第15話 エピローグ

 閃光のように現れた黒い影はネメアの死骸に跨り、周囲を睥睨する。


 威圧する蒼月の瞳は鬼火のように揺れ、その鼻息は白煙を帯びる。蓄えた白毛が返り血で赤く染まり、覗かせた臼のような歯には捕食したネメアの肉片がこびりついていた。


 体躯は巨大。立て髪は黒く、一般的なネメアのそれに比べて威風を感じさせる。背部のF器官は巨大かつ異形で、まるでアギトのような鋭刃が背面から伸びていた。それを広げた姿は独特の形状も相まって黒い飛輪にも見えた。


 立て髪に対して体毛は浅黒い。灰色に近いとも言える。太く、逞しい体つきであることがわかる肥大化した筋肉はネメアの枠に収まってはいるものの、人に例えるなら力士とプロレスラーぐらい違う。どちらが力士で、どちらがプロレスラーかと言えば、当然前者が黒いネメアだ。


 「なんだ?あれ」


 ぱっと見はネメアである。しかしそれにしては纏っている雰囲気や細かな外見がまるで千景の知るネメアと一致しなかった。


 「鋭種?いや、それにしたって」

 「ちょっとちーさんパイセンどうするの!」


 「とりあえず様子見だ。下のやつらにもそう伝え」


 直後、それまで静止していた黒いネメアが動いた。体を大きく振り、その進路をプライドのヌシに向ける。明確な敵意に基づく攻撃、構えていたネメアも防御体制を取った。


 稀にだが、ネメア同士の戦いを千景も見ることがある。今回のような壁外調査の折り、軍の調査団に依頼される形で彼らの仕事に同道した折、ヘリの窓越しに殴り合うでかい野良猫の喧嘩が繰り広げられていた。


 互いに雷撃の効果が薄いから最終的には殴り合い、噛みつき合いの大喧嘩になっていたのを今でも覚えている。昔なつかしのヤンキー映画で出てきそうな血みどろの争いだった。


 それと同じ光景が繰り返される。その隙にさっさと逃げよう。そう考え、千景は撤退命令を出そうとした。


 ——一撃。


 その一撃はしかしすべてを変えた。


 「はぁ?」


 刺突。まさにそう形容するのが正しい。


 千景は己の目を疑い、同時にライフルを構えてヘリから身を乗り出して、自身の目が正常に機能していることを実感した。紛れもなく、彼の目に写った黒い流砂の一撃は真実だったのだと。


 黒いネメアから放たれたその一閃は相手のF器官を容易く貫き、その背後にあった仮面を刺し貫いた。トリックでもなんでもなく、純粋な暴力がネメアの硬質なF器官を、そして仮面を貫き、一撃で絶命させた。


 力なく倒れゆくネメア。その巨躯が大地に倒れ伏す。


 なんだそれは、と心の中で千景は絶叫する。雷ではない。それはわかる。雷ではない武器をネメアが使う。


 脳の理解が追いつかない。苦い、乾いた笑い声すら溢れてしまうほどに。


 それは千景以外のメンツも同じで、だからこそ、放心してしまっていた。いっそ、めしいだったならよかったと思うほど明確に、明瞭に、誰にでもわかる形で。


 ——目にも止まらぬ速度で迫るネメアのF器官はまず近くにいた冬馬に向かって振り下ろされた。対応するいとまなどない。


 目の前に突然迫ったネメアの凶刃を前にして反応ができなかった冬馬は一撃で胴体が寸断された。振り下ろされた黒刃は彼の血で赤く染まり、それを見た者達に恐怖を植え付けた。


