第7話 Mess and Load

 傭兵会社ヴィーザルの東京サンクチュアリ支部は行政タワーの西側に面している。通称、ヴィーザルビルと呼ばれるその建物は全高100メートルの高層建築だ。外見は縦にスライスしたピクルスを彷彿とさせ、正面玄関側が婉曲している一方で、裏側は平面という不思議な構造になっている。


 縦にも長いが、横にも広い。上層へ行くにつれて床面積が小さくなっていて、一回エントランスの横幅が60メートル以上もあるのに、最上階部分を見つめると、10メートル程度しか横幅がなかった。


 正面から建物全体を見渡すと、幾つもの骨組みが網縄状になって建物を覆っていて、フォールン大戦以前の縄で縛られた豚肉のような印象を受ける。ビルの中腹、ちょうど下から数えて20階のあたりは妙にひらけていて、大きな切り口が付けられているように見える。


 切り口に当たる部分にあるのはヘリポートだ。構造のイメージとしてはかまどが近いだろう。一見するとそこまで奥行きがないように見えるが、実際はかなり深く、数階まるまるがヘリ専用のスペースとして使われている。


 見遣っている間にも依頼を受けたヴィーザルの傭兵を乗せたヘリが離陸していく姿が見えた。ローター音などまるで聞こえず、実に静かな離昇だった。


 空へとローターを回転させて消えていくヘリの後ろ姿を千景は嘆息混じりに見つめていた。他ならぬ現実逃避の結果として。


 そんな千景のうろんな様子に気づいてか、彼の正面に立っていた男はその右手に持っていた電気ペンを顔面めがけて投げつけた。ぐぎゃ、という小さな悲鳴をあげて、千景はペンを投げた男に視線を戻した。


 立腹した様子のその男は黒いサングランスをかけた中年だった。オールバックの黒髪、ほどよく日焼けした肌、無精髭をめいいっぱい生やし、自分を睨む千景にそれ以上の凶相で睨み返した。


 ガタイはすこぶる良い。肩から胸にいたるまで衣服越しでもわかる無骨な筋肉の鎧を纏い、着ている防寒ジャケットの袖口から覗かせる手首には無数の傷跡があった。歴戦の戦士を彷彿とさせるその殺伐とした容姿の偉丈夫に睨まれ、さしもの千景も居心地が悪そうに口をへの字に曲げた。


 「随分と、逃避していたな」


 電気ペンを拾い上げ、机の上に置く千景を鼻で笑いながら、男は続けた。


 「信用の失墜を軽視しちゃいないか?ヴィーザルの傭兵としての自覚を失ったか?」


 どかりと椅子にもたれかかる千景は口を結んだまま肯定も否定も弁明もしない。言われるがまま言われ続けることをよしとする彼に男は何を思ったか、嘆息し姿勢を楽にするように促した。


 場所はヴィーザルビルの30階。数ある上級社員用執務室の一つに千景と朱燈は呼び出されていた。


 部屋の内装は執務室と言うよりかは来賓室に近い。部屋の主人の仕事机が上座にあり、その正面には来客用のソファが二つ、その間にガラス製の机があり、観賞用の造花が置かれていた。


 造花からはほのかにフローラル香りがただよってくる。21世紀中期に流行ったインプラントアロマというやつだ。


 上座を見れば机の後ろには窓があり、左右を見れば本棚がそれぞれ3台ずつ並んでいた。部屋の隅には除湿機と循環用の扇風機が置かれ、多湿な夏場の湿気を取り除き、ほどよく熱風を室内に循環させていた。


 居心地が良すぎて、ソファなんぞ腰掛けたらそのまま寝入ってしまいそうな確信があるゆったりとした部屋での仕事はさぞや快適なことだろう。少なくとも千景や朱燈のような実戦部隊に属する社員には味わえない贅沢だ。


