第14話 壁外探査任務

 ヘリのローター音が空を切る。マルチローター機特有の独特のドップラー効果に似た高低差の激しい回転音を頭上に仰ぎ、雨天の空を千景達は飛んでいた。


 横殴りの雨、風は強く時折遠くの空に紫電が走り、遅れて雷鳴が轟いた。外に視線を移せば吹き荒れる風に巻かれた木の葉が舞っている。雨粒が際限なく窓に溢れ、触ってみると、ひんやりと肌を濡らした。


 ヘリの装甲に落ちた雨粒は跳ね、タタタタと鉄を打ち、表面を流れ落ちた。そしてそれは時にヘリの前面を曇らせ、窓に指を這わせるような痕を残した。


 眼下を望めば濃霧が立ち込め、今飛んでいる場所と一体どれだけ地上が離れているのか、見当もつかない。かろうじて操縦席の計器で進んでいる方向がわかるくらいだ。


 説明するまでもなく悪天候、密閉されたヘリの中にいても湿気に伴う野草に似た濃い匂いが漂ってくるほどにひどい天候だ。時折吹く突風の影響でヘリコプターは大きく揺れ、いかずちがヘリを掠めることもあった。


 しかし外のひどい天候に対してヘリの中の第三分室第一小隊の面々は気にするそぶりを見せないどころか、呑気にカードゲームに興じていた。せいぜい外の雷がうるせーなーぐらいにしか思っていない、安穏とした空気が漂っていた。


 冬馬、嘉鈴、そして朱燈が興じているのはポーカーやブラックジャックといった華やかでありながら渋みもあるレトロチックなゲームではなく、ババ抜きだ。英語圏風に言うならば「Lose with the Joker」。神経衰弱と並んで日本人に親しまれているトランプゲームだ。


 すでにゲームは終盤に差し迫っていて、それぞれの手にあるトランプカードは3、4枚にまで減っている。不毛にババを押し付けあって長引いているからか、カードを睨む三人の両目はやけに血走っていた。


 よほど勝負が行き詰まったのか、むむと唸る三人は睨み合ったまま自分の手番になってもなかなか相手のカードに手を伸ばそうとしない。掴んだかと思えば放し、再び掴むを何度も繰り返していた。


 「千景。あれは何をやってるんですか?」

 「ババ抜きだろ」


 「それはわかっています」


 むすっとクリスティナは頬を膨らませ、乱暴に読んでいた本を閉じた。蒼い瞳が暗くなり、今にも立ち上がって三人の団欒の中に核弾頭さながらにつっこみそうだったが、そうしなかったのは彼女の膝を枕にしてクーミンが寝ているからだ。


 くーくーと寝息を立てる彼女は最初はクリスティナの肩によりかかるように寝ていた。よだれを口元から垂らしてそれが防寒ジャケットにかかるのを嫌がったクリスティナはそっとクーミンの上半身を捕まえて自分の膝の上に下ろした。


 外は雷鳴が、頭上はヘリのローター音がうるさいのに、クーミンは微動だにしない。よほどクリスティナの健康的な太ももまくらが気に入ったのか、頬擦りまでしている。


 そんな心地よさそうな表情で寝ている少女を害するほどクリスティナも無粋ではない。苛立ちを落ち着けるために高速で貧乏ゆすりをする彼女を見て、おっかね、と千景は明後日の方向を向いた。


 「こんな天候ですから、少しは愚痴だって言いたくなりますよ。急な天候の悪化とはいえ」

 「関東圏じゃ珍しくことじゃないけどね。それにヘリコプターは雷雨の中でもちゃんと飛べるし」


 なんでだったか、と千景は記憶をさぐる。ローターがどうの、ブレードがどうのという話だった気がする。飛行機は機体の構造がどうのだった。そんなどうでもいい思考が一瞬だけ脳裏をよぎるが、すぐに隅に追いやり、視線を起こした。


 クリスティナの危惧が千景にわからないわけでもない。実際、雨天の中のヘリというものは安全とわかっていても怖いものがある。


 不安定な足場、真隣を走る紫電、吹き荒れる暴風。常に揺れ、安定しない籠の中にいると、ヘリが雷に当たって落ちるんじゃないか、風で煽られてヘリが岸壁に激突するんじゃないか、と変な想像が湧いてきてしまう。


