第8話 飛翔
黎明、ヴィーザルの社宅を出た千景は寒風が吹く路上のバス停で、中央市街行きのバスを待っていた。
空を仰げば青みがかった中にほんのりと紫が塗られていて、それは東へ向かうにつれて徐々に薄くなっていくグラデーションがかかっていた。一辺倒ではなく、彩度の強弱がはっきりとした雄大な蒼穹の中、闇が消え去るように徐々に徐々にと青が澄み渡っていった。
東に行くにつれて白む空を目で追えば、壁の向こう側ではもう太陽が地平線の向こう側から顔を出していることがわかる。8月の中旬とはいえ、5時を回って太陽がまだ一欠片も都市に入ってきていないのは壁が山のようにその光を遮っているからだ。
だからだろう。社宅からも見える行政タワーや、ヴィーザルタワー、その他の高層建築物の上層階は白が際立ち、光り輝いていた。
視線を空からその手前にあるいは中にある雲へと向けて見れば、常に大小の雲が空を南東から北西にかけて群となって泳いでいる。夏場の空であれば一体なにを想像するだろうか。あいにくと低音多湿な現在の関東圏では夏場の入道雲やいわし雲は拝めない。見えるのはティッシュの咬みクズにも似た雲切れだった。
薄い、冬場の千切れ雲はしかし、上空の気流に流されるがまま、一つ所に止まることを知らない。今は見ることが叶わなくなった渡り鳥はしかし姿を変えて空を渡っていた。
やるせなくなり、千景が視線を地面に落とし、しばらくじっと眺めていると、アスファルトの色が徐々に変わっているのがわかった。初めは紺色だったものが徐々に青みがかり、やがて本来の色を取り戻していく過程を見ながら、ふと顔を上げると彼の周りの色もだいぶ鮮やかなものになっていた。
寒色から暖色へ。サンクチュアリという白亜の理想郷には似つかわしくない街路樹の木の葉や生垣に咲いた名前も知らない桃色の花が暖かさを取り戻し、周囲が閑散とし、また寒々しいにも関わらずほんのりと紅を付けていた。
ちょうどその頃になって千景の前にバスが停まった。近未来的な要素が一欠片もない車輪によって動くボックスタイプのオーソドックスなバスに乗り、ポケットから取り出した社員証をかざすと、毎度ありがとうございます、と電子音声が返ってきた。
車内には千景のほかに奥に乗客が数名いる。運転手はいない。AIによって自動化され、強いていうならば今し方声を上げた電子音声が運転手と言えなくもない。
どこの席に座ろうか、とぐるりと車内を見回すとちょうどいいところに2人掛けの席が空いていた。しめたと思い、千景はその席へと腰掛ける。背負っていたバックパックなどを隣に起き、リラックスうする中、立っている人間がいないことを確認した先ほどの電子音声が「ドア、しまりまーす」と感高く快活な声でアナウンスした。
プシューという懐かしさを感じさせる音を立ててドアが閉まろうとする。その時だった。
「待ってストップ!待てって言ってんだろこらぁ!!」
と徐々にヒートアップしていく女の声と共に閉まりかけていたバスのドアめがけて何かがぶん投げられた。
バコーンという大きな音を立てて、車体が揺れる。ヴィーザルタワーに着くまでの仮眠、と窓にもたれかかっていた千景は何事か、と両目を魚類のようにパッチリと開け、前方を見つめた。
見ればズルズルとバックパックがバスのドアからずり落ちていた。プシューという音が再び鳴りドアが開く。そして周囲の目が集中する中、現れたのは寝癖がボサボサの白髪をだらしなく垂らした赤目の少女だった。
彼女を見た瞬間、反射的に千景は視線を外へ向かって逸らした。端的に言えばバスに荷物をぶつけて停車させるような
バスのドアがガコンガコンと変な音を立てながら閉まろうと動く。白髪の少女、もとい朱燈は手早く社員証を電子会計機にかざし、ズカズカと車内に入っていった。周りの視線など意に返さず、彼女は端の席でわざとらしく窓の外を見ている黒髪の青年を見つけると、彼の隣まで歩いて行き、置いてあったバックパックを取り上げ、その両膝にドサンとほうった。
ひ、と千景は怯えるような目で朱燈を見る。どけ、と手をひらひら振る朱燈に半ば強引に席を詰められると、彼女は空いた場所に我が物顔で座った。
