第24話 飛翔Ⅲ
必死の努力もむなしく、千景はズルズルと苑秋に引きずられていく。力の上では普段から
他ならぬ彼の鬱憤の捌け口になったのだ。あー、と涙をダバダバと流し、めんどくさーい、めんどくさーいと連呼する千景を見送る人間は誰もいなかった。
ラウンジからエレベーターホールへと戻され、向かい合うようにして両者は立つ。よほど鬱憤がたまっているのか、不適に笑う苑秋は両手をエレベーターのドアにぴったりと貼り付け、千景が逃げられないようにした。
男同士の壁ドンなどいったいどこに需要があるのか。ともかく両手で左右を塞がれてしまい、逃げるに逃げられない千景は冷や汗を流しながら、背中をエレベーターのドアに貼り付けた。
——それが悪かった。
彼が背中をドアに密着させたその刹那、ポーンという音が鳴り、その体は勢いよく後ろ向きに倒れていった。あ、と声を上げる暇もなく倒れる千景に苑秋は反射的に手を伸ばすが、その手は不運にも空を切った。
このまま仰向けに倒れると思われた中、しかし千景の体は意外と早くに空中で停止した。体を盛大にエレベーターの床面にぶつけることはなかったが、代わりに彼の背中に不思議な感触があった。
なんだ、と閉じていた両目を開けようとした時、不意に彼の頬を撫でるサラサの感触があった。ギョッとして勢いよく目を開く。
「千景君じゃん。いきなり倒れてどしたの」
爪先立ちの少女が千景を覗き込む。少女の兵士らしからぬ長い濡れ羽色の髪がストールのように千景のだらしなく空に吊るされた両腕と腰の間に吸い込まれ、背中を支える彼女の両手に垂れ下がった。
放心する千景を見て、少女ははにかんだ。愛らしく、天使にも似た艶やかに表情をほころばせる。
「竟……」
「そーですよー。で、どしたの」
彼女、朝宮 竟は千景の問いに邪気もなく答える。夕陽ヶ丘、母親の手をひく童のごとき屈託のない微笑の少女は千景を覗き込む。その背中を支えて彼を立たせる手は傭兵のものとは思えないほど柔らかく、ふっくらとしていた。
胸部のそれとはまた違う十指二掌の感触を一身に受けて、千景はどうにかして起き上がった。起き上がった反動で上体が前方向に倒れる千景を尻目に悠然と竟はその背中からするりと抜けて、ラウンジへ歩いていった。
「ほらほら、早くしないと遅れちゃうよ?」
あまつさえ、一番遅くに来たくせにそんなセリフを残して。
ホールに取り残された千景と苑秋は目で語る。なんだったのだろうか、これまでの茶番は、と。
竟の、朱燈とは違う意味で奔放な性格に毒気を抜かれたのか、大仰に苑秋はうなだれた。ラウンジへと歩いていく苑秋は背中を丸め、だらりと両手を垂れ下げていた。その姿は普段の精悍で冷厳な彼からは想像もできない、二日酔いで起床する気力もない日曜のサラリーマンのように見えた。
とぼとぼと歩く苑秋の後を追って千景もラウンジへと戻っていく。竟が遅ればせながらも到着したことで全員が揃い、緩んでいた空気が少しだけ引き締まった。
千景がラウンジに戻ってみれば、さっきまでポーカーをやっていたメンツはすでに解散していて、ご機嫌な様子の冬馬、嘉鈴のペアと、対照的にグスグスと泣いている廉とそれを慰めるあさりのペアに分かれていた。ボロ負けしたんだろうなぁ、と千景は憐憫の眼差しを負け組2人に向けた。
寝息を立てていた朱燈、クーミンの2人も復活し、両者共にあくび混じりではあるが、前のめりになって椅子に腰掛けていた。なお、朱燈は千景のバックパックを体のいい足置きにしていた。
それを不快に思いながらも、一旦無視して千景は彼らの前に立つ。その隣には同格の小隊長である竟が立った。
「とりあえず、全員揃ったので、改めてブリーフィングをします。ご存知の通り、今回の任務は輸送機にいる要救護者の確保。順当にいけば、ただの護衛任務で終わる、はずです」
言葉を濁す千景に冬馬や苑秋の疑念の目が向けられる。いずれも両小隊の指揮官、準指揮官だ。敢えて言葉を濁す自分の真意を探ろうとする彼らの視線をいなし、千景は話を続けた。
「この後、各小隊は速やかに所定のヘリに乗り、出撃してもらいます。任務期間は最短1日、最長3日を予定しています。各自、そのことを念頭に置いて武器弾薬の管理を徹底してください」
この時代、フォールン大戦以後の時代のヘリコプターの稼働時間は約2日ほどだ。バッテリー技術の進歩と機体の軽量化、時代を経るごとに発展した技術の一端である。
万が一に備え、予備のバッテリーも積んである。よほどのことがない限り、ヘリが落ちるということはない。
「警戒すべき対象としては飛行型フォールン、急激な気流の変化などがあります。特に飛行型フォールンは発見しても、こちらに向かってこない限りは手出しをしないように」
特に嘉鈴、と千景は念押しする。名指しで注意されいじける嘉鈴を他所に、ラウンジ内にちょっとした笑いが起きた。
「最後に一応、自己紹介を」
必要ないだろ、という声もちらほらと上がるが、千景の視線は特務分室の面々へではなく、彼らの後ろにいるヘリコプターの操縦士へ向けられていた。彼らのことを千景は知らない。同様に千景のことを彼らも知らなかった。
ヘリコプターの操縦士とは懇意にしておくものだ、とは彼の狙撃の師の言葉だ。理由を聞けば、色々と融通を聞かせてくれるからだ、と義肢ばかりの体でサイドチェストをしながら師匠は答えた。
仲良くなるための第一歩はまず挨拶、そして自己紹介だ。それなくして友情は築けない。
「今回の任務の総指揮を担当します、外径行動課第三特務分室第一小隊小隊長の室井 千景です。皆様の命を預かる身として、誠心誠意努力させていただきます」
「いつもそれ言うよね、千景君」
竟が茶々を入れるが、千景は気にしない。ヴィーザルに務めてから何十、何百回と繰り返してきたセリフだ。今更変えるつもりはなかった。
じゃぁ、出発と千景の号令に従って各員は立ち上がり、各々の荷物を持ち上げ、ラウンジを出ていった。この場合の荷物とはヘリの中にいる間の暇つぶしグッズや替えの衣類などだ。時代がどれだけ進んだとて、1日も経てば人は汗をかくし、脇は蒸れる。密閉状態のヘリの中でそれがどれだけの激臭になるか、想像するだけで鼻を捥ぎたくなる。特に女性陣が男性陣に比べて荷物が多いのはそのためだ。
ビュウビュウと風が強く吹くヘリポートもあれだけの大荷物ならそうそう吹き飛ばされることもない。それでもジャケットの裾などは逆巻くブレードによって生じた烈風に流されて、カタカタと揺れた。
耳の周りでは絶えず濁流にも似た音が反響し、そのせいで周りの音もろくに聞こえない。大声をあげればかろうじて聞こえるが。
だからだろう。普段は大声など出さない竟が苑秋に遅刻の理由を説明している声が前に立っていても千景の耳にはよく聞こえた。なんと言っていたかと言えば、バスに轢かれかけてしばらく腰を抜かしていたとかなんとか。
「どっかで聞いた話だな」
明朝6時。定刻通りに二機のヘリコプターが飛翔する。目指すは太平洋。寄る辺なき大海原である。
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