第10話 誤解と決心
雲塊から現れたハルピーの群れはその数を増していき、輸送機に近づいていた。元より速度を落としていた輸送機に追いつくなど、ハルピーには容易い。瞬く間に距離を詰める彼らを苦々しく思いながら、千景は輸送機を一瞥した。
戦闘時はさして気にも止めなかったが、輸送機の速度はだいぶ落ちている。原因は明白、本来ならば四機積んであるはずのエンジンが一機欠けている。おそらくはハルピーの攻撃を受けて壊れたのだろう。
エンジンが一機欠けてもドリフトダウンを起こさず、高度を維持できているのは欠けたのが尾翼の小型エンジンだからだ。主推進機である主翼のエンジンと違い、胴体を安定させるための補助的なエンジンの喪失だからまだ耐えられている。
とはいえ、補助でも重要なパーツであることに変わりはない。輸送機本体を安定させるエンジンが欠けたということは残る三つのエンジンでその機能を分担しないといけない。そうなると必然的に速度が落ちる、という話だ。
原因は他にもある。補助エンジンからの漏電とか、ハルピーの攻撃で装甲板が歪んでいたりとか。とかく繊細な飛行機という文明の産物の鼻先でドンパチをした影響か、主翼から垂れ落ちた血肉がエンジンに巻き込まれ、血霧を発生させていた。
「バードストライクもあるか。文字通り」
ハルピーは胴体が大きいからエンジンのフィン内に入ってしまうことは万が一にも起きないが、血肉となれば話は別だ。万が一にもエンジンルームへ入ってしまった血肉が動作不良の遠因にもなりかねない。
「あとはあの、ヘルンか」
千景達の頭上を飛んでいたハルピーの上位個体、ヘルンはすでに後方から近づくハルピーの群れの中へ帰ろうとしていた。ライフルで狙うこともできるが、1匹落としたところで感はいなめない。
何より、ヘルンの登場は予想通りではあった。
オーガフェイス、ブラッド、そしてハルピー。これら以外にも下位のフォールンは体内のF因子が一定量まで溜まると、「進化」する。より学術的な用語を使えば「成長」あるいは「転化」といったところだろう。一般には字面の良さから「進化」と呼ばれている。
下位種に限らず、フォールンは体内のF因子が一定量まで溜まると、その姿を変える。同種であれ、他種であれ、とにかく喰らって進化することで仮面は変化し、肉体もまた大きく形を変える。突き詰めれば、それはフォールン化の延長線上でしかないが、危機に瀕した下位種はよく仲間を食らって姿を変える。
有体に言えばF因子とは彼らにとって経験値だ。それも用法容量を間違えれば肉体が崩壊する類の激毒である。先ほどのように同族を食らったとて、進化せずにただただ自滅するケースも十分に考えられる。要は賭けだ。
つまり、あのハルピーは賭けに勝ち、上位個体であるヘルンになった。勝負師がすぎる。例え目の前のヘルンを撃ち落としても、迫るハルピーの中から同じことをする奴がいないとも考えられない。
熟慮の末、千景は扉から顔を出しクリスティナに呼びかけた。最後通告、これを聞き届けない場合は穏便ではない方法を取るしかない。
ちらりと朱燈に目配せをすると彼女は待ってましたとばかりに立ち上がり、武器類一式をぶら下げたバックパックを背負った。むふふ、と不敵に鼻を鳴らすを彼女を他所に千景が通信がつながるのを待っていると、ピピという電子音と共に不機嫌そうな女性の声が聞こえた。
『何か?』
「悪いが駄々っ子の時間は終わりだ。後ろを見てみろ」
千景に言われてクリスティナは尾翼の方へ視線を向けた。数秒の沈黙、その間に何を思ったのか彼女は息を吐いた。
「これ以上は部隊の隊長として看過できない。悪いが、来てもらうぞ」
クリスティナが輸送機に固執する理由は見当がつく。おそらく、それ以上に人がボロクズの廃船に止まり続ける理由もない。
それがわかった上での千景の退避勧告はしかし、無慈悲に切り捨てられた。一方的に通信は切られ、ツーツーという昔懐かしい電子音だけが彼の耳元に残った。
馬鹿野郎、と千景はこぼす。似つかわしくない率直な暴言。厳しい眼差しで眼下を睨み、朱燈に輸送機へ降りるように命令した。
「回収は?」