改めて、ドアがしまりまーす、と気が抜けるような電子音声が鳴り、ガタンとドアが完全に閉まり、続いて、発車しまーす、というアナウンスが鳴った。バスが前進を始めると乗客は前のめりにやや倒れ、パタンと背もたれに背中を付けた。
バスが動き出し、窓の景色も変わっていく。ヴィーザルの社宅もある社宅街を抜けると今度はサンクチュアリの中央市街へと通じる高速道路に入る道へと移っていった。
集合住宅の間を高速道路は通っていて、道路を走る間、いくつもの見慣れた建物が視界に入っては後ろへ下がって行き、建物同士の間が垣間見えた時、その根本部分からさらに階下へと外テラスに似た剥き出しの市街区角がわずかに見えた。いわゆる地下街、ただしなんらかの遮蔽物が天蓋を覆うわけでもなく、サンクチュアリの第一階層よりも下にあるからそう呼ばれているに過ぎない。
千景も何度か足を踏み入れたことがある場所で、地下ということでアンダーグラウンドな雰囲気を感じたり、イリーガルな印象を受けるかもしれないが、実際は単なる商店街に過ぎない。無論、本当の意味で違法行為が平然と罷り通る場所もあるだろうが、集合住宅の下部にある地下街はいたって普通な、ごく一般的な商業施設である。
千景がガードレール越しに地下街を垣間見た時、同じく朱燈もそれを目にしていたのか、ぼそりときんつばと彼女はつぶやいた。正確にはきんつば味のブロックフードだが、色合いや味の良さから名物として知られている。ちなみに2人がつい先ほど目端で捉えた商店街には売っていない。
窓の外を見つめるのにも飽きた頃、千景が車道へ視線を戻せばバスはちょうどパワープラントへ向かう道の分岐路を通り過ぎたあたりだった。早朝ということもあり、並行車も対向車も少なく、道は空いている。この分なら予定時間よりも全然早く着くな、と手首のマルチウォッチで時間は確認しながら、千景は微笑を浮かべた。
「喜べよ、朱燈。あと15分もしないで着くぞ?」
千景が笑顔をちらつかせて話しかけるが、朱燈はふーんとうつろげに返す。眠そうにうつらうつらとする彼女は目を閉じていればやはり猫のように可愛らしい。しかしいざ目を覚ませば発情期のセミかと勘違いするほどにやかましく、面倒臭い。
眠いなら眠らせてやろう、と千景は余分に何か口にするのをやめ、再び視線を窓の向こう側へと向けた。朝日が顔を出してもうしばらく経って、集合住宅や企業のビルの表面が白く染まっていく。白い表面はより一層眩しくなり、鏡などないはずなのに見ているだけで目がチカチカした。
中心街、つまり行政タワーの周辺に近づけばいよいよもって住宅街もなくなり、窓付きの建物が増えていく。サンクチュアリにおける富裕層が経営する企業のビルディングや官庁の庁舎がひしめく中、高速道路を降りたバスは普通の車道に入っていった。
バスが停車するたび、人が降りていく。元々数人しか乗っていないバスであるからして、停車回数も少ない。官庁に勤めている人、企業に勤めている人、業種は多様だが、一貫して彼らは朝早くに出社し、ビルの口の中へと吸い込まれていった。
建物の中へと消えていく彼らはいずれも死んだ魚のような膿んだ目をしていて、今にも眼球がゼラチン質に変わって、咀嚼されそうな危うい雰囲気を漂わせる。よほど過酷な仕事が待っているのだろう。
もっとも、千景も彼らの腐臭を帯びていそうな後ろ姿を見送り、哀れみを抱けるほど余裕があるわけでもない。次の停車場所はヴィーザルタワー前だ。
いまだに寝息をあげて可愛らしく丸まっている朱燈を揺らして彼女を起こそうとする、反射的にぶんなぐられた。より具体的には目にも止まらぬ速さで飛んできた裏拳が千景の口元に打ち付けられた。
ぐふぇと千景はうめく。鼻ならあがぁ、額ならいてぇ、と彼はうめくだろう。ぶたれた際に唇が歯の間に挟まり、ズルリと内唇がえぐれたせいで、それはそれは痛かった。
両手で唇を多い、千景は忌々しげに朱燈を睨んだ。しかし当の朱燈はだらしなく左手を垂れ下げ、寝息どころかよだれまで垂らしている始末だ。もぐもぐと白山羊よろしく自分の髪の毛を食んでいる姿が粗放さに拍車をかけていた。