 機能の有無ではない。ただどう感じるかが問題なのだ。


 「壁外探査なんて毎回こんなもんだって。慣れるしかない」

 「そうなんですか。こんな悪天候で調査ができるとは思えませんが」


 「1日、2日の任務ならそうかもしれないけど探査任務は一週間くらいは平気でつかうからなぁ」


 端末を取り出し、千景はマップアプリを起動する。立体映像によって映し出されたホログラムを見ながら作業を始める彼にクリスティナは口をへの字に曲げ、そんなにですか、と返した。


 「本来はサンクチュアリ防衛軍の仕事さ。だからきっとクリスには馴染みがないんじゃないかな?」


 千景はクリスティナをクリスと呼ぶ。それもクリスティナが入隊することが決まってすぐにだ。なんで愛称ニックネームで呼ぶのかとすぐに聞き返すと、彼は三文字で呼びやすいから、と返した。


 曰く、白河 朱燈は朱燈、草苅 冬馬は冬馬、阿澄 嘉鈴は嘉鈴、クーミン・ミハイロフはクーと彼は呼ぶ。ならばクリスティナはクリスだ。ティナの方がいいか、とも聞かれたが、クリスでいいと彼女はきっぱりと断った。


 その安穏とした雰囲気は激戦区で昼夜を問わず戦ってきたクリスティナには新鮮であると同時に、ひどく危ういように思えたことだろう。愛称で呼ぶ時、彼女は常に千景に少し不機嫌そうな顔を向ける。


 今回もダニを見るような目、すぼんだ唇、カモメの翼を思わせる寄せられた眉によって形成される不愉快を詰め合わせた表情が見れると思っていた。しかしクリスティナが浮かべたのは全く別の表情だった。


 「それは、本当ですか?」

 「え、なにが?」


 「だから今言ったことです。本来は防衛軍の仕事だって」

 「え?あーうん。そうだな。そーだけど?」


 傭兵とはなんだ、と百人に聞けば百人が武装した人間と答える。雇われの外様ものである傭兵の本懐とは戦闘し、戦闘し、戦闘することだ。もちろん生き残るために多少のお勉強はするが、比率は戦闘力が7、それ以外が3といった具合だろう。


 探査とは、調査とは誰の仕事だ。当然ながら専門的な知識を持っている人間の仕事だ。傭兵の仕事ではなく、彼らに求められる知識の中にそれはない。


 クリスティナは憤慨する。だべるカードゲーム三人衆に対して抱いた怒りに似た、しかしそれよりもさらに強い怒りを感じ立ち上がりそうになった。しかしすんでのところで自身の太ももを枕にしているクーミンのことを思い出し、彼女は上がりかけた腰を座席に戻した。


 「それは、俗に言う業務委託では?」

 「そーかもな。けど、どこでもやってることだろ?」


 「そんなことは!いえ。ないとは言いませんが、私がいたサンクチュアリでは」

 「そりゃオムスクは前線だからな。防衛軍も熟練揃いだろ。けどここは違う。それは今日までの任務でなんとなく察してるんじゃないか?」


 明確に危機が迫るユーラシア西部と違い、東部におけるフォールンの脅威というのはサンクチュアリから出ない人間にとっては壁の外の出来事に過ぎない。比較的襲撃が多いのは北海道は函館のサンクチュアリで、それ以外の場所ではフォールンがサンクチュアリを襲うのは滅多なことだ。まして日本列島最大である東京サンクチュアリを襲うフォールンというのはほとんどいない。


 フォールンの襲撃が少なければ兵士の練度も知れている。オーガフェイス数体に怯えるような人間ばかり、壁外で油断する人間ばかりだ。


 必然、防衛軍が怠ければその皺寄せを傭兵が受けることになる。雇用関係、契約と言ってしまえばそれまでで、提携関係をよくしたいとする営業部の後押しも相まって、本来は防衛軍がするべき仕事もこうして千景達のような木端がする羽目になるわけだ。


 事実、千景達が今遂行中の壁外探査も本来は防衛軍の情報部が行うべき仕事だ。危険な壁外の、それも奥地に出向いての探査。フォールンの生態調査や土壌の変化、気候変動などを調べる仕事だ。


