第17話 VSネメアⅢ
喉を痛めるんじゃないか、と心配になるような大声で怒鳴る千景。それとは対照的な落ち着いたナイスガイ風な声が返ってきて、さらに千景は苛立ちをつのらせた。
『どうした、室井中尉。我々は貴官の援護を』
日本という国には古来より、ありがた迷惑という言葉がある。他人のためにやったことが必ずしもその人のためになるとは限らない。
そんな言葉を脳裏によぎらせなくてはならないほど、状況は逼迫していた。というか、逼迫する状況に千景と朱燈を追いやっていた。
まさか自殺願望者の救助依頼などとは夢にも思っていなかった千景は諦観も込めて頭上を仰いだ。あいにくと空は見えず、灰色の天井が彼の視界を遮っていた。よしんば空が見えても黄ばんだ汚染物質まみれの空だろうが。
「あのなぁ!ネメアは」
『隊長!煙が晴れます!へへ、これで』
割り込む形で防衛軍の誰かの声が千景の耳に聞こえてきた。馬鹿野郎、と千景は心の中で叫んだ。
粉塵が晴れ、ヘリから眼下を見下ろす防衛軍の兵士達はその視界いっぱいにネメアの姿を捉えた。同時に彼らは多様な声でうめき、阿鼻叫喚と化した。
違う声が次々と耳に入ってくる。バカな、とか、そんな、というありふれたセリフを吐く隊員がほとんどの中、立山だけは震え声で千景に自分の目の前にある光景、つまり千景も見ているだろう光景について言及した。
無傷。戦闘前に負っていた傷、千景の狙撃によって破壊された鼻部の傷を除けば、ネメアは全く傷を負っていなかった。銃創はおろか、かすり傷ひとつなく、平然としている赤い大君。
鷹揚にF器官をビルから引っこ抜き、広げるネメアの意識は狩りの邪魔をしに現れた天空の蜻蛉へと向けられる。垂直直立のまま、ネメアは視線を彼らに向け、低い声で唸り声を上げた。
「つ。すぐに上昇!でないと撃ち落とされるぞ!!」
『上昇だ!上昇しろ!』
立山の悲壮めいた声が聞こえる。手遅れかもしれないが、それでも喚起することしか千景にはできなかった。
千景の悔恨を他所にネメアは大地、ではなくビルを蹴って、垂直上昇を始めた。物理学者が見れば、腹を抱えて笑いそうな垂直移動、1トンを遥かに超える重量を持つ生物が、ただ己の筋力だけで80メートル以上もあるビルを駆け上っていた。
その速度は尋常ではない。ビルの枠組みをネメアが蹴るたび、踏みしめるたびに崩落し、粉塵が舞う。赤く迸る雷光を見に纏い駆け上るその姿は空を目指す稲光のごとくだった。
向かってくるネメアめがけてヘリからの応射は続く。死に物狂いで放たれる無数の弾丸、しかしそのどれもがネメアに当たることはない。
『なぜ、当たらないんだ!!こんなに撃ってるのに!!』
『はやく!早く!速く!』
弾丸は外れる。防がれる。逸れる。駆け上るネメアを止めることはできない。迸る銃火も重力も赤色の大君を止めることは叶わない。
ぽっかりと空いた六階の穴から身を乗り出して、千景はその後ろ姿を睨んだ。ネメアが奔ると同時に電流がビルに走る。そのせいか、ただでさえ赤くて目立っているのにより一層明るく見えた。
ネメアが大地を疾駆する時、その姿は赤い閃光にも例えられる。欧州ではネメアのことを「緋色の閃光」と呼ぶのだという。イヤーキャップ越しに聞こえてくる防衛軍兵士の悲痛な叫びから意識を逸らしたくて、ついそんなことを考えてしまった。
どのみち、もう救えないのだから。
ヘリはゆっくりと上昇しているが、思うようにならないのか、操縦士はなんでなんでと連呼している。ガチャガチャとマイク越しに彼が操縦桿を押したり引いたりする音が聞こえた。
悲痛な叫びがさらに重なって聞こえてくる。銃声、装填音、罵声。引き金を絞ったまま、カスカスと空気が漏れる音もちらほらと。
頭上の敵目掛けて千景はライフルを構え、即座に引き金を引くが、やはり彼の弾丸もネメアには当たらない。当たる数十センチ手前で軌道を変え、亀の甲羅をなぞるようにあらぬ方向へ進んでしまう。
長距離狙撃ライフルを持つ千景が手を出せないならば、さらに射程が短い朱燈にはもはや雲上の戦いだった。彼女は頭上で起こるだろう惨劇を予感し、諦観めいた視線を向けた。
ものの数十秒でネメアはビルの屋上までたどり着くと、勢いに乗ったまま、宙へ飛び上がった。驚異的なジャンプ力で数十メートルの距離を縮め、ヘリとの相対距離は50メートルもなかった。
元来、ネコは高いジャンプ力を持つことで知られるが、それを鑑みても驚異的な距離だった。F因子による瞬間的な脚力上昇を加味しても、どうやって、とネメアの背中を見る千景は乾いたため息をこぼした。
飛び上がったネメアはそれまで広げていたF器官をたたみ、砲撃モードを取る。だが、今度は先ほどのような溜めの動作は見せない。瞬間的に赤雷がネメアの体を包んだかと思えば、次の瞬間それはF器官へと集中する。
滞空時間は数秒とない。その間、天性の勘と野獣の本能がネメアに照準、固定、発射の
バスケットボールにおける滞空時間が長いとはすなわちプレイの自由度の高さを言う。人間では不可能な精密照準を理科の知識を一ミクロンも知らないネメアが可能とするのはまさしく皮肉と言えた。
放たれる雷撃、それは埒外の暴力そのものであった。F器官を砲身に見立てて、大気を切り裂いて電流が迸る。ボルト換算で数百万ボルト。本来であれば50メートルという距離を完走できる出力ではない。
しかしネメアが放った電撃はF因子を巻き込んで減退するどころか、増幅される。大気という天然の絶縁体すら貫いて、ネメアが放った無数の電撃は容易にヘリに届き、その後部ローターに命中した。
ワット換算で数キロワットに匹敵する攻撃だ。ヘリに施された落雷対策も意味をなさない。
直撃と同時に後部ローターは爆発を起こし、次いで装甲へその魔の手は広がっていく。無数の雷槍がヘリを貫き、その機能を奪っていく。
操縦士の悲鳴、投げ落とされる隊員達の姿、爆炎の香り、肌を撫でる爆風、舌先につんとくる苦い火薬の味。五感すべてがヘリコプターが落ちると千景に告げ、だからこそ千景はライフルに次弾を装填して、ビルから降りた。
ヘリのローター音がヒュヒュルと遠ざかっていく。目視でも確認し、あれはもうダメだなと悟った。搭乗員ももう誰1人として生きてはいまい。炎上する機材、爆発の音だけが間近に聞こえるばかりだ。
宿願を果たしたネメアの咆哮が市内にこだます。歓喜の咆哮だ。
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