起こそうにも触ればぶたれ、そも朱燈が通路側の席に座っているせいで降りることができない。このままでは本来降りる場所を通り過ぎてしまう。最悪は窓から降りるかなどと下手な思案を思い浮かばせる中、不意にバスが急ブレーキを踏んだ。
横断歩道などある道路ではない。なんだろう、と千景が席から乗り出して前方を見ようとすると、再びバスが走り出した。
わけがわからず席から立ち上がったまま、千景は真横の窓に張り付いてなるべく前の方に視線を向けた。すると、歩道と車道の境界付近にペタリと尻餅をついている人影が見えた。
なんだか見知った人間のようにも見えたが、朝の日差しのせいでよくわからなかった。そも、まだ5時半にもなっていないのだ。人の顔などわかるわけがない。わかるのはせいぜい尻餅をついていたのが女であることくらいだ。
なるほど、と彼女を見て急ブレーキに千景は得心がいった。いくら自動運転を実現した世の中でも不慮の事故というやつは起こり得る。例えば交通事故などは際たる例だ。
サンクチュアリの交通情報をリアルタイムで更新しているため、交差点や信号機の近くでは滅多に起こらないが、今起きたように信号も横断歩道もない場所ではときどきそういったことが起こり得る。必然、歩行者を轢かないようにバスの車体にセンサーは埋め込んであるが、それもきちんと歩行者を感知しなくては働かない。なんなら働いた場合は急激な摩擦によってシートベルトをしていなかった乗客が投石機よろしく車体前方に投げ出されたなんていう事例もある。
それほどの急ブレーキだ。当然千景もブレーキがかかった瞬間は前の席に向かって倒れそうになったし、朱燈は思いっきり前の席の背もたれに顔面から激突した。いつぅ、と言葉通り鼻を抑える彼女をせせら笑う千景。それを行き場のない怒りを抱いて朱燈は睨みつけた。
「まだ鼻痛む」
バスから降り、なおも鼻をさする朱燈はぐちぐちと訴える。彼女の訴えを完全に無視して千景がヴィーザルタワーの中に入っていくと、それを追いかけるように朱燈は小走りになって彼の背を追った。
ビルのエントランスに入ってまず入場者を出迎えるのはエントランスホール頭上に煌々と回転する巨大なミラーボール、ではなくフォールン大戦以前の地球を模ったホログラフィック・レプリカだ。
端的に説明するならば、地球の縮小模型とでも言えばいいのか。最大で四箇所の異なる地点で地球上にもしフォールンがいなかったら、というイフの世界を観察することができる代物で、単純なファンタジーを味わうという働き以上に、過去に起こった出来事も網羅することができるため、擬似的なタイムテレビと呼ぶ人間も少なくはない。
その発生装置及び操作パネルの正面には受付窓口がある。主に来客の応対、案内をする場所で、それ以外にも空いている会議室の管理や、後ろのホログラフィック・レプリカの管理などその仕事は多岐にわたる。
千景達がエントランスホールに入った時、ホールに人はほとんどいなかった。照明も最低限で非常に閑散としていた。
9時を回ればもう少し賑やかになるのだろうが、時刻はまだ6時にもなっていない5時半過ぎだ。当直の受付担当者が1人、社員用の改札を通って入ってきた千景達に明朗な笑顔で「おはようございます」と挨拶をした。
礼には礼をと千景と朱燈も挨拶を送る。そうして2人はエレベーターホールへと歩いていき、ヘリ格納庫がある20階へと昇っていった。
エレベーターの中、千景は無言で扉を見つめ、朱燈はバックパックを抱えたまま、手すりに寄りかかっていた。20階も登ればそれなりの時間があったが、その間2人の間に会話はなかった。
チーンという音が鳴り、エレベーターが開く。開かれると同時に2人の視界にはガラス窓が張られた廊下が現れた。仕切りにバンバンという音が聞こえるその向こう側では陽光のほのかな眩しさとは対極的な人口の激しい輝きが見え、オレンジ色の作業着を着た人間が何人もその下で忙しなく動いていた。
エレベーターホールから廊下を道なりに歩くと、空港のラウンジエリアを思わせる場所に出た。すでにそこには千景のよく知る面々と大量の荷物が置かれていた。
人に目を向ければ、冬馬と嘉鈴はトランプを広げ、他の小隊の隊員2人とポーカーをやっていた。その他小隊の2人も千景が知るメンツだ。1人は同輩である九条 廉。もう1人はその後輩である
