。音を変えればいいのかもしれないが、これ以上、気分を害する音声をこの世に増やしたくない。好きな音楽に変えたとしても、絶対にその音楽を嫌いになる自信が賢太にはある。

 目覚ましへの恨みはさておいて、そろそろ起きなければならない。昼過ぎまで寝て自己嫌悪に陥るのを防ぐために午前8時に目覚ましをかけたのだ。心の安寧のためにもはやく布団から脱出しなければならない。

 11月も下旬。今までの人間に恨みがあるのかと思うほどのクソ暑さ――実際人間が悪いのだが――が嘘のように寒くなり始めた。もちろん部屋の空気も冷たくなり、布団から出るのも一苦労。暑さに弱く寒さに弱い賢太は夏も冬も嫌いだ。秋が消滅しかけている現状が恨めしい。春はまともに来てくれというのが賢太の願いだ。

 閑話休題。

 いつまでも布団の中の温もりに捕まっているわけにはいかない。しばらく布団の中をもぞもぞ動いたあと、賢太は覚悟を決めてバッと勢いよく体を起こした。寒さに身を縮こまらせながら、布団の上に空いてある上着を羽織る。だが、一晩部屋の空気に冷やされたそれは無情にも賢太の体温を奪う。今夜から布団の中で温めながら寝ることに決めた。

 今にも芯まで冷えてしまうそうな体を温めるために、賢太は靴下をしっかりと履いてリビングに向かった。冷たい床は凶器だ。直に触れてはならない。足が凍る。


 時刻はもうすぐ午前9時になりそうだ。隅々までキレイに片づけられたリビング。会社に勤めている両親はすでに家を出ている。ダイニングテーブルの上には1人分の朝食がラップをかけて置いてあった。賢太の母親が毎日用意してくれているのだ。キッチンにはお茶の入ったマグカップが置いてある。冷え切ったそれをレンジで温めてから、いつものように朝食の前に座る。

「いただきます」

 しっかりと手を合わせてから、賢太は黙々と食べ始めた。朝はそんなに食べられない賢太のために量は少なめになっている。自分よりも自分の身体をわかっている母親には頭が上がらない。

 母の愛情をひしひしと感じる朝食を口に運びながら、賢太は胸が苦しくなった。

 2人分も3人分もそんなに変わらないからと言って毎日用意しておいてくれる母には感謝している。家にこもって外に出られなくなった自分に、前と変わらない態度で接してくれている父にも感謝している。それはもう言葉では言い表しきれないほどに感謝している。しかし、両親の優しさを実感すると感謝と同時に申し訳なさが沸き上がってくる。感謝を流し去ってしまうほどの罪悪感が胸の中を渦巻く。そして両親の行動に対して辛いと感じる自分に賢太は嫌気がさす。まさに負の循環。

 賢太が家からほとんど出なくなってから2か月以上。いつも賢太の朝は大きな罪悪感から始まる。

 家にこもり始めたのは9月下旬。10月はまったく家から出なかった。11月は幼馴染から連絡があって1度だけ家から出た。家から出たとはいっても、行き先は同じマンションにある幼馴染の家。幼いころから通いなれた部屋。外出とはいってもマンションから出てはいない。それでも一歩前に進んだと評価してもいいのだろうか。幼馴染は進歩だと言ってくれたけど、賢太はそう言い切っていいのか迷っている。


 賢太は新卒で入った会社を半年でやめた。理由は一言でいえばパワハラ。耐えがたい言葉の暴力。上司からの過度な叱責と理不尽な罵声、ストレス発散としか思えない暴言。

 賢太は昔から他人から何を言われても気になかったし、何をされても軽く流すことができた。どうでもいい他人からされることは気にするに値しない。最初、賢太は上司のことを、会社でストレス発散してる厳しいジジイだと思い何も思わなかった。軽く受け流していたから心へのダメージはゼロに等しかった。

 でも、それは長くは続かなかった。何を言ってもケロッとしている賢太が気に喰わなかったのか、上司の怒り方が変化した。強い口調が怒鳴り声に最悪の進化を遂げたのだ。そして賢太は怒鳴り声にめっぽう弱かった。賢太は人の怒鳴り声には敏感で、他者が怒鳴られているのを見るだけで精神にダメージを受けてしまう。

 怒鳴り声への耐性が極端に低い賢太が、毎日毎日会社で怒号を浴びせられ続けたらどうなるかは想像できるだろう。賢太の精神状態は日に日に悪化し、最終的に家から出られなくなった。

 賢太は入社して間もなく厄介な上司から目をつけられていたこともあり、同僚との交流が極端に少なかった。上司に目の敵にされている人間には近づきたくないに決まっている。だから、職場に親しい人間はいなかったし、もちろん手を差し伸べてくれる人間もいなかった。そもそも賢太に近づこうとする人間がいなかったのだからあたりまえのことだが。


 そんなこんなで家から出られなくなった賢太は、日々を無為にぼんやりと消費している。強制的に始まる1日を早く終わらせる方法はなにかに没頭することだ。賢太が没頭できることは勉強しかない。勉強をしている間は鬱々とした気分を忘れられる。目の前の問題を解くことだけに集中できる。無駄に自分を傷つける言葉は発生しない。それに、幼いころからの習慣である勉強をしていると落ち着く。だから毎日机に向かっている。大学受験用の勉強や大学で学んだことの復習をして日々を過ごしている。ただ淀んだ日々に目を背け、空白の時間を埋めるためだけの行為。現実逃避。

