第10話 ヴィーザルⅡ

 朱燈の背中を見送る千景は気を取り直してスコープに視線を戻し、前のめりなってまず誰を狙うかを考えた。セオリーで言えば間違いなくリーダー格のオーガフェイスだ。群れのリーダーを失えば、群れは統率を失い烏合の衆と化す。古今東西、どの戦場でも言えることだ。


 けれど、と千景は目を細めた。周囲の環境、崩れたビル群、互いの屋上部分を削り合いながら沈黙を貫く同じ形のビルへ視線を行き来させる。何が潜んでいるかわからないビルの暗闇を思えば、千景はなかなか引き金を引く決心がつかなかった。


 彼らが対峙している種、オーガフェイスは群れをなして生活する生物だ。その群れは時に20匹、30匹にまで膨れ上がる。報告が正しいのなら12体というのはかなり少ない方だ。そのたった12体で高さ80メートル以上はあろう鉄筋コンクリートの塊を崩せるものだろうか。


 人が爆薬をせこせこ用意すればなんとかなる気もするが、フォールンにはそんな知識はない。根本を破壊するにしても最低でもあと6匹は必要だ。頭突きをするにしろ、バカみたいな大顎を使うにしろ、一体でやるには費用な労力が大きすぎる。


 無論、これは勘だ。ひょっとしたら12体でせこせこ頑張って建物を倒壊させたのかもしれない。しかし確証が持てない以上、下手に攻撃することができないのが狙撃手の難しくも焦れる点だ。


 「なぁ、朱燈。今どこだ?」


 防寒ジャケットの襟に内蔵してあるマイクを口元に引き寄せ、千景は朱燈へ交信を行う。すぐに答えが返ってきた。


 『あとちょっとでオーガフェイスのとこだけど?』


 「数が合わない気がする。ひょっとしたら何体かまだ潜んでるかも」

 『ひょっとしてあたし、囮?』


 「想像にまかせるよ」


 ムキー、と何か言ってきたが気にせず千景は現状の維持に努めた。どのみち、朱燈が到着すれば自分の憶測が正しいかどうかわかると。


 「つっても、さすがにずっと見ているのもな」


 一瞬、逡巡するように千景は狙撃の師の言葉を述懐した。「狙撃手は見つかったら終わり」「撃ったら走る」「どんな時も後背をチェック」等々。どれもありふれた金言だ。


 しかしそれはあくまでも近づかれたら負けの狙撃手に対して送られる言葉であって、いうなれば狙撃手の心構えみたいなものだ。俺ははたしてどうかな、と前のめりに千景はライフルを構え、呼吸を整えた。


 引き金に指をかけると同時に彼は風速も何も確認しないままそれを引いた。衝撃が鈍く両腕に伝わり、金色の薬莢が排出される。その銃声は戦場一円にこだまし、やや遅れて朱燈の耳にも届いた。


 朱燈が戦場に降り立った時、オーガフェイス達はオブジェの中から救援を求めた小隊の面々を引き摺り出したのか、約5名を残してそれ以外の姿は見えなかった。斜めに倒れたビルの上には数体のオーガフェイスが乗っていて、彼らの口元には血痕がこびりついていた。


  ——あるいは肉がこびりついていた。


 総数10体。それがたった5人しかいないか弱い人間の小隊を取り囲んでいた。


 小隊の隊員らは怯えた表情で銃を構えていた。円形陣を作り、銃口を取り巻くオーガフェイス達に向けていた。オーガフェイス達は彼らを嘲笑うようにして、これ見よがしに大声をあげて威嚇する。硬質な仮面を正面に向け、哄笑しているようだった。


 一般に動物には表情筋と呼べるものをものが少ない。猫や犬、カラスや鳩は持ち合わせないし、魚などは論外だ。しかし猿や豚といった比較的知能の高い動物はこの顔を大きく動かす筋肉を持っている傾向にある。


 オーガフェイスはマカク属がフォールン化したものとされている。日本人に馴染み深いところで言うと、ニホンザルなどだ。


 仮面の内側の狼咽を思わせる剥き出しの歯茎をこれでもかとかっぴろげ、下品に邪悪に彼らを笑う。その悍ましいまでの光景に朱燈が腰の武器を抜こうとした時、不意にオーガフェイスの一体がうめき声一つなく前の前りに崩れ落ちた。


 その直後、戦場にいた誰もが空気を射抜く乾いた銃声を聞いた。


 遠方からの一射、音速の六倍以上の超高速の弾丸は容易くオーガフェイスの背部からその脳髄にまで届き、絶命させた。どれほど正面の仮面が強かろうと、背中がガラ空きであれば意味はなかった。