「エクストラクションロープで引き上げる。その間、無防備になるだろうけど、制空権は確保する、これでいいか?」
ぶい、と朱燈は無表情のまま返す。
ヘリは依然として輸送機との水平飛行を保っている。本当ならば輸送機の直上に移動したいところだが、その時間はない。
助走もそこそこに朱燈はヘリから飛び出した。高度一万メートルからのダイブ、スカイダイビングの高度が大体地上4,000メートル付近であることを考えれば倍以上の高度からのダイブということになる。
姿勢を保ったまま、重心移動を繰り返して朱燈は輸送機へと近づいていく。ものの数秒足らずの短いダイブ、輸送機に近づくやいなや彼女は腎部から影槍を突き出し、その切先を輸送機に突き刺した。
自身を引き寄せ輸送機に着陸した朱燈は即座に周囲を見まわした。彼女が降り立ったのは輸送機の主翼で、つるりとすべる滑らかな質感に驚くもすぐに両足に力を入れて踏ん張った。
視線の先、尾翼の方向へ目を向ければ赤茶けた雲が近づいてきていた。ものの20分と経たずにあれらは輸送機を覆い尽くし、墜落させるだろう。
急げ、という千景の司令がやかましく聞こえた気がして、感傷も冷めやらぬまま、輸送機の胴体を目指した。整備用に設けてある側面のタラップを上ると、同じように輸送機の後背を睨む少女の後ろ姿が見えた。
紫白のツインテール、なめらかなうなじ、艶めかしい後ろ姿に比して無骨で物騒な左右の形状が異なる重機関銃を構える彼女は放心しているのか、それとも死地に赴くための決心を固めているのか。
とにかく棒立ちのままで背後に立つ朱燈に気づこうともしない。こころなしか彼女の重機関銃からぶら下がるガンベルトはだらしなく輸送機の背面部にこぼれていた。
「あんた、えっと。名前、名前。まぁいいや。とにかくさ、もういいでしょ。もう十分やったじゃん。誰も恨まないって。そ、誰も」
恨むなんて言葉、どうして言ったんだろうか、と発言してから朱燈はふと首を傾げた。なんとなしに言った言葉で、意図があったわけではない。
しかし彼女の言動にクリスティナが少なからず動揺を見せたのは確かだった。
「今、なんて?」
振り向いたクリスティナは眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げた険しい表情を浮かべていた。明らかに怒っている。しかしそれで驚く朱燈ではない。まして、配慮するほど気が利く性格でもなかった。
一歩前に踏み出し、朱燈は真正面からクリスティナと対峙する。朱燈が近づく素振りを見せると、クリスティナも左右の重機関銃をわずかに持ち上げ、臨戦体制の構えを取った。
寒風なびく輸送機の背の上で銀髪赤目の剣士と紫銀碧眼の銃士が対峙する。片や正面、片や背面から迫るフォールンのことすら忘れ、感情の赴くままに彼女らは睨み合った。
一触即発の雰囲気をヘリコプターから覗き見る千景は感じ取り、わざとらしくはぁ、と誰にでも聞こえる大きなため息をついた。誰にでも、とは文字通り誰にでもだ。イヤーキャップ越しに届いた千景のため息は無論、朱燈とクリスティナの耳にも届いていた。それを水面に沈む石つぶてのごとき合図とでも捉えたのか、朱燈と対峙していたクリスティナは背面へ飛ぶと共に踵を返して輸送機の後方へ向かって走り出した。
『「なぁ!?」』
『朱燈!追え!』
「うっさい、わかってる!」
さすがの千景もクリスティナが何も言わずに輸送機の後方へ走っていくとは思わなかったかのか、イヤーキャップ越しに聞こえる彼の声はどこかうわずっていた。
無論、朱燈にしてもあまりに唐突な行動すぎて反応が遅れてしまった。タッチ・アンド・ゴーで出遅れたのは初めての体験で、鳩が豆鉄砲を喰らったかのように思考が一時停止してしまったからだ。
クリスティナの虚を突いた行動に千景や朱燈が驚く傍ら、もう片方のヘリからその様子を眺めていた竟はケラケラと笑い転げていた。戦場という命の取り合いの場には似つかわしくないひばりのような笑い声、副隊長である苑秋のゲンコツを喰らうまで彼女は笑い続けた。
それくらいに状況は面白い、と竟は考えていた。絶望的な数のハルピーの群れ、群れの中へと飛んでいくヘルン、そして頑なにヘリへの乗り移りを拒むロシアからの問題児。面白い要素しかない。