廉は天然パーマの少年で、思っていることがすぐ顔にでる直情型だ。今も手札が悪いことを冬馬に見抜かれ、不利な勝負を挑まされ他挙句に負けていた。対照的にあさりは落ち着いていて、手札が微妙となるやいなや、即座に勝負を降りて負けを回避していた。彼女の綺麗な髪に頬擦りしている嘉鈴が気持ち悪くて仕方なかったので、視線を別の方へと向けた。
反射的に向いた方角にはクーミンがいた。いつも通り、防寒ジャケットのジッパーを上まで上げてフードを深く被る彼女はまわりがやかましいに関わらずぐーぐーと寝る程度には落ち着いていた。
大胆な爆睡振りはいかんせん、さきほどのバスの中での出来事を思い起こさせ、千景に彼女を起こすのをためらわせた。もとより起こすつもりもなかったが。
メンツは他にも大勢いるが、明確にヴィーザルの実働隊員が羽織るジャケットを着ているのは千景達も含めて10人だ。それ以外はオレンジ色の作業服を着ていたり、オペレーターの制服を着ている人間だ。
千景がクーミンの隣にバックパックを置くと、彼の隣の席に朱燈が座り、バックパックを抱えたまま、寝息を立て始めた。よほど疲れているのか、あるいは寝不足なのか。なんにせよ、珍しい光景ではなかった。
荷物を下ろし、一息置く傍ら、ぐるりとラウンジを見渡すと、おやと千景は首を傾げた。勘違いだろうか、と一歩前に出てまた見てまわすが、やはり最初に抱いた違和感は正しかった。
「おい、
千景の呼びかけにスポーツカットの青年が振り返る。なんだよ、と眉を顰めてあからさまな態度を取る彼は手元のタッチパットをそれまで話していた仲間に預け、千景に向き直った。
第二特務分室第一小隊の副隊長、東 苑秋は大層不機嫌な様子で、手早く済ませてくれ、とぶっきらぼうに言った。元より硬質な雰囲気を漂わせる厳格な男だったが、どういうわけか今日はやけに当たりが強い。その理由はなんとなくわかった上で、千景は事前に抱いた違和感について聞いた。
「
千景の問いに答えるより早く、わざとらしく苑秋は肩を落とし、大きなため息をついた。なんとなくわかっていたことだが、苑秋の起源が悪い原因はこれらしい。
苑秋にとっての上司、第二特務分室第一小隊隊長である朝宮 竟はこの場に不在だ。おそらくは遅刻だろうが、時間が迫っているということもあって、苑秋の眉間には今にも青筋が立ちそうだった。
「いや、まぁ。でも竟の重役出勤はいつものことでしょ」
「そうは言うが、あと15分だぞ。ラストミーティングもしないで、現場に突入なんてあるか?」
「そこまで大きな声で言うことか?俺からすれば平常運転って感じだけど」
「俺からすればざけろ毎日だから、余計に鬱憤がたまるんだよ。なんていうかさー、老人の介護って毎日だとめんどいけど、隔日だとそこまで鬱憤たまんねーじゃん。そういうの」
「俺、老人介護したことないんだけど」
「はぁ?ヴィーザルの広報課から老人ホームのボランティアさせられてねーの?」
「なにそれ。俺ら外勤がほとんどだから、そういうキャキャっとうふふみたいなのはやってねーよ」
「クソ、室長にクレーム入れてやる。お前らもやれってなぁ!」
いつの間にか怒りの矛先が自分に向けられていることに気づいた千景は乾いた笑い声で返した。よもや第二特務分室がそんな広報業務をやっているなど思ってもみなかった。
思い返せば、外径行動課のくせにしょっちゅうサンクチュアリ内にいたが、まさかそんなことをしていたとは、と驚く中、ガミガミとやつあたりをしてくる苑秋をどうにかなだめられないか、と思案を巡らせる。しかし幸運にも千景が逃げ口上を考える前に彼の背後に立った作業着を着た男が話しかけてきたことで、2人の間の会話は一時中断された。
満面の笑顔で振り返った千景を訝しみながらも、作業着の男は彼にタッチパットを手渡した。それは昨日の内に千景が取りまとめておいたヘリコプターに乗せる諸々の物資についての目録だった。
画面をスワイプし、きちんと搬入されていくかを確認する千景の指の進みは遅い。一度ヘリが離陸してしまえばもう後戻りはできない。ハンカチが忘れたから家に戻るは効かないのだ。武器類の充足は元より、弾薬や各種食料、バイポッドをはじめとした装備類などなど。どれもないと困るものばかりだ。
