第18話 VSネメアⅣ

 ブツンと何かが切れる音が千景のすぐ真横から聞こえた。


 振り向こうとはしなかった。無理向いても意味がないから。


 狙撃の師匠ならきっとこんな状況下でこう言うはずだ。


 「徒労Vain」と。


 なんともなしに耳の淵をなぞると、イヤーキャップにぶつかった。音が聞こえなくなったそれを意味もなくさすっていると、前方から足音が聞こえた。


 視線を前方へ戻すと、視線の先50メートル先にネメアがいた。


 ビルの屋上から跳躍したネメアはその勢いのままにオブジェに着陸し、ビルの中へと姿を消した。鉄筋コンクリート製のビルもさすがに上空から落ちてくる1トン以上の重量には耐えられなかったと見える。そのまま地面に打ち付けられて死ねばいいのに、と願っていたが、現実はそう甘くはなかった。


 千景がその姿を目にした時、ネメアは悠々と自尊心を回復した王者の威風を漂わせて暗闇の中から現れた。相変わらず、仮面に傷は入ったまま、F器官や仮面近くの装甲も破損したままだが、それでも狩りの愉悦、強者の自信を取り戻したネメアは堂々と、生物らしからぬ尊大さで千景の前に立った。


 その態度が千景は気に入らなかった。


 元来、生物とは怯えるものだ。人はもちろん、ネコもネズミも犬も何もかも。恐怖、それは生物すべてが持ちうる根本的な感情だ。どんな生物だって、どんな形であれ持っている。


 目の前のネメアもそうだった。最初に現れた時は上空のヘリを警戒し、またその周囲に目を配った。だから千景の初弾がそれほどの威力でもないのにオーバーな反応を示し、鼻骨を砕いた彼を猛り狂って追いかけた。


 それはすべて恐怖からくる防衛行動だ。非常に生物的で、原始的な根源からくる衝動。つまるところ、動物らしい行動だ。ライオンが餌のために狩りをする、反乱を恐れて元々のプライドの子供を皆殺しにする、挑戦者をズタズタにするのとなんら変わらない。


 しかし今のネメアは?


 「気に入らないな、その余裕」


 羽虫程度、ネズミ1匹程度が取り残されたと考えているのか、周囲に目を配ることすらしない。優位にいるから、殺せる立場にいるからこその余裕。


 それは人間によく似ていた。いや、人間そのものと言ってもいい。猫がネズミを痛ぶるように、ネメアは殺されないと高を括っているから、警戒心など微塵も見せずに暗がりから現れることができる。


 まるで自身こそ新たな霊長と言っているように感じ苛立ちを覚え、唾を吐きたくなった。たかが駄獣の分際で、敗北者の分際でお山の大将気取りかよ、と。


 「朱燈。そっちで数値は計測してるか?」

 『とーぜん。基準値以下。多分、もう大丈夫』


 よっしゃ、と千景は獰猛な笑みを浮かべる。仁王立ちのまま、ライフルを構えた。傍目から見れば滑稽な光景だ。槍一本で雷に挑む勇者のようだろう。


 千景の姿にネメアも笑う。表情筋に乏しい猫科であるため、それほど器用な笑い方ではなかったが、歯茎を剥き出しにして、声にならない声でネメアは笑った。


 直後、千景はライフルの引き金を引いた。ネメアの優れた動体視力であろうと、距離50メートルの超近距離では弾丸を見ることは叶わない。弾着は銃声よりも速く、千景が引き金から指を離した時にはすでに弾丸はネメアに


 「GRRRRRRRRRRR!!!!!!!!」


 大きく前脚を振り上げ、ネメアは咆哮を上げる。紅の巨躯が大きく背後へのけぞり、傷ついた後ろ脚ではその重量を支えられなかったのか、ドシャンと大地に背を打ち付けた。


 倒れたままネメアは身悶えし、顔面を激しく地面に、周囲の瓦礫に打ちつけた。痛い、痛いと悲痛にうめくネメア。日に照らされたその顔からはドロドロと血を流し、苦痛の源である右目の喪失を嘆いて唸る悲壮面が伺えた。


 「ざまぁ」


 ライフルを肩にかけ、千景は嘲る。クラスで幅をきかせるいい子ぶりっ子の睾丸を蹴ってやった気分になり、柄にもなく破顔した。


 しかしただ突ったったまま笑い転げるわけにもいかない。悶え苦しむネメアの醜態にひと満足をしてすぐに千景は挑発の意味を込めて銃撃を再開した。ただし使ったのはスナイパーライフルではなく、サブウェポンの拳銃だ。