 『冬馬っ』

 『つ、こいつ!!』


 イヤーキャップの向こう側で朱燈達の声が飛ぶ。あるものは怯え、あるものは激昂する。混乱の中、朱燈は刀を構えると、雨の中黒いネメア目掛けて走り出した。


 それを静止する暇もなかった。放心が解けた千景が気づいた時にはすでに彼女はネメアの足元に迫り、その一刀を振り下ろそうとしていた。


 『しぃ!!!』


 渾身の一撃をネメアはF器官で受ける。カーンという鉄を打ったような音が鳴り、直後ネメアは大地に突き立てたその鋭刃を引き抜き、掬い上げた。


 吹き飛ばされた朱燈は宙を飛ぶ。しかし無防備を晒すほど彼女は無鉄砲ではない。宙へ飛ばされた朱燈は二本の影槍を出現させ、ネメア目掛けて振り下ろした。


 攻撃特化のブレード型。細く、耐久力には劣るが、攻撃力では影槍の中では群を抜いている。第二世代型の真骨頂、シェル型と双璧をなす人類の叡智だ。


 雨水を寸断し、風を裂き、影槍がネメアに迫る。対するネメアは周囲に黒いモヤとも塊とも取れる物質を展開し、それを束ねて朱燈へ向けた。


 紫電を纏って迫るそれは影槍とぶつかる。いや、その間をすり抜けて直接朱燈を攻撃した。


 『はぁ!?』


 たまらず朱燈は影槍の軌道を変更し、束ねられた黒い物質を振り払った。しかし霧散したそれは瞬時に別々に集まると、黒い棘を無数に形成し、一斉に朱燈に向かった。


 自分に迫る黒い棘を見たその瞬間、朱燈は大きく目を広げ、影槍を動かそうとした。しかしそれよりも早く棘が自分に届くことは目に見えていた。


 『クソ』


 悪態づく。意味もなく。


 直後、彼女の眼前に手榴弾が現れた。見たことがあるタイプ、よく千景が使用している対フォールン用の手榴弾だ。それはピンが抜かれていて、爆発の数秒前であることがわかる。


 とっさに朱燈は体をひねり、それを棘目掛けて蹴り飛ばした。瞬間、手榴弾が爆発し、爆風は朱燈は岩肌に叩きつけた。


 体が軋むような痛みが全身に駆け巡る。耳もろくに聞こえない上に視界もぼやける。しかしすぐに立ち上がる朱燈は自分の刀を探して周りを見た。


 刀はすぐに見つかり、岩肌に突き立っているそれを見た時、反射的に彼女は取ろうとして駆け出した。なりふり構ってなどいられない。おぼつかない足取りで刀の柄を握り締め、引き抜いた。


 ——『「え?」』


 前触れもなく朱燈の前に血飛沫が飛ぶ。それが誰の、と聞くのは野暮と言わんばかりに堂々と彼女の双眸の前を刀を握った白い手が横切った。遅れて走るその形容し難い痛み、手首から先がなくなりとっさにうずくまる彼女へ第二の刃が飛んだ。


 朱燈の手首を切り裂いた斬撃と同じ、黒い刃。不規則な軌道を描くそれめがけてクリスティナが銃撃を、千景とクーミンが狙撃を行うが、蛇のように蛇行してそれらは回避され、あるいは時に飛沫となって弾雨を掻い潜った。