隊員全員の命を預かる立場の人間として、いざ必要になってありませんは許されない。指が重くなるのは当然だ。
などという高尚な理由も何割かはあったかもしれないが、現実はただ単純に目録のチェックをさっさと終わらせてしまうと怒れる苑秋の餌食になってしまうから、精一杯だらだらと作業をしているに過ぎない。
それを薄々察してか、ほぼ密着する形で苑秋はパットを動かす千景の指をガン睨みしていた。さながら背後霊。とうに目録のチェックを終えてしまった手前、これ以上下へスライドできず、カツンカツンと千景の爪はむなしく画面を引っ掻いた。
「往生際が悪いなぁ」
「ひぃ、朱燈助けてー!!」
涙目になり、千景は朱燈に助けを求める。しかし彼女が伸ばされた手を掴むことはなく、背もたれに背中をあずけたまま、顔だけを千景に向けると無情にも逆ピースを彼に向けた。他の人間には古くは昭和のころから日本によくあるギャルっぽいハンドサインにすぎなかったが、その意味を教えた当の本人は、がっ、と飼い犬に手を噛まれたような表情で絶句した。
千景も別に苑秋の理不尽な怒りの炎で炙られるのが嫌なわけじゃない。ただこれから任務だというのに、つまらないいざこざに巻き込まれるのが嫌なだけだ。仕事はやはり鬱屈した気持ちのままではなく、落ち着きとゆとりのある心持ちでやりたい。そう目で訴えるが、彼の仲間は誰1人として反応を示さなかった。
必死の努力もむなしく、千景はズルズルと苑秋に引きずられていく。他ならぬ彼の鬱憤の捌け口になったのだ。あー、と涙をダバダバと流し、めんどくさーい、めんどくさーいと連呼する千景を見送る人間は誰もいなかった。
ラウンジからエレベーターホールへと戻され、向かい合うようにして両者は立つ。よほど鬱憤がたまっているのか、不適に笑う苑秋に怯え、意図せず千景はエレベータのドアに背中を貼り付けていた。
それが悪かった。
彼が背中をドアに密着させたその刹那、ポーンという音が鳴り、その体は勢いよく後ろ向きに倒れていった。あ、と声を上げる暇もなく倒れる千景に苑秋は反射的に手を伸ばすが、その手は不運にも空を切った。
このまま仰向けに倒れると思われた中、しかし千景の体は意外と早くに空中で停止した。体を盛大にエレベーターの床面にぶつけることはなかったが、代わりに彼の背中に不思議な感触があった。
なんだ、と閉じていた両目を開けようとした時、不意に彼の頬を撫でるサラサの感触があった。ギョッとして勢いよく目を開く。
「千景君じゃん。いきなり倒れてどしたの」
爪先立ちの少女が千景を覗き込む。少女の兵士らしからぬ長い濡れ羽色の髪がストールのように千景のだらしなく空に吊るされた両腕と腰の間に吸い込まれ、背中を支える彼女の両手に垂れ下がった。
放心する千景を見て、少女ははにかんだ。愛らしく、天使にも似た艶やかに表情をほころばせる。
「竟……」
「そーですよー。で、どしたの」
彼女、朝宮 竟は千景の問いに邪気もなく答える。夕陽ヶ丘、母親の手をひく童のごとき屈託のない微笑の少女は千景を覗き込む。その背中を押して彼を立たせる手は傭兵のものとは思えないほど柔らかく、ふっくらとしていた。
胸部のそれとはまた違う十指二掌の感触を一身に受けて、千景はどうにかして起き上がった。起き上がった反動で上体が前方向に倒れる千景を尻目に悠然と竟はその背中からするりと抜けて、ラウンジへ歩いていった。
「ほらほら、早くしないと遅れちゃうよ?」
あまつさえ、一番遅くに来たくせにそんなセリフを残して。
ホールに取り残された千景と苑秋は目で語る。なんだったのだろうか、これまでの茶番は、と。
竟の朱燈とは違う意味で奔放な性格に毒気を抜かれたのか、大仰に苑秋はうなだれた。ラウンジへと歩いていく苑秋は背中を丸め、だらりと両手を垂れ下げていた。その姿は普段の精悍で冷厳な彼からは想像もできない、二日酔いで起床する気力もない日曜のサラリーマンのように見えた。
とぼとぼと歩く苑秋の後を追って千景もラウンジへと戻っていく。竟が遅ればせながらも到着したことで全員が揃い、緩んでいた空気が少しだけ引き締まった。