 室内に差す陽光はほのかな暖かさがあるが、まだ午前であるため、部屋全体を照らすほどではない。青い影が目立つその部屋は当の主人が大層な強面で、口を開けば牙でも生えていそうな狼男であるせいで、夏場であるのに冬にも似た寒さを感じさせた。


 休めの姿勢をとる千景と朱燈を男は交互に見やる。無言のまま、居心地の悪い時間が流れた。


 「報告は聞いている。貴様らと防衛軍双方のものをな」


 重く、無機質な声で男は言葉を紡ぐ。まるで何かを朗読するようなひどく機械的な言葉遣いだ。


 「結論から言えば、貴様らの処罰は保留だ。状況を客観的に分析した結果ではあるがな」


 「草鹿くさじし課長。それはつまり、今後の仕事で信頼を取り戻せ、ということでしょうか」


 千景の問いに草鹿と呼ばれた男は首肯する。


 外径行動課課長、草鹿 春久はるひさは千景にとって上司の上司にあたる存在だ。本来は千景が所属する第三特務室の室長が、現在2人の前に立つのだろうが、あいにくとその席は現在空席になっている。必然、室長のさらに上にいる草鹿が出張ってくるわけだ。


 あるいは室長が健在だろうが、草鹿の前に千景と朱燈は立たされていたかもしれない。それほどに状況は面倒なことになっていた。


 過日の救助依頼の未達成、それはヴィーザルの信用に関わる問題となった。千景達からすれば救助したはずの人間が勝手に自爆した、というだけの話なのだが、防衛軍側は大枚を叩いて雇った傭兵が仕事を達成できずにあまつさえ、仲間を見殺しにしたとして、千景たちの処分を求めてきた。


 言いがかりにも等しい妄言ではあったが、クライアントの意向を無視することはできない。傭兵に限らず、退廃した世界であっても信用は必要不可欠で、決して損なうことはできないからだ。


 ヴィーザルにしても、木端社員数人のミスで防衛軍との契約に支障が出ることは望まない。かといってくだらない理由で社員をクビにするという悪しき前例を作るわけにもいかないという板挟みの中、彼らが導き出した結論は、結論の保留だった。


 「防衛軍にしてもある種の言いがかりであるという自覚はあるから、そんなふざけた判断を認めたのでしょうか」


 どこか他人事のように千景は飄然と質問する。豹変した千景の姿に呆れ、睥睨する草鹿を意に返さず、彼は一歩前に踏み出して再度、自分の理解が正しいかの確認を求めた。


 そのずうずうしさに観念したのか、緊張が解けたのか、草鹿は盛大に大きなため息を吐き、そういうことだ、と短く答えた。途端、千景はそれまでの神妙な表情をかき消し、いつもの何を考えているのかわからない朴訥とした素顔をさらした。


 「一応、反省文、じゃなくて始末書は書いてもらうがな。どういう経緯があったにせよ、依頼失敗は失敗だ」


 始末書という言葉に千景は心の中で唾を吐き、朱燈は露骨に嫌そうな顔をした。緩んだ頬を引き戻し、姿勢を正す千景を満足げに眺め草鹿はしめしめと鼻で笑った。


 他方、草鹿が視線を朱燈に向ければ、彼女はお叱りがないと知るや否や、上司の前であるにも関わらずオーバル端末を取り出していじり出していた。しかもあろうことか踵を返して許しもなくソファに腰掛ける彼女を見て、2人が他人事のようにため息を漏らしたのは言うまでもなかった。


 「本日、呼ばれた原因はそれだけですか?つまり、自分達の処遇について云々という」


 「ふむ。いや?違うが?」


 直前の重く無機質な声音からは想像もできない穏やかな声で草鹿はかぶりを振る。ならばどういう要件だ、と千景が聞くよりも早く、草鹿は自身の机に置いてあるホログラムパネルを操作し、あらかじめ用意しておいたウィンドウが浮かび上がった。


