第23話 飛翔Ⅱ

 急停車のせいで体は前のめりになり、慣性の法則に従って千景の体は前の座席へと吸い込まれていく。反射的に手を前に出して座席の背もたれを掴んだおかげで額をぶつけずには済んだ。

 

 姿勢を正し千景は訝しむ。


 横断歩道などある道路ではない。なんだろう、と千景が席から顔を出し、前方を見ようとすると、再びバスが走り出した。


 わけがわからず席から立ち上がったまま、千景は真横の窓に張り付いてなるべく前の方に視線を向けた。すると、歩道と車道の境界付近にペタリと尻餅をついている人影が見えた。


 なんだか見知った人間のようにも見えたが、朝の日差しのせいでよくわからなかった。そも、まだ5時半にもなっていないのだ。人の顔などわかるわけがない。わかるのはせいぜい尻餅をついていたのが女であることくらいだ。


 なるほど、と彼女を見て急ブレーキに千景は得心がいった。いくら自動運転を実現した世の中でも不慮の事故というやつは起こり得る。例えば交通事故などは際たる例だ。


 サンクチュアリの交通情報をリアルタイムで更新しているため、交差点や信号機の近くでは滅多に起こらないが、今起きたように信号も横断歩道もない場所ではときどきそういったことが起こり得る。必然、歩行者を轢かないようにバスの車体にセンサーは埋め込んであるが、それもきちんと歩行者を感知しなくては働かない。なんなら働いた場合は急激な摩擦によってシートベルトをしていなかった乗客が投石機よろしく車体前方に投げ出されたなんていう事例もある。


 それほどの急ブレーキだ。千景はともかく、朱燈は思いっきり前の席の背もたれに顔面から激突した。いつぅ、と言葉通り鼻を抑える彼女をせせら笑う千景。朱燈は千景を睨み、ふん、と軍用ブーツで彼の足を踏みつけた。


 あぎゃあぎゃとうめく千景を他所にバスはヴィーザルタワーの前で停車した。そそくさと下車する朱燈を追って、彼も下車した。


 仰ぎ見るヴィーザルタワーはやはり壮観だ。サンクチュアリの中心街にあって、これほど巨大な建築物もそうはない。上層に行くにつれて徐々に狭まっていく槍の穂先を思わせるデザインは、まるで宇宙ロケットのようにも見えた。


 「——まだ鼻痛む」


 バスから降り、なおも鼻をさする朱燈はぐちぐちと訴える。彼女の訴えを完全に無視して千景がヴィーザルタワーの中に入っていくと、それを追いかけるように朱燈は小走りになって彼の背を追った。


 ビルのエントランスに入ってまず入場者を出迎えるのはエントランスホール頭上に煌々と回転する巨大なミラーボール、ではなくフォールン大戦以前の地球を模ったホログラフィック・レプリカだ。


 端的に説明するならば、地球の縮小模型とでも言えばいいのか。最大で四箇所の異なる地点で地球上にもしフォールンがいなかったら、というイフの世界を観察することができる代物で、単純なファンタジーを味わうという働き以上に、過去に起こった出来事も網羅することができるため、擬似的なタイムテレビと呼ぶ人間も少なくはない。


 その発生装置及び操作パネルの正面には受付窓口がある。主に来客の応対、案内をする場所で、それ以外にも空いている会議室の管理や、後ろのホログラフィック・レプリカの管理などその仕事は多岐にわたる。


 千景達がエントランスホールに入った時、ホールに人はほとんどいなかった。照明も最低限で非常に閑散としていた。


 9時を回ればもう少し賑やかになるのだろうが、時刻はまだ6時にもなっていない5時半過ぎだ。当直の受付担当者が1人、社員用の改札を通って入ってきた千景達に明朗な笑顔で「おはようございます」と挨拶をした。


 礼には礼をと千景と朱燈も挨拶を送る。そうして2人はエレベーターホールへと歩いていき、ヘリ格納庫がある20階へと昇っていった。


 エレベーターの中、千景は無言で扉を見つめ、朱燈はバックパックを抱えたまま、手すりに寄りかかっていた。20階も登ればそれなりの時間があったが、その間2人の間に会話はなかった。