 賢太はこのままじゃ駄目だと強く感じている。現状を変えたいとも思っている。社会人になったのだから働かなければならない。両親と幼馴染に心配をかけたくない。早く働かなければ。自分を急かす言葉がたくさん浮かんで来るのになぜか行動に移せない。焦燥感と罪悪感に苛まれて頭の中がぐちゃぐちゃになる。それで結局、雁字搦めになって動けない。


 どんより沈んだ気分で朝食を残さず食べ終えた賢太は、自分が使った食器を洗い、元の場所へと戻した。

 家にいるのだから自分にできる家事はしなければならない。賢太はそう思って、昨年まで親に任せっきりだった家事を少しだけだが手伝っている。1年間だけ一人暮らしをしていた賢太だが、その時は色々あってあんまり家事は上達しなかった。最近は休日に母親から家事を教わっている。賢太の母は自分のやることに手を出されるのが好きではないのだが、快く家事を教えてくれている。賢太がいると時間がかかってしまうのに、家事を手伝わせてくれる母には感謝だ。

 もともと賢太の母はこだわりが強い方で、家事は全部自分でやりたい人だ。仕事が大好きで、趣味を聞かれたら仕事と答えるような人物。やることがない時間が嫌いで、家事は時間を埋めるのにちょうどいいと考えている。だから、父や賢太に手伝わせようとしないし、むしろ邪魔をするなと言う。母には母なりの家事のルールや計画があるようで、それを崩されたくないのだ。

 でも、任せきりは居心地が悪いから賢太と父は少しでも母親の負担を減らそうと行動している。使ったものは元の場所に戻す。自分が使った食器はキッチンに運ぶ。ごみはしっかりごみ箱に捨てる。脱ぎ捨てない。などなど、あたりまえのことを当たり前にやっているだけだから、負担を減らすことにつながっているかはわからないが、できることはやっているのだ。

 バリバリ働きながら家事を完璧にこなす母の凄さを実感している賢太は、母の役に立ちたいという思いが強くなった。だから、平日は風呂掃除やたまに洗濯を行っている。


 食器を片づけた賢太は自分の部屋に戻った。ベッドに腰掛け、枕元に置きっぱなしのスマホを手に取る。大学を卒業してから友人からの連絡はめっきり減った。人と会う余裕がなくて誘いを全部断っていたら、いつの間にか連絡がピタリと来なくなった。誘ってもどうせ来ないと思われているみたいだ。

 友人からの連絡が途絶えたことに気づいた時、賢太は特に何も感じなかった。寂しいとか悲しいとか一切なかった。しょうがないと簡単に割り切れた。

 彼らは確かに友人ではあったけど、縁が切れてしまっても「まいっか」の一言で片付いてしまう関係だった。そのことに気が付いた途端、寒々しい孤独感に体を飲み込まれたのを賢太は強く覚えている。

 スマホを開くと通知が一件。幼馴染の景斗けいとからだ。彼は何がっても賢太のことを見捨てないし見限らない。逆もしかり。お互いに唯一無二の存在である。

 景斗からのメッセージを開く。

『気が向いたらこの映画見て!』

 URLから映画の情報を確認する。人気少女漫画の実写映画のようだ。賢太は原作を全く知らなかった。ラブコメはあまり読まないのだ。でも、メインの俳優のことはよく知っていた。彼は演技が上手で若手の中で頭一つ抜けていると賢太は思っている。しかも顔が良い。かっこいいのだ。

 彼が出ているのならぜひ見に行きたいのだが、賢太には映画館に1人で行ける自信がなかった。知らない人に囲まれた空間にじっとしていられる気がしないのだ。平日の昼間なら人が少なくて大丈夫かもしれないが、映画の途中で無理になって抜け出すのは避けたい。どうせ行くなら最後まで見たい。

 返信に迷った末、無料スタンプを適当に送って画面を閉じた。賢太はばたりと体をベッドに預けて目を閉じる。


 しばらくそうした後、パッと目を開いて体を起こした。クローゼットを開けて、温かい服を選んで身につける。なぜだかわからないが、賢太の中に「とりあえず行動してみよう」という思いがポッと何の脈絡もなく現れた。賢太自身にもなぜだかはわからない。でも、これはチャンスなのでは、と思った。現状を変えるチャンスだ。そう思った賢太は気分が沈まないうちに行動を始めたのだ。

 最寄りの駅まで行って電車に乗れそうになかったら引き返そう。映画館に入れなくてもとりあえず近くまで言ってみよう。久しぶりに本屋に入ってみようか。意識的にこれからの行動をポジティブに考えてみる。ネガティブな感情が顔を出しそうになったら、力ずくでねじ伏せる。見て見ぬふりは諸刃の剣だが今は役に立つ。無理をして明日体調崩そうが今は関係ない。今は、今の前向きな気分をなくさないことの方が大事だ。

 小さめの黒いショルダーバッグを久しぶりに手に取る。中に入っている財布の中身を確認する。ちゃんとお金が入っていることを確認して元に戻した。せっかく外に出たのに所持金不足だったらしばらく立ち直れない気がした。スマホも忘れずバッグに入れる。

 財布に中身は入ってる。スマホの充電はある。防寒対策もした。外出する準備は整った。ちょっとしたきっかけで大きく変わることがあるらしい。それはきっと今だ。今行動するかしないかですべてが決まる。

 一度深呼吸をしてから、賢太は変化を期待して、一歩、外の世界へと踏み出した。



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