 浮かび上がったのはつい先日、千景と朱燈が仕留めたネメアだ。しかし倒れている場所の背景は瓦礫飛び散るネクロポリスではなく、暗い死体安置所だ。だからこれは解剖前の写真だろうと千景は推測し、写真の名前を確認すると解剖前とタグ付けされていた。


 旧時代の商品ページに同じ商品を別角度から撮った写真がいくつもあるように、映し出された画面にも写真は一枚だけではなく複数表示されていた。草鹿から許可をもらい、千景が写真をスワイプすると別の写真が表示された。


 表示されたのは最初から順にネメアの死骸、切断されたF器官、そして解剖後のネメアの写真が大まかな括りだ。別角度が撮ったと思しき写真が数十枚あって、近くで撮ったもの、遠くで撮ったものといろいろあった。


 「俺、自分達が仕留めたネメアですね。これがどうしました?」

 「別に俺でいい。そっちの方が話しやすいだろう?」


 狙撃の師匠のそんなさりげない好意に甘え、千景はではそのように、と返した。草鹿はその子供めいた反応が気に入ったのか、ふんと鼻で笑った。


 「どうしました、とは随分と寝ぼけた感想だな。このネメアと相対した時、お前は何も思わなかったのか?」


 「なるほど、そういう話ですか」


 言われて千景はネメアの死体に視線を戻した。


 まず最初に目に入るのは身体中、無数にある生傷だ。ネメアがフォールンの上位種である以上、手傷を負わせるどころか、撃退するまでの傷を負わせられるフォールンがいったいいくついるのだろう、という疑問がまず浮かぶ。


 ネメアが喧嘩に負けてボコボコにされる。それは普段からネメアよりも弱いフォールンに苦しめられている千景達からすればある種のファンタジーだ。しかし百パーセントフィクションとも言い切れない。


 ネメアよりも強力なフォールンは事実として存在する。同格の上位種や一部の中位種、そして滅多にお目にかかれない最上位種などがそれだ。具体的な名前までは思いつかなかったが、頭の中にはいくつもの凶暴なフォールンの姿が思い浮かんだ。


 それに加えてネメアは本来は群れを成して行動する個体であるのに、過日千景と朱燈が討伐した個体は単独で動いていた。これもまた千景が気になった点だ。


 通常、ネメアは群れの中にボスであるネメアと複数のスピンクスというネメアのメス個体、そしてボスの息子が数匹という大きめの群れを形成する。この群れはネメアがライオンのフォールン化した姿であるということで、プライドと呼ばれ、複数の上位種が徒党を組むという悪夢として知られている。


 そのプライドを持たず、傷を負ったネメア。ネメアが元はライオンだということを加味すれば、導き出される結論はシンプルだ。


 「このネメアはプライドから独立した若いオスです。それが、他のプライドを探す過程で、なんらかの脅威にぶつかった。自分はそう考えます」

 「ほう。根拠は」


 千景の出した結論の理由を聞きながらも、草鹿は満足げな笑みを浮かべていた。どこかいたずらっ子めいた、聞かなくても理由の見当はついているといった様子。しかし根拠を言え、と命令されたからには釈迦に説法をするしかなかった。


 「ネメアは強力なフォールンです。それに傷をつけられるとなれば同等以上を疑うのがまずセオリーでしょう。例外として大型の中位種などが考えられますが、ネメアに付けられた切り傷から見て、刃物のような武器を持った種に限定されます。そうなると」


 「大型の中位種では考えられないか。少なくとも日本列島では見かけないからな」


 基本的に中位種の中でも大型化するフォールンはフォールン化以前が脱皮する生物であることが多い。蛇やトカゲ、カニ、エビなどだ。日本列島で有名なその手の種と言えば、スカリビだが、あいにくと飛び散る鱗はあっても、それが刃物にはならない。