 チーンという音が鳴り、エレベーターが開く。開かれると同時に2人の視界にはガラス窓が張られた廊下が現れた。仕切りにバンバンという音が聞こえるその向こう側では陽光のほのかな眩しさとは対極的な人口の激しい輝きが見え、オレンジ色の作業着を着た人間が何人もその下で忙しなく動いていた。


 エレベーターホールから廊下を道なりに歩くと、空港のラウンジエリアを思わせる場所に出た。すでにそこには千景のよく知る面々と大量の荷物が置かれていた。


 人に目を向ければ、冬馬と嘉鈴はトランプを広げ、他の小隊の隊員2人とポーカーをやっていた。その他小隊の2人も千景が知るメンツだ。1人は同輩である九条くじょう れん。もう1人はその後輩である汐空しお あさりだ。


 廉は天然パーマの少年で、思っていることがすぐ顔にでる直情型だ。今も手札が悪いことを冬馬に見抜かれ、不利な勝負を挑まされ他挙句に負けていた。対照的にあさりは落ち着いていて、手札が微妙となるやいなや、即座に勝負を降りて負けを回避していた。彼女の綺麗な髪に頬擦りしている嘉鈴が気持ち悪くて仕方なかったので、視線を別の方へと向けた。


 反射的に向いた方角にはクーミンがいた。いつも通り、防寒ジャケットのジッパーを上まで上げてフードを深く被る彼女はまわりがやかましいに関わらずぐーぐーと寝る程度には落ち着いていた。


 大胆な爆睡振りはいかんせん、さきほどのバスの中での出来事を思い起こさせ、千景に彼女を起こすのをためらわせた。もとより起こすつもりもなかったが。


 メンツは他にも大勢いるが、明確にヴィーザルの実働隊員が羽織るジャケットを着ているのは千景達も含めて10人だ。それ以外はオレンジ色の作業服を着ていたり、オペレーターの制服を着ている人間だ。


 千景がクーミンの隣にバックパックを置くと、彼の隣の席に朱燈が座り、バックパックを抱えたまま、寝息を立て始めた。よほど疲れているのか、あるいは寝不足なのか。なんにせよ、珍しい光景ではなかった。


 荷物を下ろし、一息置く傍ら、ぐるりとラウンジを見渡すと、おやと千景は首を傾げた。勘違いだろうか、と一歩前に出てまた見てまわすが、やはり最初に抱いた違和感は正しかった。


 「おい、苑秋えんしゅう。ちょっといいか」


 千景の呼びかけにスポーツカットの青年が振り返る。なんだよ、と眉を顰めてあからさまな態度を取る彼は手元のタッチパットをそれまで話していた仲間に預け、千景に向き直った。


 第二特務分室第一小隊の副隊長、東 苑秋は大層不機嫌な様子で、手早く済ませてくれ、とぶっきらぼうに言った。元より硬質な雰囲気を漂わせる厳格な男だったが、どういうわけか今日はやけに当たりが強い。その理由はなんとなくわかった上で、千景は事前に抱いた違和感について聞いた。


 「ついがいないみたいだけど?」


 千景の問いに答えるより早く、わざとらしく苑秋は肩を落とし、大きなため息をついた。なんとなくわかっていたことだが、苑秋の起源が悪い原因はこれらしい。


 苑秋にとっての上司、第二特務分室第一小隊隊長である朝宮 竟はこの場に不在だ。おそらくは遅刻だろうが、時間が迫っているということもあって、苑秋の眉間には今にも青筋が立ちそうだった。


 「いや、まぁ。でも竟の重役出勤はいつものことでしょ」

 「そうは言うが、あと15分だぞ。ラストミーティングもしないで、現場に突入なんてあるか?」


 「そこまで大きな声で言うことか?俺からすれば平常運転って感じだけど」

 「俺からすればざけろ毎日だから、余計に鬱憤がたまるんだよ。なんていうかさー、老人の介護って毎日だとめんどいけど、隔日だとそこまで鬱憤たまんねーじゃん。そういうの」