 本来は専用の機材や観測用の計器を積んだ輸送ヘリが編隊を組んで調査班やその護衛の部隊を輸送するだろう任務だが、しかし千景達に用意されたのはランドセルサイズの計測器類一式とマルチローター機一機だけだ。


 「本当に、いいんですかそれで」

 「委託なんてそんなもんそんなもん。特別手当が出るだけ有情だよ」


 「お金なんてどうでもいいんですよ。憤りを覚えたりはしないんですか?」

 「別に。まぁ雨の中出向くのめんどくせーなーってぐらい?」


 ヘリがサンクチュアリを出発した時は確かに晴れていたのだが、旧富士ヶ峰付近にさしかかったあたりから急に天候が悪化した。珍しくはないが白ける天気だ。テンションもダダ下がりである。


 しかしクリスティナが聞きたかったのはそんな感想ではないようで、不機嫌そうに彼女は喉の奥から低い唸り声をあげた。


 「わかったよ。真面目に答えるよ」


 バツが悪そうに千景は両手をあげて降参の姿勢を取った。


 「そーだな。俺としては」


 『——メーデーメーデー!前方の岩床地帯に強いF.Dレベルを感知しました!』


 答えようとした矢先だった。不意に操縦席の方から警告が飛んだ。どうしました、と即座に千景が聞き返す。


 『複数のフォールンの群れです。数値、照合します。——解析出ました!ネメア、それからスフィンクスです!』


 操縦士の語気が強まる。話ぶりからそれぞれ一体ずつということもないだろう。


 「数は?」

 『ネメアが3、スフィンクスが5です』


 気がつけば操縦士の後背に立っていた千景は正面に見える開けた岩肌を見つめた。


 古くは展望台だったのか、落下防止用の柵の名残が見える開けた岩肌。ロッジハウスを模したトイレが展望台の隅にはあり、よく周りを見れば登山道が通っていた。


 だが本題はその上を闊歩しているネメアの群れ、プライドだ。ネメアが3体、そしてネメアのメス個体であるスフィンクスが5体の計8体の大所帯だ。


 雨に濡れ、泥がついたネメアは自慢の赤毛が茶色く汚れ、いつにも増してワイルドな雰囲気を漂わせる。泥と水が滴る背部のF器官はさながら悪魔の黒翼に見えた。


 片やスフィンクス、ネメアのメス個体でありながら別個の上位種に数えられるそのフォールンはネメアと比べて体毛の色素が濃く、赤ではなく橙色の元来のライオンに近い毛色をしている。特徴的な二本の細い鎌に似たF器官は雨水が滴り、よく研がれた処刑用の剣や斧を彷彿とさせる。


 体躯はネメアよりも一回り小さく、立て髪も少ない。仮面の意匠もかなり異なっており、ネメアを勇ましい鬼面とするならば、スフィンクスのそれはだらしない笑顔の般若という表現が適切だろう。


 彼らは上空を飛ぶ千景達のヘリに気づいており、人に似た双眸を浴びせてきた。別に目からビームが出るわけでもないのにとっさに片手を前に向かって突き出してしまったのは、きっとヘリのライトに照らされた彼らの双眸がぼんやりと白く光っていたからだ。


 まずいな、と千景は心の中でこぼした。


 ネメアのプライドと千景達の距離は100メートル以上あり、ジャンプで届く距離ではない。大雨の中ではお得意の雷撃も使えない。しかし多くの肉食動物がそうであるように、自分達の縄張りに入ってきた無粋な輩をネメアが見逃すわけもない。


 全身の毛を逆立て威嚇する姿がはっきりと見えているから、それは確実だ。この場から離脱しても執拗に追いかけてくる。それこそ縄張りから出ていくまで。


 運が悪いことに調査エリアはネメア達のプライドと重なってしまっている。よしんばこの場はうまく切り上げられても、再び戻ってくるのは二度手間だ。


 「仕方ない。ここで戦うか」


 足場は十二分に確保されている。岩肌のせいで多少は滑りやすいが、戦えないほどではない。むしろ千景の心配は眼下にあった。


 展望台は絶壁の上にあり、その下を茶色に染まった濁流が流れている。落ちれば一巻の終わり、例え影槍を備えた強化人間だろうと波に揉まれてぐちゃぐちゃになるだろう。


 飛んでいる時は気にも止めていなかったが、いざ降りて戦うとなるとどうしても背後の危険が目に入ってしまう。厄介な話だ。


 「——各位、傾聴」


 冷たい声音で千景はイヤーキャップ越しにヘリ内の隊員達に命令を下す。近づけば声を張る必要はないが、ヘリのローター音がうるさくては声も枯れる。元々声が大き方でもないから、楽な手段を使いたかった。