 中位種に明確な候補がいないとなると、次に候補に上がるのは同格の上位種、もしくは最上位種となる。それも刃物に似た部位なりF器官なりを有したタイプだ。


 「まだ見ぬ上位種を視野に入れ、調査をする必要があります。また、仮にこのネメアがプライドを持っていた場合、それが敗走するということは最上位のフォールンと戦った、ということなので現状、その巨大な反応が関東圏で確認されていない以上、可能性は低いでしょう」


 「プライドを賭けた戦いに敗れた、とは考えられないのか?」


 可能性はあります、と草鹿の意地悪な問いに千景は答えた。ないとは断言しない。しかし考えづらい可能性だ。


 「ネメア同士の戦いであれば、雷撃の応酬が無効であるため、必然的に攻撃手段は爪、牙に限られます。しかし対峙したネメアには切り傷はあっても、噛み傷や引っ掻き傷はない。まず間違いなく、ネメアとは別の上位種と戦ったと思われます」


 ネメアの頬から垂直に伸びる飾りのような板、それは電逃板でんとうばんと呼ばれ、ネメアが外部から受ける電気を地面や空気中に流す機能がある。そのおかげでネメアは自分の放った雷によって感電しない仕組みだ。もっとも、雨などが降れば板があろうが、なかろうが感電するのだが。


 千景の回答に対する説明に草鹿はふむふむと頷き返す。いつだったか、旧時代のドラマで見た、学生のレポートを品定めする大学教授のような印象を受け、千景はげんなりした。


 「ふむ。まぁ及第点か。ご褒美にこれを見せてやろう」


 そう言って草鹿はホログラムウィンドウを操作し、新たなウィンドウを表示した。なんだろうと千景がそれを拡大すると、それが傷口に関する調査結果であることがわかった。


 書かれていた内容はやや難解だったが、端的に換言するならば、ネメアの傷口に微量の砂鉄反応があった、ということだった。


 「こういうのがあるなら、最初から見せてくださいよ。説損Vainですよ、説損Vain


 「そうでもないだろ。すぐに赤本の答えを見て、わかりきった気になる高校生にならずに済んでよかったな。お前の知見は無駄Vainにならずに済んだわけだ」


 口を尖らせる千景を草鹿はからからと笑う。偉く上機嫌な様子の彼を不審に思いながらも千景は視線をホログラムウィンドウへと落とした。


 砂鉄。岩石中に含まれる鉄分が砕かれ、淘汰集積したものだと千景は記憶している。今も昔も砂場に磁石を突っ込んで引き上げれば煤に似た塊がたんまりと取れる。だから特段の物珍しさはないように思えたが、めくったページに書いてあったその含有量を見て、千景は目を丸くした。


 「なんですかこれ。鉱脈でも掘り当てたんですか?」

 「あるいはネメアがそういうことなのだろうが、フォールンに鉱石を収集する癖があるとは考えられんな」


 ですよね、と数値と睨めっこしながら千景はうなる。ネメアが電気を纏うその性質上、多少の磁鉄鋼が体に付着してしまうというのは理解できる。それでもその磁力は放電状態でもなければ微弱だし、街を歩いていたらところ構わず金属製品が体にくっつくというわけでもない。


 必然、砂鉄を付けたのはネメアではない別のフォールンという話になるのだが、あいにくと千景はそんなフォールンについて心当たりがなかった。そも、上司であり、自分よりも経験豊富な歴戦の勇士である草鹿が知らない、ヴィーザルのデータベースにないという時点で千景が知るわけもないのだが。


 「まぁようするにだ。今後、外勤が増えるだろうから、注意しろって話だ」

 「なるほど。確かに」


 信用回復のためにこれまで以上に仕事が振られるというのはなんとも慈悲深い話だ。涙の海で溺死してしまいそうです、と皮肉をこぼす千景に、がんばれ、と草鹿は淡白に告げる。