 朱燈へ迫り、彼女の体を寸断するつもりであることは明白だ。逃げろ、と千景は指示を出す。戦えなければどうしようもない。逃げてくれと千景はこいねがう。


 「クー、俺は今から降りるからお前はここで待機な。すぐお前は死にたがるから」


 朱燈の脱力でもう戦線は維持できないことは明白だった。落下防止の命綱を切断し、千景は降下用装備に手を伸ばす。


 撤退する以上、優先順位をつけなくてはいけない。誰を逃すのが一番効果的なのか。そんな残酷な命の線引きをしながら降下用装備を越しのスペースに取り付けていく。


 線引きは容易だ。一にクリスティナ、二に朱燈、三にその他だ。。無責任だとか自暴自棄だとかではなく、純粋な生存率と有用性の話だ。


 よし、と頷き装備を整えて降りる姿勢を取ったその矢先、不意に千景のイヤーキャップに割れた女の悲鳴が届いた。


 「なんだ、どうした!?」


 「りんちゃん先輩が」


 見れば嘉鈴がスフィンクスの只中に一人、放置されていた。彼女の手元には壊れた軽機関銃があり、背中からは割れたシェル型の影槍が見えていた。


 「誰を庇って」

 「あー先輩!」


 千景の問いにクーミンは即答する。普段の彼女では考えられない速度だ。


 「まずい、このままじゃ」


 そう言っている間にスフィンクスが嘉鈴に迫る。何をされるかなどわかりきっていた。


 『くるな、くる、こないで!やめて』


 『あ』


 群がるスフィンクス、武器のない傭兵。凍えた笑みを浮かべる般若の面は嘉鈴を囲み、その四肢に噛み付いた。


 『痛い、いたい、やめ、あ、痛い、ああぎゃ、う。ぐおねやめてね、まだ、死に』


 悲鳴が聞こえる。彼女の断末魔が。恨み骨髄に徹するとでも言うべきか、ゆっくりと味わうように食らっていく害獣の群れはか弱い少女をいたぶることに恍惚としていた。


 ——まるで人間のように。


 『あ、ぎゃ。やめ死にたくない死にたくない、返して、あ離して離して離して離して食べないで、ぎゃあああ』


 「ふざけろよバカが」


 ライフルを嘉鈴へ向ける千景は言葉とは裏腹に目から感情を消していた。冷えた鋼のような眼差しで嘉鈴に狙いをつけ、引き金を引く。


 雨の中、銃声が響いた。同時に少女の悲鳴も聞こえなくなった。


 「降りる。クー。お前はぜーったいに降りるなよ」


 折角の降下用装備を外し、千景は上空100メートルの高さから大分した。展望台との差が50メートル程度だとしてもあり得ない高さからの跳躍だ。もっとも、影槍使いにとってはそれほど困った距離ではなく、着地の瞬間に影槍を展開し、衝撃を緩和した。


 着地してすぐ、千景は背を低くして嘉鈴の死骸に群がるスフィンクスへ向かって走った。接近に気づいたスフィンクス達は化粧をほどこした貌で千景の方を向く。


 『ちか』

 「問題ない」


 クリスティナの制止を振り切り、スフィンクスに千景は肉薄する。


 迫る鋭刃を紙一重で躱し、すれ違いざまに腹部目掛けて銃撃をする。ネメアでもゼロ距離での銃撃ならば行動不能になる位置だ。況や外皮の強度に劣るスフィンクスは肉をえぐられ、内臓を吹き飛ばされ、その背部から弾丸が飛び出すほどだ。


 勢いそのままに倒れるスフィンクスを他所に次の獲物を千景は見定める。迫るのは二体のスフィンクス。体格からして若い個体だ。電気をまとったF器官を前に突き出し、猛然と迫る彼らの突進を千景は影槍を展開し空へ跳び回避する。


 雷纏うその体躯を飛び越える時、装填を終えた千景は逆さに近い体勢で銃を構えると、目下のスフィンクスの背骨目掛けて引き金を引く。


 ゼロ距離、かつ急所。


 背骨を砕かれるばかりか、F器官との伝達系が集中している箇所を穿たれたスフィンクスはもんどりうって地面に激突した。


 瞬く間に二体のスフィンクスを討伐し、狙撃手たしからぬ立ち回りを見せる千景だが、その心に余裕はない。すぐにボルトを手前に戻し次弾を装填する中、彼の意識は黒いネメアへと向けられた。


 様子見を決め込んでいたネメアはその標的を朱燈へ固定した。戦えない彼女目掛けて猛然と突進するネメア、その足止めをしようとクリスティナが立ち塞がった。


 左右の銃器を連射し、ネメアを遠ざけようと彼女は引き金を引き絞る。相手がネメアならば弾丸は通る。そのはずだった。


 銃弾が迫る中、ネメアは再び自分の足元から黒い物質を呼び出し、まるで盾のようにして突進を始めた。銃弾を飲み込み、弾くそれは一般的なネメアが有する電磁装甲となんら遜色がなかった。


 「嘘っ」


 突進を回避しようと左へクリスティナは飛ぶ。黒い盾は解かれ、回避する彼女へ差し向けられた。


 「ちぃ」


 伸びる斬撃とも刺突とも取れる黒い物質による一撃をクリスティナは銃器で以てガードする。ちょうど朱燈を庇った嘉鈴がやったように。


 しかしネメアのF器官や仮面を一撃貫く攻撃をたかが銃器でガードできるわけもない。交差した二丁の重機関銃を豆腐に突き立てたナイフのように穿ち、その背後にいるクリスティナの腹部を抉り取った。


 血潮がこぼれ、内臓が腹から溢れ出す。その勢いのままクリスティナは柵を超え、崖下へと落ちていった。


 「クソ、最悪だろ」


 たまらず千景も朱燈目掛けて走り出した。彼の行く手を阻もうとスフィンクスが一体、立ち塞がる。


 雷撃が飛び、とっさに千景は影槍で地面を突いて、空へと逃げた。直上からの攻撃を警戒してか、すぐさまスフィンクスは射角を上方向に取る。


 発砲。


 至近弾だが、スフィンクスの仮面を壊すことはできない。下顎を覆う仮面の一部が直撃を受けて剥がれ落ちるが、スフィンクスは動揺するそぶりを見せない。


 即殺されたプライドのヌシの近くにいた個体だったか、と千景は思い返しながら再装填する。放たれる雷撃、それを回避する手段はない。


 しかしそれは常軌を逸しなければの話だ。


 「舐めるな」


 銃を手放し、その銃床に影槍を突き立て、体をひねる。空中に作られた咄嗟の足場、体が乱回転し、雷撃が数ミリ先をかすめた。


 再びライフルを握り、千景はスフィンクスの仮面の上に、つまり顔の上に乗る。有無を言わさず引き金を引く。スフィンクス仮面が砕け、その体が倒れるが、千景にはそれを見ている余裕はない。