 振り返り、千景は隊員達の顔を見る。


 すでにトランプをしまい、武器庫から各々の銃器を取り出した彼らは臨戦態勢を整えていた。朱燈などは今にも刀を抱えて飛び出しそうだった。


 「これから俺達はネメアのプライドを撃滅する。手短に言うぞ。朱燈、冬馬、嘉鈴それからクリスの四名は地上に降下。俺とクーはヘリに待機して、援護射撃を行う。質問はあるか?」


 簡素なブリーフィング。しかし文句の一つも出なければ、疑問の声を上げる人間も出なかった。言われるがまま、彼らは降下用装備をヘリの座席の下部から取り出した。


 命令を受け、朱燈達はベルトに降下用のワイヤーを取り付け始める。元々、彼らが着ているヴィーザルの戦闘員用の隊服は降下用装備を取り付ける仕様があるので、時間は1分とかからなかった。


 手早く装備をつけ終わった彼らは一様にヘリのドアの前に並ぶ。横一列になった彼らの正面にあった横開きのドアは千景が壁に取り付けられたハンドルを回すと、ゆっくりと開いっていった。


 ドアが開いていくにつれて雨風が彼らの頬を撫で、その身に降りかかった。上空を舞う木の葉がヘリの中に入り込み、夏場のかぐわしい濡れた匂いが一層濃くなっていった。


 眼下に見えるネメア達は仕切りに吠えたて、ヘリを警戒する。横腹をさらし、中に朱燈達を見た時、彼らの咆哮はより一層激しいものへと変えた。


 人間に対する明確な敵意。縄張りに侵入した不届きものへの純粋な殺意。獲物を見て抱く真っ黒な悪意。なるほどそのあり方は獣というよりも人に近い。


 しかし彼らは人間ではない。説明することも馬鹿らしいまごうことなき悪魔達だ。


 ならば殺すしかない。


 「冬馬、嘉鈴、銃撃開始。15秒後、朱燈とクリスは降下して拠点を作れ」


 『『了解』』


 普段のおちゃらけた雰囲気はなく、二人の中衛銃撃者ミドルガード・ガンナーはその手に持った軽機関銃の引き金を引いた。


 直後、アブの羽音にも似た快音が鳴り響いた。オレンジ色の閃光が彼らの銃口から発せられ、豪雨の中で弾けた。


 霧中、灰色の世界に生じた火花は熱された鉄礫をその中から射ち出した。それは降り注ぐ雨の中を一直線に突き進み、地べたを這いずる獅子らに直撃した。


 銃撃を受けネメア達は鳩が豆鉄砲を食ったように威嚇姿勢から一転して戦闘態勢へと移った。距離を置き、喉を鳴らす彼らは背部のF器官を持ち上げ、鳥が威嚇する時のようにめいいっぱい左右へ広げた。


 降り注ぐ弾雨に苛立ち、怒号を上げる彼らを他所に千景は朱燈とクリスティナに指示を下す。降下地点にネメアもスフィンクスもいないことを確認し、二人はヘリの甲板から飛び降りた。


 降下する二人を襲う。二人の体は一瞬でびしょ濡れになり、着ていたワイシャツやズボン、中の下着が肌に密着した。


 地面との激突スレスレでワイヤーの回転は止まり、反作用で二人の体は一瞬、宙を舞った。その瞬間、それまで止まっていたネメア達が一斉に動いた。


 正面から走ってくるネメアが2体、スフィンクスが4体。無防備になったその一瞬を突き、彼らは怒涛の勢いで迫ってきた。


 刹那、クリスティナの重機関銃が火を噴いた。軽機関銃と比べ物にならない雷鳴にも例えられる銃声が周囲一帯に響き渡る。それはネメア達が聞いたこともない音で、見たことない武器の産声だった。


 銃口から吐き出された銃弾は迫るネメア、スフィンクスに向かって左から右へ、順ぐりに掃射される。空中かつ不安定な姿勢で撃たれたその銃弾はネメアに当たるわけもなかったが、彼らの突撃を止めるだけの力はあった。