千景がラウンジに戻ってみれば、さっきまでポーカーをやっていたメンツはすでに解散していて、ご機嫌な様子の冬馬、嘉鈴のペアと、対照的にグスグスと泣いている廉とそれを慰めるあさりのペアに分かれていた。ボロ負けしたんだろうなぁ、と千景は憐憫の眼差しを負け組2人に向けた。
寝息を立てていた朱燈、クーミンの2人も復活し、両者共にあくび混じりではあるが、前のめりになって椅子に腰掛けていた。なお、朱燈は千景のバックパックを体のいい足置きにしていた。
それを不快に思いながらも、一旦無視して千景は彼らの前に立つ。その隣には同格の小隊長である竟が立った。
「とりあえず、全員揃ったので、改めてブリーフィングをします。ご存知の通り、今回の任務は輸送機にいる要救護者の確保。順当にいけば、ただの護衛任務で終わる、はずです」
言葉を濁す千景に冬馬や苑秋の疑念の目が向けられる。いずれも両小隊の指揮官、準指揮官だ。敢えて言葉を濁す自分の真意を探ろうとする彼らの視線をいなし、千景は話を続けた。
「この後、各小隊は速やかに所定のヘリに乗り、出撃してもらいます。任務期間は最短1日、最長3日を予定しています。各自、そのことを念頭に置いて武器弾薬の管理を徹底してください」
この時代、フォールン大戦以後の時代のヘリコプターの稼働時間は約2日ほどだ。バッテリー技術の進歩と機体の軽量化、時代を経るごとに発展した技術の一端である。
万が一に備え、予備のバッテリーも積んである。よほどのことがない限り、ヘリが落ちるということはない。
「警戒すべき対象としては飛行型フォールン、急激な気流の変化などがあります。特に飛行型フォールンは発見しても、こちらに向かってこない限りは手出しをしないように」
特に嘉鈴、と千景は念押しする。名指しで注意されいじける嘉鈴を他所に、ラウンジ内にちょっとした笑いが起きた。
「最後に一応、自己紹介を」
必要ないだろ、という声もちらほらと上がるが、千景の視線は特務分室の面々へではなく、彼らの後ろにいるヘリコプターの操縦士へ向けられていた。彼らのことを千景は知らない。同様に千景のことを彼らも知らなかった。
ヘリコプターの操縦士とは懇意にしておくものだ、とは彼の狙撃の師の言葉だ。理由を聞けば、色々と融通を聞かせてくれるからだ、と義肢ばかりの体でサイドチェストをしながら師匠は答えた。
仲良くなるための第一歩はまず挨拶、そして自己紹介だ。それなくして友情は築けない。
「今回の任務の総指揮を担当します、外径行動課第三特務分室第一小隊小隊長の室井 千景です。皆様の命を預かる身として、誠心誠意努力させていただきます」
「いつもそれ言うよね、千景君」
竟が茶々を入れるが、千景は気にしない。ヴィーザルに務めてから何十、何百回と繰り返してきたセリフだ。今更変えるつもりはなかった。
じゃぁ、出発と千景の号令に従って各員は立ち上がり、各々の荷物を持ち上げ、ラウンジを出ていった。この場合の荷物とはヘリの中にいる間の暇つぶしグッズや替えの衣類などだ。時代がどれだけ進んだとて、1日も経てば人は汗をかくし、脇は蒸れる。密閉状態のヘリの中でそれがどれだけの激臭になるか、想像するだけで鼻を捥ぎたくなる。特に女性陣が男性陣に比べて荷物が多いのはそのためだ。
ビュウビュウと風が強く吹くヘリポートもあれだけの大荷物ならそうそう吹き飛ばされることもない。それでもジャケットの裾などは逆巻くブレードによって生じた烈風に流されて、カタカタと揺れた。
耳の周りでは絶えず濁流にも似た音が反響し、そのせいで周りの音もろくに聞こえない。大声をあげればかろうじて聞こえるが。
だからだろう。普段は大声など出さない竟が苑秋に遅刻の理由を説明している声が前に立っていても千景の耳にはよく聞こえた。なんと言っていたかと言えば、バスに轢かれかけてしばらく腰を抜かしていたとかなんとか。
「どっかで聞いた話だな」
明朝6時。定刻通りに二機のヘリコプターが離床する。目指すは太平洋。寄る辺なき大海原である。
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