 目の前で突然仲間が葬られたことにオーガフェイス達は動揺を覚えたのか、呆然と立ち尽くす。ついさっきまで上げていて身の毛もよだつ咆哮も哄笑も上げず、ただ目をぱちぱちと可愛らしく開閉し、しきりに悲しそうにうめいた。彼らの悲哀めいた鳴き声は仲間の死を厭う礼砲のようにもレクイエムのようにも聞こえた。


 「茶番だな」


 相手の動きが止まったところですかさず千景は第二射を撃った。今度は背中では側頭部への銃撃を受け、また一体、オーガフェイスは絶命して崩れ落ちた。


 脳髄を撃ち抜かれ、貫通した弾丸が地面にめり込んだ。それもそうだろう。千景の持つ狙撃用ライフル、AMSR70Bは対中位フォールンを想定した大口径対物ライフルだ。本来であれば中位種以上の強固な体を貫くことを目的とした狙撃ライフルで、それを下位種に向ければ正面からでもオーガフェイスの仮面を貫ける火力を見せる。


 他方、威力に対して取り回しはすこぶる劣悪だ。ボルトアクション式であることもその一つだが、やたら重く、やたら反動が大きい。最新式の狙撃銃は照準補正やら反動防止装置やらがついている一方、一世代前の狙撃銃であるAMSR70Bは照準補正装置と弾道計算機は標準化されているが、反動防止装置がないせいでふんばらないと後ろに倒れてしまう。


 現に狙撃をしようとすれば仁王立ちになるか、寝そべる他ない。待ち伏せ前提の狙撃手向けではあるが、やはりその取り回しの悪さは兵士達の間では不評で、生産も短い間に打ち切られた悲しい武器だ。


 しかし千景は自分のスタイルにこの銃が最も適していると感じていた。普通の兵士には鈍重だろうが、自分ならば普通の狙撃銃と変わらずに持てる。多少、装填は遅いかもしれないが、一弾一弾を注意して当てればいい話だ。


 それができる。なら、それをするべきだ。


 スコープ越しに慌てふためくオーガフェイスを見つめながら千景はそうひとりごちた。


 慌てるオーガフェイス達はしかしすぐに物陰に隠れ、千景のいるビルに視線を向けた。鋭敏な五感があればこそ、彼らは即座に敵の居場所を把握できる。対応も見事だ。


 さぁどうする、と千景は珍しく相手の出方を伺うように狙撃を中断して、その動向を見守った。しかし千景の思惑とは裏腹に朱燈は物陰に隠れたオーガフェイスめがけて突貫していた。


 腰に帯びた刀剣を引き抜き、物陰に隠れるオーガフェイスに飛び掛かると、その仮面に向かって縦一文字に剣を引いた。どこからどう見てもごく一般的な日本刀の形状である彼女の武器は、まるで豆腐でも切り開くかのようにオーガフェイスの仮面に食い込むと、それを真っ二つに切断する。


 それは異様とも言える光景だった。童謡フェアリーテイルの世界から現れた超人的な少女の手によって、15ミリの弾丸すら弾くオーガフェイスの仮面はおろか、その胴体もふくめて、真っ二つに切り裂かれたのだから。


 血潮が迸り、頭からオーガフェイスの血を浴びた朱燈は心底気持ち悪そうに、うげぇ、とこぼした。頭から血をかぶったせいで白かった白銀の髪は真っ赤になり、内蔵の一部が肩や二の腕に引っかかっており、マスクの内側で小隊の面々はうめき、反射的に口元へ手を伸ばした。


 倒れたオーガフェイスの断面からは内蔵がどろりとこぼれ落ちる。したたる赤湯は大地に広がり、濃淡な鏡となって朱燈を写した。


 他がどう自分を見ているかなど気にする素振りを見せず、朱燈はジャケットの裾で血と油がべったりとついた刀身をぬぐった。直後、ジュっという何かが焼き切れた音が朱燈の二の腕あたりからした。それは決して聞き間違いではなく、朱燈がだらりと垂らした左手にはジャケットの繊維が焦げた跡がついていた。


 周囲のオーガフェイスはなお、彼女を見続ける。身構えるように朱燈が中段に刀を構えるとようやく放心状態が解けたのか、リーダーと思しき個体が雄叫びを上げて他のオーガフェイスに臨戦体制を取るように命令した。


 朱燈の左手側に立つリーダー格のオーガフェイスが、はるか前方にあるオブジェから降りてきた7体のオーガフェイスが鼻息を荒くして彼女の動向を伺う眼差しを向ける。その視線を鬱陶しく思いながら、朱燈はどうするか、を思案するようにオーガフェイスと傷ついた小隊の間で視線を行き来させた。