 ネメアらが突撃を停止したと隙をついて朱燈とクリスティナは展望台に着地する。手早く腰の降下用装備を取り外し、朱燈が前にクリスティナがその背後に立つ一列縦隊の陣形を取った。


 クリスティナが自分の背後に立つとすぐ朱燈は抜刀し、ネメアに向かって走り出した。すでに帯熱刀のスイッチは入っており、彼女の等身に触れた雨は瞬時に蒸発し霧となった。


 走り出す朱燈を援護するため、左右の重機関銃を構えるクリスティナは間髪入れずに引き金を引く。およそ人間が携行できる最大級の火力が無造作に解き放たれ、足を止めたネメアに襲いかかった。


 軽機関銃、アサルトライフルは言うに及ばず、対物ライフルの一撃すら時として弾くその強靭な外皮を彼女の銃弾は刺し貫く。象の倍は分厚いとすら言われるそのしなやかでしかし強固な皮膚はしかし、重火力の連打を受け、血飛沫を上げた。


 無論、それはクリスティナが銃撃を集中しているからだ。もしこれが散らして撃っていたらネメア、スフィンクスにとっては痛い一撃だな、というくらいでしかなかった。


 その前足を貫かれ、自重を支えられなくなったネメアの一体が前のめりに倒れゆく。すかさず雨の中を疾走する朱燈がそのネメアめがけて刀剣を突き立てた。


 硬質なネメアの仮面と言えど、無敵なわけではない。熱された刀剣は湯気を上げながらその真っ白な曲線美の集合体にスルッと入り、真横へと走って、黒ずんだ血潮を纏わせて切り落とした。


 元来、フォールンの仮面は元となった生物の骨が原型となり、変化しているイメージで言えばサイや鹿の角に近い。いわば体外に露出した強固な骨だ。それが肉体を司る脳機能と直結しているため、損傷すれば命を奪う。


 瞬く間にネメアを一頭倒し、朱燈とクリスティナは次の獲物を見定める。どれを狙えばより効果的か、より心理的影響が強いか。群れを作る社会性がある獣ならばこそ、仲間の死は強烈な一撃となった。


 ネメア達は動かない。わずかな時間で仲間を殺した朱燈とクリスティナを警戒して。その空白を利用して千景が動かないわけもなかった。


 「よし、冬馬、嘉鈴、降下してくれ。クー、お前は俺と一緒に援護」

 「うい」


 眠そうな目をこすりながらクーミンは頷く。冬馬と嘉鈴が降下するとガラ空きになった甲板に中腰で膝をつき、彼女はスコープを覗き込む。千景も同じ姿勢をとった。


 どれを狙うべきか。スコープで覗きながら千景は思案する。


 初手、ネメアを狙えと言ったのは千景だ。群れのヌシではないにしてもオス個体であり、影響力はそれなりにある。メスであるスフィンクスよりも心理的効果が望めた。


 その目論見は成功し、ネメア達の動きは止まっている。プライドの王と思しき最後列の個体も見ているものが信じられないのか、唸るばかりだ。


 一番いいのはその個体を潰してしまうことなのだろうが、狙おうとすれば他のネメアやスフィンクスが動いて守ろうとしてくる。もう片方のネメアを狙っても答えは変わらない気がする。


 雨天というネメアの力が十全に発揮できない最高のタイミングではあるが、別にそれは千景達が強くなったわけではない。相手がデメリットを背負うならば、相応のデメリットをこちらも背負う。そううまくはいかないのが自然界だ。


 「んー。よし。まずはスフィンクスを討つ。雨天ならむしろ、こっちの方が厄介だ」


 どの個体を狙うのか。その指示を千景は声に出して言わない。その代わりに適当なスフィンクスに対して銃撃を放ち、こいつを狙えと無言のアピールをした。


 『出たよ。カッコつけ』『本当に可愛くない子』『飽きなさすぎじゃない?』


 クリスティナ以外の三人がげんなりした様子でなんか言ってきた。


 「うるせー。さっさと狙え」


 はいはい、と三人は頷きまず朱燈、次いで冬馬が飛び出した。冬馬は利き手に盾、もう片方の手に軽機関銃を握り朱燈がスフィンクスと接敵する直前に彼女達の間に割って入ると挨拶代わりの銃撃を放った。


