第8話 外縁防衛領域の戦いⅢ

 眼前の鬼を彷彿とさせる仮面をつけた個体は「ベルリン・トロイメライ」以降、広く世界中で見られるようになった下位のフォールンだ。動きは猿のように機敏だが、防御力はそれほどでもなく、銃弾さえ当たればひるむし、血も出る。単体での強さはブラット以上ではあるが、銃さえあれば恐れるような相手ではない。


 隊長のつぶやきに安堵の声が隊員達から漏れた。気をつけて戦えば勝てる相手、そう判断した隊員達に隊長は口元をきつくしめた。


 ——腑に落ちない点がいくつかあったからだ。


 まず、オーガフェイスなどに代表される下位のフォールンは基本的に群れるものだ。特にオーガフェイスなどは時には20、30の巨大な群れを作る。ブラットのように地下に潜む個体であれば、単独で周囲を探索している理由もわかるが、地上を走るオーガフェイスが単独というのは不自然に思えた。


 次にオーガフェイスの行動だ。どうしてただこちらを見るばかりなのだろうか。フォールンは総じて人を喰らう。下位種の中でも草食性で知られる種ですら時に人を喰らい腹を満たす。


 その性質で言えば目の前のオーガフェイスの行動はいささか奇妙に思えた。数でこちらが優っているとはいえ、襲うでも逃げるでもなくただ見ているだけというのは冗長にすぎる。一応、こちらの銃弾の射程圏内ではあるから、撃とうと思えば撃てる距離だ。


 最後に周囲の静けさだ。やはりそれが一番気になった。平時であればこの静けさも安心材料の一つなのだが、状況が違う。


 発砲を、それも音がよく響く屋内で派手にやったにも関わらず、どうして未だにフォールンに襲われていないのか、隊長には説明できなかった。フォールンの鋭敏な五感であれば銃声を聞き漏らすなんてことはありえないはずなのに。


 「距離を詰めろ。逃げ出すならそれでもいい。目下の我々の目的は」

 「隊長!後方700メートルより新手です!」


 「なに?」


 振り返ると確かに数体のフォールン、同種であるオーガフェイスがビル群の影から姿を現した。数8。正面の個体も合わせれば9体と群れの規模としては小規模と言える個体数だ。


 一般論として武装した兵士1人の強さはオーガフェイスと同じくらいだと言われている。距離さえあれば1人で2体のオーガフェイスと相対することもできなくはない。


 仕方ない、と隊長は後列の6名に迎撃を命令する。正面の個体には前列から2人を選び当たらせるように迅速に指示を飛ばした。自分を含めた残る3名で周辺を警戒する、そのつもりで出した指示だ。


 隊員達はその指示に従い、迫るオーガフェイスへ向かって銃口を向けた。彼らに照準され、しかしオーガフェイスらは接近をやめない。ゆっくりと包囲網を狭めるようにジリジリと向かってくる彼らは距離500メートルのところで停止した。


 統率の取れた動きを見て、隊長は舌打ちをこぼす。そして彼は確信した。リーダーがいる群れが相手だ、と。


 下位種の群れは数多くあるが、中でも厄介なのはリーダーを置いている群れだ。他がただ数の暴力で攻めてくるのに対して、統率が取れている分、動きが読みにくい。待ち伏せ、囮、果ては罠といった人間のような戦術を駆使してくる。


 オーガフェイス達が距離500メートルで停止した理由も銃の射程を理解しているからの動きだ。有効射程で言えば1,000メートル以上ある機関銃も、使い手や状況によっては射程は半分以下にまで落ち込む。射程1,000メートル以上も、よく狙えば、という枕詞が付くため、実際の有効射程はせいぜい500から800メートル、現在の隊員の士気を考えれば600、500というのが現実的な数値だろう。


 こちらの動きをよく観察した上での行動。害獣の分際で。隊長は悪態を飲み込んでを隊員達に指示を出そうとした。


 その時、その直前、正面の瓦礫の山に立っていたオーガフェイスが耳をつんざくような咆哮を上げた。それは建物の中を反響し、静寂を破る衝撃だった。


 思わず隊長は身構え、トリガーガードからその内側に指が落ちた。人間を恐怖させて止まないフォールンの咆哮、それを間近で受けてなおも精神を保つために必要な動作だった。


 直後、左右の建物が鳴動し、それは地面に伝わって巨大な地響きを生んだ。サンクチュアリに住むものであればまず感じたことがない地鳴り、反射的に隊長は前方へ向かって走るように命令した。


 「全員!正面めがけて、走れ!死に物狂いでだ!!」


 指示を受け、それまで銃を構えていた隊員達は踵を返して、正面めがけて走り出す。死に物狂い、という指示を誰もが疑わず、脱兎のごとく走り出したのは日頃の隊長の信用の賜物だろう。