 倒れるスフィンクスを足蹴にして素早く銃弾を装填し、朱燈を狙うネメアに向かって発砲した。不意をついた一撃はネメアの鼻先をかすめた。数少ない無防備な場所、至近距離でそれを削り飛ばせなかったのは焦りか、それとも疲労か。


 「朱燈、逃げろ!」


 逃げてどうなる?倒せるわけもないのに。


 相手が雨天にも関わらず電磁装甲に似た防御体勢が取れるなら、銃の出る幕ではない。ただでさえ強靭な皮膚を持つネメア、その特殊個体ならなおさらだ。


 それでも。


 抗うことをやめるつもりはなかった。


 失血のせいか、疲労のせいか。ボロ雑巾のようにうつ伏せになって倒れる朱燈をさらい、千景は片手でライフルの引き金を引く。


 クリスティナを真似ての行動だったが、彼女ほど片手打ちに慣れているわけもない千景の腕では弾丸は当たらない。一瞬だけ銃を浮かし、そのわずかな浮遊時間で再び弾丸を装填する神技を見せるがそれすらネメアの前では児戯に等しい。


 崖まで追い詰められ、どさりと朱燈を下ろした千景は泥まみれになっていた。大して長い時間戦ってもいないはずなのに、汗が滴り、体の節々が痛い。傷なんてないはずなのに、どうしようもなく両腕が、両足が痛い。


 追い詰められた千景は再度、ライフルを構える。距離にして数メートルもない長至近距離。その距離でもネメアの仮面はおろか、外皮を貫くことはできない。


 「焼きが回ったな、俺も」


 さっさと全員を見捨てて、クーミンだけ連れて逃げればよかったと過去の自分の行動に愚痴がこぼれる。意味なんてない行動、こうして朱燈ともども追い詰められている状況はまさしく無力さと無意味さを物語っているだろう。


 こちらを睥睨する黒いネメアは余裕の態度で一歩、また一歩と千景に向かって歩を進めた。自分の死が近づいてきている。可視化された死が。


 けれど。


 「気分がよかったんだ。本当に」


 普段は見せない大立ち回り。体を張って縦横無尽に駆け回る。この快感は忘れ難い。普段はアンコウやカエルのように待ち伏せばかりする身ならばなおさら、ジャンプ、ターン、ダッシュは貴重な体験だ。


 らしからぬ行動ではあったが、自分の100パーセントを出せはした。少なくとも戦闘面での100パーセントは見せられた。


 「ならば後悔は」

 『いやー違うでしょ』


 刹那、銃撃がネメアに向かって飛んだ。


 背後からの一撃、それはネメアの背骨に突き刺さり、泰然自若としたその姿勢を崩した。嘆くような怒号が絶叫となってネメアの口から吐き出される。


 その姿勢が崩れた隙をつき、千景は引き金を引いた。


 狙いは眼球、ネメアの左目だ。その瞬間、マガジンが空となり、カーンという音を上げて地面に落ちた。


 弾丸はネメアに直撃する。視界の片側が消え、慌てふためくネメア。上半身を持ち上げ、大地を叩くと、大雨によりぬかるんだ足場は一気に崩れ、崩落した。


 落ちる中、咄嗟に千景は朱燈に手を伸ばし、引き寄せた。そして二人は濁流の中に消えていった。



 壁外探査任務一次報告書


 2275年8月28日、ヴィーザル東京サンクチュアリ支部所属外径行動課特務第三分室第一小隊はネメアのプライドと交戦中、正体不明の黒色のネメアと思しきフォールンと遭遇。同隊の草苅冬馬三級職員、阿澄 嘉鈴三級職員の死亡を確認。クリスティナ・アールシュレッツェ三級職員並びにクーミン・ミハイロフ準三級職員の生存を確認。同隊の隊長、副隊長の生死は不明。


 体調が整い次第、生存した二名に対して事情聴取を行うものとする。


作成者:ラン・スー上級職員


 

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Vain 【見知らぬ大地と獣達】 @kadakitoukun

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