第22話 飛翔

 黎明、ヴィーザルの社宅を出た千景は寒風が吹く路上のバス停で、中央市街行きのバスを待っていた。


 空を仰げば青みがかった中にほんのりと紫が塗られていて、それは東へ向かうにつれて徐々に薄くなっていくグラデーションがかかっていた。一辺倒ではなく、彩度の強弱がはっきりとした雄大な蒼穹の中、闇が消え去るように徐々に徐々にと青が澄み渡っていった。


 東に行くにつれて白む空を目で追えば、壁の向こう側ではもう太陽が地平線の向こう側から顔を出していることがわかる。8月の中旬とはいえ、5時を回って太陽がまだ一欠片も都市に入ってきていないのは壁が山のようにその光を遮っているからだ。


 だからだろう。社宅からも見える行政タワーや、ヴィーザルタワー、その他の高層建築物の上層階は白が際立ち、光り輝いていた。


 視線を空からその手前にあるいは中にある雲へと向けて見れば、常に大小の雲が空を南東から北西にかけて群となって泳いでいる。夏場の空であれば一体なにを想像するだろうか。あいにくと低音多湿な現在の関東圏では夏場の入道雲やいわし雲は拝めない。見えるのはティッシュの咬みクズにも似た雲切れだった。


 薄い、夏場の千切れ雲はしかし、上空の気流に流されるがまま、一つ所に止まることを知らない。今は見ることが叶わなくなった渡り鳥はしかし姿を変えて空を渡っていた。


 やるせなくなり、千景が視線を地面に落とし、しばらくじっと眺めていると、アスファルトの色が徐々に変わっているのがわかった。初めは紺色だったものが徐々に青みがかり、やがて本来の色を取り戻していく過程を見ながら、ふと顔を上げると彼の周りの色もだいぶ鮮やかなものになっていた。


 寒色から暖色へ。サンクチュアリという白亜の理想郷には似つかわしくない街路樹の木の葉や生垣に咲いた名前も知らない桃色の花が暖かさを取り戻し、周囲が閑散とし、また寒々しいにも関わらずほんのりと紅を付けていた。


 ちょうどその頃になって千景の前にバスが停まった。近未来的な要素が一欠片もない車輪によって動くボックスタイプのオーソドックスなバスに乗り、ポケットから取り出した社員証をかざすと、毎度ありがとうございます、と電子音声が返ってきた。


 車内には千景のほかに奥に乗客が数名いる。運転手はいない。AIによって自動化され、強いていうならば今し方声を上げた電子音声が運転手と言えなくもない。


 どこの席に座ろうか、とぐるりと車内を見回すとちょうどいいところに2人掛けの席が空いていた。しめたと思い、千景はその席へと腰掛ける。背負っていたバックパックなどを隣に起き、リラックスうする中、立っている人間がいないことを確認した先ほどの電子音声が「ドア、しまりまーす」と感高く快活な声でアナウンスした。


 プシューという懐かしさを感じさせる音を立ててドアが閉まろうとする。その時だった。


 「待ってストップ!待てって言ってんだろこらぁ!!」


 と徐々にヒートアップしていく女の声と共に閉まりかけていたバスのドアめがけて何かがぶん投げられた。


 バコーンという大きな音を立てて、車体が揺れる。ヴィーザルタワーに着くまでの仮眠、と窓にもたれかかっていた千景は何事か、と両目を魚類のようにパッチリと開け、前方を見つめた。


 見ればズルズルとバックパックがバスのドアからずり落ちていた。プシューという音が再び鳴りドアが開く。そして周囲の目が集中する中、現れたのは寝癖がボサボサの白髪をだらしなく垂らした赤目の少女だった。


 彼女を見た瞬間、反射的に千景は視線を外へ向かって逸らした。端的に言えばバスに荷物をぶつけて停車させるような頭おかしい人非常識な奴と関係があるように思われたくはなかった。


 バスのドアがガコンガコンと変な音を立てながら閉まろうと動く。白髪の少女、もとい朱燈は手早く社員証を電子会計機にかざし、ズカズカと車内に入っていった。周りの視線など意に返さず、彼女は端の席でわざとらしく窓の外を見ている黒髪の青年を見つけると、彼の隣まで歩いて行き、置いてあったバックパックを取り上げ、その両膝にドサンとほうった。


 ひ、と千景は怯えるような目で朱燈を見る。どけ、と手をひらひら振る朱燈に半ば強引に席を詰められると、彼女は空いた場所に我が物顔で座った。


 改めて、ドアがしまりまーす、と気が抜けるような電子音声が鳴り、ガタンとドアが完全に閉まり、続いて、発車しまーす、というアナウンスが鳴った。バスが前進を始めると乗客は前のめりにやや倒れ、パタンと背もたれに背中を付けた。