日々の任務は無論刺激的だし、広報任務もアイドル活動のようなものと考えれば楽しかった。しかし危機的状況ほどの緊張感と臨場感はない。おもわず口角が緩んでしまうようなハラハラドキドキ、感動のスペクタクル的なイベントとは程遠かった。
不気味に笑う自分達の小隊長を苑秋をはじめ、彼女の部下達は冷ややかな眼差しで見つめる。あーあ、このマゾっ気がなけりゃいいのにな、と誰もが心の中で呆れ返っていた。
三者三様、さまざまな感情が渦巻く。日頃、いろいろな状況に置かれる3人が感情を乱すほどにはクリスティナの行動は予想外で、傭兵らしからぬものだった。
傭兵と言えばドブ攫いなわけで、命が第一の信用できない兵士の筆頭格のようなものだ。千景や朱燈も依頼主のために囮を演じることはあっても、それはあくまで自分達が生き残れる算段があるからで、クリスティナのような無謀な突撃をするほど短慮でもなければ、義理堅いわけでもない。
同僚の予想外の行動に面食らうも、それでも気を取り直して朱燈はクリスティナの背を追う。わずか1秒のロス。それだけに先に走り出したクリスティナはそれほど遠くまでは行っていなかった。
二人の距離は5メートルもない。まして重武装のクリスティナと比べて朱燈の荷物はバックパック一式だけだ。たとえ、先に走り出したのがクリスティナでもすぐに追いつける、そう高を括っていたが、両者の間の距離はなかなか縮まることはなかった。
ヘリの甲板から愛らしい二人の狂戦士の追いかけっこを見つめる千景にはなんとなくだがその理由がわかった。単純に環境への慣れが原因だろう、と。
小さな呼吸器一つで高度一万メートル以上の高高度帯での活動ができると言っても、朱燈やクリスティナのベースはやはり人間だ。初めて環境に即座に順応できるほど適応力があるわけもない。
朱燈とクリスティナでは体力に差こそあるだろうが、より早く高高度での戦いを開始したのはクリスティナで、彼女の方が高高度での呼吸の仕方、筋肉の動かし方を熟知している。必然、平地の感覚で息を吸ったり吐いたり、足を動かす朱燈はとろくなる。
そんなどうでもいい考察をするくらいには暇だった千景は操縦士に現在の輸送機の速度やヘリとの相対速度を聞くため、再び操縦席へと近づいていった。千景が操縦士と話し合う傍ら、それ以外のメンツはそそくさとマガジンを取り替えたり、貨物室へ入ったりと束の間の休憩時間を謳歌する。
休憩時間の最中もチラチラと彼らはヘリ前方の窓ガラスを、あるいは甲板から顔を出して迫り来るハルピーの群れを一瞥も二瞥もした。近づくにつれ、それまでは漠然としたモヤにも似た群盲は小粒程度から明細なシルエットになっていった。
それは尾翼方向に近づく朱燈にはより克明に写り、視覚以外にも様々な情報が入ってきた。
一つ一つのパーツが鮮明に見え始めると、さっきまでは風に流れて聞こえなかったものが聞こえ始めた。蒼穹を埋め尽くさんばかりの悪羅は、やかましく喚き、酔客に似た焦点の合わない両目を朱燈へ向けた。
鼻腔に似た眼窩は既存のどの鳥類にも見られない特徴で、一説にはハルピーは実は鳥がモデルになったフォールンではないとまで言われている。そんな与太話が、具体的には冬馬が話していたくだらない話が脳裏を掠めるくらい、ハルピーが近づくにつれて、緊張が高まり、意図せず朱燈は生唾を飲んだ。
「って、あれ?」
意識を頭上へ集中したばかりにふと視線を前方へ戻してみると、さっきまで追っていたはずの白い背中はどこにもいなかった。まさか落ちたのかとも思ったが、それならはるか上空に待機している千景達が教えるはずだ。
ということは、と尾翼から身を乗り出し、朱燈は輸送機の下部へ視線を向けた。
機体の下部、より正確には後部と形容すべき場所を見れば、そこにはほぼ全開まで開かれた巨大なハッチが見えた。格納庫の中はほとんど何もないが、わずかに機体右翼側に複数の寄せられ、積み上げられていた。輸送機が揺れても落ちないところを見るに底部が固定されているのだろう。
影槍を使い、後部格納庫へ降り立つ朱燈は辺りを見まわした。綺麗とは言い難いが、埃っけは感じないだだっ広い空間だ。照明は落とされ、薄暗いが漏れ指す陽光のおかげで不便はない。