 現代にいたるまで広く愛用されている9ミリ拳銃。フォールン相手には自決用以上、クマ避けの鈴未満の働きしかしないそれは適当にパンパンとネメアに撃った。


 15ミリ短機関銃や、対物ライフルの直撃を受けてもビクともしない化け物相手にそんなものは意味をなさない。当たったそばから弾かれるどころか、粉砕機にかけられたばりにひしゃげ、路傍のゴミに早変わりだ。


 それを承知で千景は銃を撃った。なんなら狙いをつけてもいなかった。相手が巨躯であることが幸いし、撃った弾丸は全部、体のどこかしらに当たったが、小粒程度には殺傷力はない。むしろ、相手を苛立たせ、いらぬ怒りを買うだけだった。


 痛みを抱えたまま、ネメアは立ち上がる。口腔に滴る自身の血を活力に変えて、ぼやける視界のその向こう側でこちらを挑発する道化を獣の王は憤懣やるかたないといった様子で睨みつけた。


 黒翼を広げ、ネメアは大地を蹴る。威風を纏わぬ王の疾駆、逆上のままに背を向けて逃げる不遜な輩を王は追った。


 ゆえに見落としていた。その目に入らなかったから。


 ネメアが走り出すと同時に朱燈もビルから飛び出し、走り出していた。おおよそ常人離れした健脚によりネメアの懐に潜り込んだ朱燈は鞘から自身の愛刀を抜き放つ。


 一閃。


 不意の浮遊感にネメアは困惑した。ジャンプなどしていないのに、なぜか自分は宙を浮いている。この浮遊感はなんだ。


 ネメアの思考が文字通り、宙を舞う中、朱燈は次の行動に出た。。次はどこを狙うか。その視線はガラ空きになった腹部へと向けられた。


 ネメアの外皮の中でもひときわ柔らかい部分、その朱色の腹部めがけて朱燈は刀を突き立てる。いかなネメアの体といえど、生物であることに変わりはない。朱燈の高熱刀は容易くネメアのはらわたへと浸透し、その臓腑を焼き焦がした。


 それと自身の影槍を展開し、その切先をF器官と胴体を繋ぐ二本の腕に向けた。移動の際は左右それぞれ6メートル近く伸びていたそれはしかし、今は3メートル程度の長さしかない。一見すると朱燈が燃料切れを起こしているように見えるが、実際は長さが短くなった分、厚みが増し、影槍本体を覆う結晶の密度も高くなっていた。


 腹部や鼻部と同様、ネメアの腕部はお世辞にも頑丈とはいいがたい。無論、堅牢な外皮と比べればだが。


 鉄筋コンクリートの外壁すら貫く影槍を前にその硬さは意味をなさない。広げられた影槍は容易く腕部を指し貫き、朱燈は力任せにそれを下から上に向かって振るった。


 人体にとっての第三の腕とまで言われるほど微細な操作が可能な影槍にとって、駄獣の体を裂くは容易い。瞬く間にF器官はネメアの体から分離し、その胴体が大地に顔面から激突するのとほぼ同じく地面に落ちた。


 ただでさえ傷ついて仮面をさらに打ちつけられ、ネメアは痛みと苦しさから絶叫する。必死にバタバタと両足を動かすネメアから刀を引っこ抜き、渾身の猫パンチに当たらないように距離を取った。


 刀を引っこ抜いた時もただ縦方向に抜くのではなく、大きく掬い上げるように抜いた。そのせいで返り血がべっとりと服に付き、泥と煤まみれだった衣服が、転じて真っ赤に染色された。


 「どーよ!」


 半ばヤケクソ気味に朱燈は起きあがろうとしてずっこけるネメアに迫った。前脚の腱を切られた影響でネメアはもう立ち上がれない。それどころか寝返りをうつことさえ難しいだろう。ひっくり返ったゾウガメのように両足をジタバタと動かすネメアを見ながら、ふーと千景と朱燈は溜まっていた緊張を吐き出した。


 腹部の傷、さまざまな裂傷、片目と鼻、そしてF器官すら切り捨てられた哀れな赤獅子。もはや警戒するに値しない裸の王であった。


 銃口を露出した皮膚へ押し当て、千景は引き金を引く。腹の奥底に響く重低音と共に血潮が熱を帯びて爆ぜた。赤々と滴る血を横目に千景は急に力が抜けて、地面に尻餅をついた。


 ふと頭上を見上げると、気持ちいいくらいに晴々とした蒼穹が広がっていた。


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