 全く心のこもっていない上司からの激励に千景は苦笑し、朱燈は他人ごとのように鼻で笑った。咎めるように千景が振り返ると、あろうこと彼女は机に足を乗せ、だらしなくソファに埋もれていた。


 「それで要件というのはこのネメアについてですよね。まぁ気をつけろと」


 向き直り、千景は表示されっぱなしのホログラムウィンドウを指差した。ネメアを圧倒する未知なるフォールン。その警告のなんとありがたいことか。


 フォールンと戦う時、いつだって人類は不利な状況にある。数の劣勢、装備の不足、経験の有無。そのどれもが足りず、全滅、潰走するケースは後を経たない。それは仕方のないことで、フォールンとの戦いは有史以来、人類が初めて味わうことになった少数精鋭を主軸に置いた戦いだからだ。


 F因子による人体のフォールン化、フォールンの未知の生態、不可思議な地形、一部のフォールンが有する放電能力。大規模な部隊を送り込もうものなら、一塊になったところを一網打尽にされ、無人兵器を使えば未知との遭遇によって撃墜される。


 電子戦をやろうにも頭上の衛星は多くが、あるフォールンによって撃ち落とされ、今も稼働している少数の衛星でやりくりとするしかない。新たな衛星を打ち上げようにもその予算もない。


 フォールン大戦と人類のマジョリティが呼ぶ戦いは言うなれば熾烈な消耗戦だ。そのためか、サンクチュアリを指してシュラクサイやら樊城やらと呼ぶやつもいる。


 千景は最初、それがどういう意味なのかわからなかったので、近くにいた草鹿に意味を尋ねた。草鹿は言い淀んだが、ついにはいずれも籠城戦で負けた都市の名前であることを暴露した。


 以来、千景はサンクチュアリという名前にいいイメージを抱かなくなった。ヴィーザルとして働き、都市の実態を知っていくに連れ、余計にその気持ちは強くなっていった。


 それでも人類にとってサンクチュアリ以上に安住の地もない。それも理解している。皆が皆戦えるわけではないのだから。


 その安住の地を守る尖兵、それが千景であり、ヴィーザルの傭兵だ。社会から落伍した彼らは「漁り屋スマグラー」などとも呼ばれる。ようはヤクザが薬中にハジキ持たせるみたいなもんだよ、とこの職に就いた時、千景を採用した軽薄な男はからからと笑いながら言った。


 千景と朱燈が所属する外径行動課は中でもサンクチュアリ外での外勤が多い部署だ。場合によってはサンクチュアリからのバックアップが受けられない環境で依頼をこなさなくてはならない。


 「ほんと、ありがとうございます。感涙で咽び泣いてますよ」

 「そうかそうか。じゃぁもっと泣こうか」


 「え?」「ん?」


 ガタリという音が背後から聞こえ、即座に千景は振り返った。真っ先に視界に入ってきたのはソファから立ち上がり、今まさにドアへ向かって走り出そうとスタンディングスタートのポーズをとる朱燈の後ろ姿だった。


 反射的に千景は彼女目掛けて飛び掛かる。走り出したと同時に千景の両腕が彼女の黒タイツをガバッと掴み、バランスを崩した朱燈は盛大に顔面から床に激突した。


 「ぎゃーあほー!!放せー!!」

 「逃すか!このバカ!っておい蹴るな痛い痛い!あとその耐性だと短パンずり落ちるぞ!」


 「だーほー!!!!そういうことすんならもっと別の場所でやれ、この唐変木!!きめぇ!!!」

 「痛い!痛いって!逃げるなって!仕事から逃げるなー!」


 「へんしつしゃー!!!クロウマーン!!」


 クロウマンはヴィーザルには来ませーん、などと叫ぶ千景を横目に草鹿はため息混じりに立ち上がり、もぞもぞと動くその尻を踏みつけ、落ち着け、と彼らに命令した。ちなみにクロウマンとはサンクチュアリのマスコットヒーローである。ペストマスクに似た仮面が特徴的なキャラクターだ。