 強襲を受け、狙われたスフィンクスはその体躯からは想像もできないしなやかな動きで跳躍し、距離を取る。着地し、迫る朱燈に対抗するかのように背部のF器官を持ち上げると彼女めがけて振り下ろした。


 その一撃を朱燈は弧を描いて回避する。地面に突き立てられたF器官の周りをくるりと一周し、ガラ空きになった腹部へ転がり込んだ。


 「はい二匹目」

 『アホ、避けろ』


 冷厳な警告を千景はこぼす。直後に放たれた彼の弾丸は朱燈が懐に潜り込んだスフィンクスの仮面に直撃し、ヒビを入れた。


 仮面にヒビが入ったスフィンクスはわずかにのけ反るが、すぐに体勢を整えると放電する。可視化された雷火は青白い光を放ち、バチバチと空気の中で跳ねた。


 『スフィンクスの発電量はネメア以下だ。ただし』


 銃撃と同時に岩肌を回転しスフィンクスの股座から逃れた朱燈に千景の指摘と叱責が飛ぶ。


 『雨の中じゃむしろそれが厄介だ。自分が感電する覚悟で放電しても死なないからな』


 わかってる、と言いたそうな面持ちで朱燈は唸った。言いたくてもその事実が抜け落ちていた朱燈は反論ができない。千景が警告していなければ間違いなく黒焦げになっていた。


 部隊の前衛が消えるということはわかりやすい火力担当が消えるということだ。クリスティナの重機関銃もどちらかといえば支援火器だ。ネメアの仮面を一撃で破壊できる力はない。


 「朱燈、俺が間に入る。F器官の鎌くらいなら捌いてやるよ」


 立ち上がる彼女に駆け寄る冬馬は利き手の盾を構え、牽制の銃弾をばら撒いた。銃弾から逃げるようにバックステップで身を翻るスフィンクス。その胴体目掛けて千景は銃弾を放った。


 着弾と同時にスフィンクスの悲しげな声が漏れた。ネメアほど硬くはないその外皮は100メートル以内であれば対物ライフルでも十分に通用する。


 やっぱり風向きか、などとイヤーキャップ越しにのほほんと風速や風向きを計測する千景を他所に朱燈はさらに追い討ちをかけた。仰け反ったスフィンクス目掛けて彼女は一刀を振り下ろす。


 「しゃぁあああらぁ!!!」


 ヒュンという風を切る音が鳴り響く。空中に跳んだ朱燈は落下する力を利用して回転し、さながら木枯らしのようにスフィンクスの仮面を刀で切って捨てた。


 それは咬合する刃と仮面の衝撃音を置き去りにして、彼女が空を切った音だけを残した。高速で赤熱する太刀による一刀は容易くスフィンクスの仮面を切り捨て、その内側に隠された醜悪な正体を浮き彫りにする。


 飛沫のせいで赤黒く染まった内側の筋肉が脈動し、歯茎が揺れて爛れた肉塊がこぼれ落ちる。震える前足が折れて前のめりに倒れるスフィンクスを足蹴にして、朱燈は残るネメア達に殺気を飛ばした。


 千景、朱燈、そして冬馬がスフィンクスの相手をする傍、残るクリスティナ、嘉鈴、クーミンの三人は残るネメア達を牽制していた。一度ひとたび火を噴けば自分達の外皮を貫く火器があるとわかって突っ込める度胸もないネメア達は遠巻きにスフィンクスが倒される光景を見ているしかなかった。


 プライドのヌシもまたクーミンによってその動きを止められていた。彼女の放つ銃弾が時に足元を、時にF器官を穿ち注意をヘリへと向けさせられた。忌々しげに放電を繰り返すが、それはヘリには届かずただ周りで火花が散っただけだった。


 「届くわけないんだよなー」


 迫る雷撃はしかし10メートルと飛ばずにネメアの周辺に迸る。直後、無慈悲な銃弾がネメアの仮面を掠めた。


 忌々しげにネメアは吠え立てた。掠める銃弾はチクチクと鬱陶しくその身に降る。それを高所の安全地帯から撃ってくる小娘が腹立たしくて仕方がない。しかし今のネメアに彼女を穿つ手段はなかった。