 背負っていたバックパックを放り出し、しかし銃器だけは手放さない彼らの背中を見計らったようにオーガーフェイスが猛追する。走りだした彼らの速度は人間などどうということはない。怒涛の勢いで迫ってくるオーガフェイスの足を止めようと隊長が銃を撃つが、それも気休めにしかならない。


 オーガフェイスの硬質な仮面は銃弾を弾くのに十分な硬度を持つ。カン、カンと弾かれる弾丸を尻目に隊長も踵を返して走り出した。


 「クソ!走れ!とにかく走れ!」


 後列が自分を過ぎ去ると同時に隊長も走り出す。時折足を止めては威嚇射撃を繰り返し、オーガフェイスの進撃を足止めするが、それもいっときに過ぎない。追いつかれるのは時間の問題だった。


 その間も地響きは続き、そしてそれは走り出して間もなく起こった。


 左右の建物が迫る。それは比喩でもなければ走る彼らが近づいているわけでもない。文字通り、左右の建物が倒れながら近づいてきていた。


 地響きでは収まらない鳴動、天変地異かのように左右の建物がほぼ同時に崩れだし、影を落とした。落としたのは影だけではない。振動により老朽化した壁が天井が崩落し、落石となって走る彼らを襲った。


 落石と共に小隊を追うフォールンの群れも追撃の手を止め、反対咆哮へ向かって走り出した。しかし隊員の誰も喜ばない。頭上を気にしながら前に向かって走るという難儀。それは容易に人を殺した。


 崩落する巨石を避けれず、隊員が1人、潰された。ぐちゃんと頭から潰れ、まるで息が漏れた風船のようにビクビクと両足が震え、数秒後に沈黙した。


 唐突な仲間の死、けれど足を止めるものはいない。走る足を止めず、頭上をただ彼らは警戒する。そしてつまづき、今度は下半身が消えた。


 「つ。くそ」


 次々と部下が死んでいき、自身の無力さを痛感する隊長は恨めしげに頭上を見上げた。天蓋を閉ざす灰色の手は衝突し、その自重を支えるようにズズと建物同士がこすれ合った。


 左右のビルが衝突した時、溜まりに溜まった砂塵が巻き上がり、岩雨が降り注いだ。それはただ真下に落ちるだけではなく、周囲へと四散し、高みの見物を決め込んでいたオーガフェイス達も慌てて退避するほどの惨禍だった。


 直下にいた小隊の隊員達に降り注ぐ容赦のない落石、しかし幸いなことにすでに堕ちていた瓦礫に引っかかり、堕ちてきた巨大な瓦礫が屋根となり、彼らを巨石から守った。しかし、と隊長は頭上に視線を送る。


 頭上のビル本体、大質量物が落ちてくればこんな簡易な回復所など簡単に崩れ去ることは容易に想像ができた。所詮は一時の慰みと彼が暗澹たる気持ちでいた直後、奇跡は起こった。


 衝突した左右のビルは絶妙なバランスを保ったまま三角屋根を思わせる独特なオブジェを形成して静止した。崩落は絶えないが、双方の質量が同程度だったからか、とにかく静止した。


 旧時代、フォールンが跋扈する以前の社会では土建業者の不足と予算的問題からコピー&ペーストのように同じ具材、同じ間取り、同じ面積、同じ高さの高層ビル群を乱立させることが多かった。小隊が哨戒していた場所も右を見ても左を見ても同じ形、同じ造形の建物ばかりが目立つ面白みのない場所で、GPSやタウンマップのない現在ではどれだけ入念に地図を読み込んでも迷ってしまうことがある悪所だ。


 しかし今はその旧時代の手抜き工事によって助かった。なんとも皮肉だ、と隊長は苦笑し、同時に自分の幸運に賞賛を送った。


 安堵冷めやらぬ中、砂塵の向こう側ではオーガフェイスの怒号がこだました。その咆哮によって隊長をはじめ、小隊の面々は正気を取り戻した。そして何人が生き残ったかを彼らは確認する。


 残ったのは7名。それも内2人は足に怪我を負っていた。


 せっかく落石から助かったというのにタチが悪い冗談だ、と隊長は歯噛みをする。随分な仕打ちだ。


 どうにかできないか、と彼が前後の出口を見るとマスクの暗視機能が自動的に起動し、複数のオーガフェイスを捉えた。正面の1体、後方の8体に加え、さらに3体がビルの中から姿を現し、隊長は舌打ちをこぼした。


 今日何度目かの舌打ちか、わかったものではない。負傷者を見捨てればまだ助かったかも、という希望をつぶしにきた。


 恐らくは出てきた3体のオーガフェイスがどうやってかビルを倒壊させたのだろう。しめしめとでも言いたげに彼らは小隊に近づいてきていた。


 「クソ。おい!」


 仕方ない、と救難信号を発し、体調は負傷した2名を守る形で前に2名、後方に3名隊員の体勢をとった。彼自身は後方の組に入った。。前後のみに意識を向ける左右の伏兵を全く考えていない陣形を組み、彼らは戦闘に突入した。


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