 暴れる朱燈の両腕を抑え、半ば彼女に抱きつくような形で取り押さえようとする千景はしかし背中に回ると同時に肘鉄を左右の脇に喰らい、おへぇ、と溜まっていた息を吐き出した。辛くも千景の拘束から逃れた朱燈はすぐに立ち上がって入り口を目指すが、一瞬にしてダメージを回復した千景が再び覆い被さり、その姿勢のまま2人は草鹿からの依頼を聞く羽目になった。


 「——ありえないって!」


 人気のない廊下に朱燈の絶叫がこだます。納得がいかない、と頬を膨らませる朱燈、怒り心頭、憤懣やるかたないといった様子でグギギと唸る彼女の隣で、改めて千景は草鹿から言われた仕事の話を脳裏で思い返し、怒る彼女とは対照的に諦観からため息を吐いた。


 ため息混じり、ふてくされ混じりに2人が第三特務分室の執務室へと入っていく。その時、狙い澄ましたかのように複数のクラッカーが彼らの顔に向けられ、そして火を噴いた。


 パーン!!


 サンクチュアリ内では決して珍しくはない液体火薬の匂いが鼻腔全体に広がる。嗅ぎ慣れた匂いとはいえ、至近距離で浴びせられればクラクラしそうな激臭だ。うっとうめき、後ずさる。


 視界はカラフル。聴力はお粗末。赤、青、緑、黄、紫、桃、水色と多様な色が千景と朱燈の視界を奪い、耳は激音で方向感覚を失っていた。どこへ歩いているかもわからないまま、2人はどさんと背後の壁に背中をぶつけた。


 「祝!我らが隊長、副隊長の借金生活イエーィ!!」


 クラッカーの破裂音で耳がバカになっていても聞こえるアホみたいな声が室内の方向から聞こえてくる。同じようなテンションでイェーイと最初に聞こえた声に比べて甲高い声も聞こえた。


 クソ、と人間相手に千景は悪態ずく。いまだにグワングワンとタルの中をゴムボールが回っているような音と感覚が残るが、平衡感覚が戻り始め背後の壁の支えなしで立てるようになった千景はぼやける視界のまま、バカをやらかしたバカを睨んだ。


 「よぉーす、ちかげー!!優しい先輩からの祝賀砲だぞー!」


 そう言って自分の両肩をバンバンと叩いてくる大柄の男に千景は軽い舌打ちをこぼした。明らかな拒絶、しかし男は気にするそぶりを見せず、ガハハと笑い傍からすり抜けようとする彼の背中をバンバンと叩いた。


 明らかに染めているとわかる緑色の髪、日本人らしい黒目、体つきは力に比例してたくましく、そのせいか、彼の着ているシャツはパッツパツだ。開けた胸ぐらから覗かせる首元から鎖骨までのラインが艶かしく、年齢を無視したダンディズムを感じさせる。


 年齢で言えば千景の3歳上、草苅 冬馬は御年20歳の巨漢であり、千景が隊長を務める第一小隊の隊員である。ポジションは中衛ミドル。主に側面からの強襲や前衛フロントの補佐をするのが仕事だ。


 ガハハと豪快に笑う、体育会系さながらの大きな態度からは補佐とか援護なんていうみみっちい作業を得手とする片鱗さえ感じないが、実戦となればその実力は折り紙付きだ。いざとなれば千景に代わって指揮もできる。


 ただ、イタズラ癖があるのが玉に瑕であるだけで。


 「ごめーん、朱燈ちゃん!だいじょぶ、だいじょぶぎゃ」


 冬馬が千景を可愛がる傍ら、もう1人のいたずらっ子は朱燈によってアイアンクローをかましていた。ネメアの外皮を切り裂く刀剣を振るう膂力から繰り出される往年のプロレス技はギチギチメリメリと彼女の頭蓋を砕かんとしていた。