 数は10人を切っているが、幸いなことに怪我人はいない。防刃ベストに装着されているマガジンにもまだ余裕がある。例え自分が一体一体を瞬殺できなくとも千景による援護があれば守り切れる。


 皮算用だが、できると判断した朱燈の行動は早かった。


 踏み込むと同時に彼女は近くにいたリーダー格のオーガフェイスめがけて走り出した。大地を蹴り、一気に加速する。おおよそ人体のバネの力すべてを動員してもなお足りない圧倒的な跳躍だ。


 その速度を前にオーガフェイスらは目を見開いた。人間らしい驚嘆の顔、表情筋の柔軟な種でなくてはできない表情だ。あわててオーガフェイスは彼女の一刀を避けようと背後に向かって跳躍した。


 元来、オーガフェイスは丸みを帯びた体型にも関わらず非常に高い跳躍能力を持つ。サルがフォールン化したからだ、と言われれば納得するだろう高い身体能力、発達した後ろ足による跳躍は一跳びで三階から四階までの距離を跳べるほどだ。


 しかしその脚力に朱燈は負けていない。むしろ、行動が早かった分、朱燈がオーガフェイスの目の前に到達する方が早かった。


 速度を維持したまま、朱燈は止まることなくオーガフェイスに切り掛かった。止まらず、速度という重さが乗った渾身の一刀を逆袈裟斬りの要領で掬い上げるように彼女はオーガフェイスに浴びせた。


 空気を切る一刀はヒュッという風切音を奏で、彼女とオーガフェイスの間に神速の斬撃を生んだ。血飛沫がわずかに迸り、直後にオーガフェイスの鼓膜を破るような絶叫が周囲一円にこだました。


 左手を庇い、離脱するオーガフェイスははるか上空から雄叫びをあげる。いっそ鬱陶しく、被害妄想も甚だしい悲痛な絶叫は、あたかも自分が被害者だと訴えるようで耳苦しいものだった。


 『つ。外した』

 「珍しいじゃん」


 イヤーキャップから聞こえた千景の声に朱燈はうっさい、と返す。速度に身をまかせすぎて、完全に目標を見失っていた。大方寸前でホワイトアウトしたから、適当に刀を振ったとかだろう、と苛立つ朱燈を他所に千景は勝手に予想し、結論づけた。


 しかし軽口を叩きながらも腕を庇うリーダー格のオーガフェイスの動きを注視していた。朱燈の一刀を受ける直前に上体を右に逸らし、左手だけを犠牲にした。その判断は非常に人間臭く、動物らしからぬ生き汚なさだった。


 その非生物的な外観のせいで勘違いしがちだが、フォールンとて元は一般的な動物だ。行動原理は野生の動物そのもので、人間を襲うだけでなく、同種や別々の種の間で殺し合いをすることも多々ある。当然ながら、オーガフェイスのように群れを形成する種も多くいる。


 千景のよく知る群れを形成する動物、例えばライオンなどはオスは死に物狂いで生き残ろうとする。自分のたねを守るため、子孫を残すためになんとしても死にそうな局面から生き残ろうとする習性がある。


 それは生物としてのヒエラルキーの高さに由来する一種の生存欲求だ。生き残りたいと思う動物は多くいるが、それは種の頭数が少ないほど顕著になる。


 「けどオーガフェイスは。人間でも真似ているつもりか?」

 『独り言うるさい』


 「悪いね。それよりも朱燈」

 『なに。様子見?』


 「いや。うーん。ちょっと気をつけた方がいいかもな」


 どういうこと、とすぐに朱燈から返事が返ってくる。わずかに間を置いて千景はその理由を答えた。


 「お前が殺しそこねたやつ、ひょっとしたら厄介なやつかも」


 それってどういう、と朱燈が言いかけた直後、空めがけて片腕になったオーガフェイスは聞いたこともない大きな雄叫びを上げた。それはいっそ咆哮と言い換えてもいい。


 怒りをひしひしと感じる絶叫が周囲にこだまし、それに答えるように背後にいた7体のオーガフェイスも同じように雄叫びを上げた。


 『なにこれ』

 「んー。こいつは」


 その雄叫びは千景にもイヤーキャップ越しに聞こえてきた。距離800メートルではさしもの雄叫びも唸り声のようにしか聞こえない。無論、そんな遠くまで声が届くのもなかなかに恐ろしいのだが。


 反射的に千景はライフルの弾倉を取り替える。それは紛れもなく、これから起こるだろう脅威に対する予防だった。


 直後、倒れかけの建物の中から新たなオーガフェイスが現れた。

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