 バスが動き出し、窓の景色も変わっていく。ヴィーザルの社宅もある社宅街を抜けると今度はサンクチュアリの中央市街へと通じる高速道路に入る道へと移っていった。


 集合住宅の間を高速道路は通っていて、道路を走る間、いくつもの見慣れた建物が視界に入っては後ろへ下がって行き、建物同士の間が垣間見えた時、その根本部分からさらに階下へと外テラスに似た剥き出しの市街区角がわずかに見えた。いわゆる地下街、ただしなんらかの遮蔽物が天蓋を覆うわけでもなく、サンクチュアリの第一階層よりも下にあるからそう呼ばれているに過ぎない。


 千景も何度か足を踏み入れたことがある場所で、地下ということでアンダーグラウンドな雰囲気を感じたり、イリーガルな印象を受けるかもしれないが、実際は単なる商店街に過ぎない。無論、本当の意味で違法行為が平然と罷り通る場所もあるだろうが、集合住宅の下部にある地下街はいたって普通な、ごく一般的な商業施設である。


 千景がガードレール越しに地下街を垣間見た時、同じく朱燈もそれを目にしていたのか、ぼそりときんつばと彼女はつぶやいた。正確にはきんつば味のブロックフードだが、色合いや味の良さから名物として知られている。ちなみに2人がつい先ほど目端で捉えた商店街には売っていない。


 窓の外を見つめるのにも飽きた頃、千景が車道へ視線を戻せばバスはちょうどパワープラントへ向かう道の分岐路を通り過ぎたあたりだった。早朝ということもあり、並行車も対向車も少なく、道は空いている。この分なら予定時間よりも全然早く着くな、と手首のマルチウォッチで時間は確認しながら、千景は微笑を浮かべた。


 「喜べよ、朱燈。あと15分もしないで着くぞ?」


 千景が笑顔をちらつかせて話しかけるが、朱燈はふーんとうつろげに返す。眠そうにうつらうつらとする彼女は目を閉じていればやはり猫のように可愛らしい。しかしいざ目を覚ませば発情期のセミかと勘違いするほどにやかましく、面倒臭い。


 眠いなら眠らせてやろう、と千景は余分に何か口にするのをやめ、再び視線を窓の向こう側へと向けた。朝日が顔を出してもうしばらく経って、集合住宅や企業のビルの表面が白く染まっていく。白い表面はより一層眩しくなり、鏡などないはずなのに見ているだけで目がチカチカした。


 中心街、つまり行政タワーの周辺に近づけばいよいよもって住宅街もなくなり、窓付きの建物が増えていく。サンクチュアリにおける富裕層が経営する企業のビルディングや官庁の庁舎がひしめく中、高速道路を降りたバスは普通の車道に入っていった。


 バスが停車するたび、人が降りていく。元々数人しか乗っていないバスであるからして、停車回数も少ない。官庁に勤めている人、企業に勤めている人、業種は多様だが、一貫して彼らは朝早くに出社し、ビルの口の中へと吸い込まれていった。


 建物の中へと消えていく彼らはいずれも死んだ魚のような膿んだ目をしていて、今にも眼球がゼラチン質に変わって、咀嚼されそうな危うい雰囲気を漂わせる。よほど過酷な仕事が待っているのだろう。


 もっとも、千景も彼らの腐臭を帯びていそうな後ろ姿を見送り、哀れみを抱けるほど余裕があるわけでもない。次の停車場所はヴィーザルタワー前だ。


 いまだに寝息をあげて可愛らしく丸まっている朱燈を揺らして彼女を起こそうとする、反射的にぶんなぐられた。より具体的には目にも止まらぬ速さで飛んできた裏拳が千景の口元に打ち付けられた。


 ぐふぇと千景はうめく。鼻ならあがぁ、額ならいてぇ、と彼はうめくだろう。ぶたれた際に唇が歯の間に挟まり、ズルリと内唇がえぐれたせいで、それはそれは痛かった。


 両手で唇を多い、千景は忌々しげに朱燈を睨んだ。しかし当の朱燈はだらしなく左手を垂れ下げ、寝息どころかよだれまで垂らしている始末だ。もぐもぐと白山羊よろしく自分の髪の毛を食んでいる姿が粗放さに拍車をかけていた。


 起こそうにも触ればぶたれ、そも朱燈が通路側の席に座っているせいで降りることができない。このままでは本来降りる場所を通り過ぎてしまう。最悪は窓から降りるかなどと下手な思案を思い浮かばせる中、不意にバスが急ブレーキを踏んだ。

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