 ギブギブとうめく黒髪の女性に対し、朱燈は容赦ない。本当に頭蓋を割るんじゃないか、と周囲がハラハラする中、さすがの朱燈もそこまで非道ではなく、持ち上げたままうめく女性を壁に叩きつけるにとどまった。それだけでも彼女が気絶するほどだったが。


 朱燈に抱きつこうとして、即座に組み敷かれた女性、阿澄 嘉鈴あすみ かりんは冗談めかして「はらほろひれはれ」などと寝言を言う。叩きつけられ、ノックダウンしているのに器用に。


 伸びている嘉鈴を尻目に朱燈はむくれて、自分の席へと戻っていく。苛立っているところにトンチキなイタズラをされたせいで、怒髪天を突く勢いで怒りが駆け上った結果、怒鳴る気力もなくなったらしい。


 千景もどうにか冬馬のウザ絡みから抜け出し、自分の席へと座り、一息入れようと自身のオーバル端末を起動した。イヤーキャップをオンにして適当な動画サイトで適当な動画を垂れ流した。


 しかし、動画を見始めてものの数分で、チロンとメールが届いた音が鳴った。端末の上部からスライドする形で降りてきたメールの差出人を見て、はぁーと千景は大きなため息を吐いた。


 差出人は言わずもがな草鹿だった。いや、草鹿以外にはありえなかった。


 開けるか開けないか逡巡し、千景は諦めてメールを開いた。先の執務室での口頭伝達とは違う、正式な命令書がポップアップし、ついに逃げ場がないことを悟った千景は面持ちたっぷりにわかりやすくため息を吐き、椅子から跳んで立ち上がった。


 ガタンという大きな音がしたおかげで室内にいた全員が千景に視線を向けた。むぎゃー、と隣の席に座っていたクーミン・ミハイロフがうめいたが、千景は気にせずあたかも今し方命令を受けた体で話し始めた。


 「第一小隊各位。今し方、課長経由で命令を受けた。ちゃーんと聞くように」


 おふざけがひどい冬馬や嘉鈴も草鹿の名前が出されると、一転して姿勢をただし傾聴する姿勢を取る。頬を引き締め、真面目一徹といった表情のまま寝ぼけ眼のクーミンを叩き起こしたのは自他共に認める女好きの嘉鈴だった。


 むにゃーとまだ柔らかい猫のような声で喘ぐクーミンだったが、嘉鈴に背骨をグリグリされると、途端に跳ね起き、うつろげだった瞳をかっぴらいた。空を象ったような青い瞳が雲耀のごとき毛色の中に輝き、うい、と命じてもいないのに彼女は千景に対して敬礼をした。


 「よーし、第一小隊全員集合したってことで命令を通達するぞ。と言っても、原文ママで読むんだけどな」


 先程までの苦悶の表情はどこへやら、千景は視線を手に持ったオーバル端末へと落としてそこに書かれた命令文をそのままに読み始めた。


 「『通達、ヴィーザル東京サンクチュアリ支部行動策定部第二環境統計課より、外径行動課第二及び第三特務室各第一小隊へ。明朝6時に支部ビル20階のヘリポートへ装備を整え集合。各小隊は緊密に連携し、オムスクサンクチュアリ発の輸送便サモルート676便より、要救護者を回収せよ』」


 そこまで読み上げ、千景は画面をスライドさせ、下部を見る。そこには命令書にあった要救護者の名前と顔写真が添付されていた。その写真を隊員全員の端末へ送り、千景は快活そうな笑顔を浮かべた。


 「ま、要するにその写真のやつを回収して、帰還しろって話だ。端的に言えば護衛任務だな」


 「護衛、ね」


 千景の言葉に冬馬が含みのある言い方で反応する。千景はその言を敢えて聞き流し、全員に武器の点検と装備の整備を命令した。


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