 「俺、老人介護したことないんだけど」

 「はぁ?ヴィーザルの広報課から老人ホームのボランティアさせられてねーの?」


 「なにそれ。俺ら外勤がほとんどだから、そういうキャキャっとうふふみたいなのはやってねーよ」


 「クソ、室長にクレーム入れてやる。お前らもやれってなぁ!」


 いつの間にか怒りの矛先が自分に向けられていることに気づいた千景は乾いた笑い声をこぼしつつ、同時に訝しんだ。


 外径行動課の基本的な業務は壁外のフォールン討伐だ。軍から依頼を受けるケース以外にも、ヴィーザル上層部からの命令で動くことは往々にしてある。実際、これまで千景はそういう任務にばかり従事してきて、つい数週間前に仲間を目の前で失ったばかりだ。


 ゆえに苑秋の発言は寝耳に水で、首を傾げた。なんだってそんな慈善事業を、と。少なくとも実力の上で第二と第三に確固たる差はないのだから。


 「ほら、特務分室って室長とかの管理職除けば若い奴ばっかだろ?だから孫みたいなもんに写るんじゃね、負い先短い連中からすれば」


 「言い方!言い方に気をつけなさい!」


 あまりな言い分に思わずツッコミを入れてしまった。この先、この話を続けてたらどんな悪態が苑秋の口から飛び出すのか、千景がヒヤヒヤしていると不意に二人を呼ぶ声がした。


 それは青いツナギを着た男で、キャップ帽子を深々とかぶっていた。おかげで2人の間の会話は一時中断された。


 男は2枚持っていたタッチパットをそれぞれ二人に手渡した。それは昨日の内に千景が取りまとめておいたヘリコプターに乗せる諸々の物資についての目録だった。


 画面をスワイプし、きちんと搬入されていくかを確認する千景の指の進みは遅い。一度ヘリが離陸してしまえばもう後戻りはできない。ハンカチが忘れたから家に戻るは効かないのだ。武器類の充足は元より、弾薬や各種食料、バイポッドをはじめとした装備類などなど。どれもないと困るものばかりだ。


 隊員全員の命を預かる立場の人間として、いざ必要になってありませんは許されない。指が重くなるのは当然だ。


 などという高尚な理由も何割かはあったかもしれないが、現実はただ単純に目録のチェックをさっさと終わらせてしまうと怒れる苑秋の餌食になってしまうから、精一杯だらだらと作業をしているに過ぎない。


 それを薄々察してか、ほぼ密着する形で苑秋はパットを動かす千景の指をガン睨みしていた。さながら背後霊。とうに目録のチェックを終えてしまった手前、これ以上下へスライドできず、カツンカツンと千景の爪はむなしく画面を引っ掻いた。


 「往生際が悪いなぁ」


 不意に苑秋は千景の手元からタッチパットをひったくると、それを例の男に手渡した。男はよろしいのですか、と問うような目で千景を見るが、それは苑秋は遮り、大丈夫大丈夫と笑顔で返した。


 少し男は返答に言い淀んだが、苑秋が壊れたオルゴールのように大丈夫大丈夫と連呼し続けたせいで、面倒ごとに関わるまい、とヘリの搭乗口の方へ行ってしまった。


 「さーてと。じゃぁーお話しましょ」


 「ひぃ、朱燈助けてー!!」


 涙目になり、千景は朱燈に助けを求める。しかし彼女が伸ばされた手を掴むことはなく、背もたれに背中をあずけたまま、顔だけを千景に向けると無情にも逆ピースを彼に向けた。他の人間には古くは昭和のころから日本によくあるギャルっぽいハンドサインにすぎなかったが、その意味を教えた当の本人は、がっ、と飼い犬に手を噛まれたような表情で絶句した。


 千景も別に苑秋の理不尽な怒りの炎で炙られるのが嫌なわけじゃない。ただこれから任務だというのに、つまらないいざこざに巻き込まれるのが嫌なだけだ。仕事はやはり鬱屈した気持ちのままではなく、落ち着きとゆとりのある心持ちでやりたい。そう目で訴えるが、彼の仲間は誰1人として反応を示さなかった。


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