 「使えないからな、電磁装甲」


 マガジンを取り替え、クーミンに加勢する千景はポロリとこぼす。


 「あんな高電圧の防御フィールドを大雨の中使った日には一発で感電死だ。かといって弱い電圧じゃ弾丸は反らせない。ま、自業自得ってことで」


 スフィンクスを一体削ったことでそれまでヌシであるネメアの周りにいたスフィンクスも戦線に入ってきた。朱燈と冬馬は別れてそのスフィンクスに応対する。


 上位種を一個小隊で相手取る。そんな妄想とも幻想とも取れる光景が現実のものとして実現できているのは主に環境が要因だ。


 雨天、雷撃を利用するネメアやスフィンクスは十全にその力を使えない。デンキウナギと異なり、体内の脂肪が絶縁体のような働きをしない彼らは普段はF器官を用いて雷撃を放つことで感電するリスクを回避している。


 それも体が濡れてしまえば意味がない。発電器官が体内にある都合上、少しなら耐えられても最大放電で行う電磁装甲は発動できない。


 ゆえに雨天のネメアは並の中位種程度にまで危険度が下がる。他方、スフィンクスは発電量がネメアよりも低いためか、身体能力が高い。まず優先して倒す必要がある。


 そのスフィンクスも5体中1体が消え、朱燈と冬馬が弄んでいる状態だ。片やクリスティナと嘉鈴は前線で相手取る二人の援護に周り、間断なく銃撃を続けていた。


 銃声が常に響き渡り、その中を掻い潜って朱燈が翔ける。泥土の中を滑り、熱刀で以てネメアのF器官にぶつかり、スフィンクスの鋭刃と切り結んだ。


 「よし、そのまま朱燈はネメア達の意識を自分に向けさせろ。冬馬、朱燈が危なそうだったら割って入って注意を逸らせ。クリス、嘉鈴。フェイクを入れろ。狙いはお前達から見て2時の方向!」


 指示を下しながら千景はいまだに動かないヌシのネメアを一瞥する。ネメアもバカじゃない。劣勢になれば逃げる可能性もある。敗走することで自身の強さが疑われ、プライドの秩序が乱れるリスクはあるが、死ぬよりはマシだ。


 それでも動かないのは王者としての尊厳か、それとも単に打つ手がわからないからか。なんにせよ、絶賛戦闘中の朱燈達のところへ走り出さなければそれでいい。


 今の自分達の優勢はひとえにネメアが力押しをしてこないからだと千景は考えている。さすがに上位種6体が束になって猛然と向かってきたらもう勝ち目はない。素直に撤退するに限る。


 「だから動いてくれるなよ〜。俺達にはお前らと殴り合ってる余裕はないんだからな」


 雨天というハンデがありながらしかしネメアは強いし、スフィンクスは手強い。急襲、強襲したネメアとスフィンクス以外は倒せていないのがいい証拠だ。


 切り結ぶ朱燈の刀もそれほどF器官にはダメージを与えていないし、射線がわかればクリスティナの重機関銃を躱すことはネメアやスフィンクスには容易い芸当だ。当てたければフェイクを入れる必要がある。


 それでも状況は千景達有利になんとか傾いていた。次第にネメアの動きが鈍り始め、弾丸が当たるようになった。


 疾走する朱燈はネメアを庇おう突出したスフィンクスの懐に潜り込み、掬い上げるように走らせた熱刀で振り下ろされたF器官を切断する。ヤケクソになったスフィンクスは折れたF器官を力任せに朱燈に向かって振り下ろすが、驚異的な反射神経でそれに対応した朱燈は根本を切り対処した。


 追い詰められていくネメア達。彼らが一歩下がるごとに朱燈達は一歩前進する。威嚇するネメア達に出会った時の覇気はなく、ひどく弱々しかった。


 これは勝ったか?


 ふとよこしまな考えが千景の脳裏によぎった。それを皮切りに確実に相手の死亡が確認できるまで言ってはいけない、考えてはいけない言葉のオンパレードが堰を切ったように頭の中に溢れ出す。


 あってはいけないこと、しかし考えたくなってしまう。思いたくなってしまう。傲岸に。


 ——刹那、その妄想をかき消すようにして漆黒の影が木々の合間から現れた。


 「は?」


 それは一瞬にして傷ついたネメアに組みかかって動脈に噛み付くと絶命させた。漆黒のネメアだった。


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