シミひとつない空間で、歩けばカーンと冷たい音が鳴った。外から入ってくる風が格納庫の中を不気味に回る音が響き、そういえば、と朱燈は足元を見た。
開けっぱなしにしていたにしてはどうしてハルピーは格納庫に入らないのだろうか。死体はおろか、血の一滴すらこぼれていないのは不自然だ。
「んー?あ!」
何かないか、と振り返ってみると、ちょうどハッチの左右壁面に大型の機械が取り付けられていた。外観は旧時代の映像媒体で見た鉄道信号機によく似ているそれは三つのランプから赤い光を放って外側に向けられていた。
その装置に朱燈は見覚えがあった。壁外の任務から戻ってくる際、目の前の装置よりもはるかに大型のものが壁面に張り付いていたのを憶えている。
なんだろうか、と疑問を口にするよりも早く、千景はFジャマーとうんちく混じりに説明していた気がする。大部分は忘れてしまったが、確かフォールンが嫌う特殊な電波を出すとかなんとか。
それが付いているからフォールン、もといハルピーは格納庫の中に入らないのだろう。しかし実際にフォールンに襲われているということは範囲はかなり狭いんだろうな、と朱燈は脳裏に輸送機を思い描いた。
思い返せば、ハルピーが狙っていた部位はもっぱら主翼や胴体部の底部などだ。おそらくはその辺りがジャミングの限界なのだろう。
納得し、それはそれとして、と朱燈は格納庫に視線を戻した。見たところ、本当に何もない。木箱が何個か積んであるくらいで、それも重要なものがあるようには思えなかった。
ではあの紫銀の少女は一体何をそんなにヘリに乗るのを嫌がったのだろうか。
とりあえず進むか、と朱燈は格納庫の奥へと歩き出した。奥へ進むに連れて中はだんだんと暗くなっていく。もうそろそろ暗視ゴーグルでも使うか、と朱燈が額のゴーグルに触れたその矢先、背後からカンカンという音が聞こえた。
振り返ると重機関銃の銃床を振り下ろそうとする碧眼の少女がいた。とっさに朱燈は背後へバク転する。バク転時、彼女の足は振り下ろされていた重機関銃の銃床を足で引っ掛け、少女の手から蹴り飛ばした。
格納庫の暗中へ消えていく重機関銃を尻目に立ち上がった朱燈は不満げな目を少女に、クリスティナへと向けた。即座に抜刀しなかっただけ、まだ朱燈は理性的だった。
重機関銃を取り上げられてもなお、クリスティナの反抗の意思はゆらがない。抱えていたもうひとつの重機関銃を降ろし、腰のサバイバルナイフを彼女は抜く。フォールンには致命傷にならない無用の長物。しかし人間相手ならば使い道はある。
ビュッと風を切るほど高速でクリスティナはナイフを突き出した。対して朱燈はそれに素手で応じる。突き出されたナイフの動きを見切り、伸び切った左手を掴むやいなや、彼女は同時にクリスティナの襟首を掴み、勢いそのままに彼女を投げ飛ばした。
一本背負。格納庫の鉄床に叩きつけられたクリスティナは受け身を取る暇もなく、衝撃を五臓六腑に受け、カハッと息を吐いた。しかし彼女の目はまだ死んではいなかった。
常人ならば痛い、苦しい、もうだめだの3テンポでダウンするところだろうが、クリスティナは影槍保持者だ。その肉体は常人以上に強固にできあがっている。
「つ」
「クッソ、これだから影槍使いってやつは」
徒手格闘で倒そうと思えば、一体何度鉄床の上にベッドインさせればいいのだろうか。苛立ち半分、面倒臭さ半分のやるせない気分のまま、朱燈は向かってくるクリスティナの腹めがけて思いきり拳を叩き込む。
近接戦の腕は大したことはない。あくまで朱燈基準では、だが。千景や冬馬ほど倒れ慣れているわけでもなければ、竟や苑秋の技巧派でもない。まして廉のような力自慢でもない。文字通りの人並みな腕前だ。
だからか、二、三度殴りつけてやると、弱々しくクリスティナは左手のナイフを落とした。倒れ込む彼女を他所に朱燈は落ちたナイフを格納庫の外へと蹴り飛ばした。万が一、倒れ込んだのが演技で、顔なり腹なりを刺されてはやってられない。
「さて、と。うん。まだ5分もある。さ、来てもらうから。言っとくけど逃げようなんて」
「つ、この人手なし!」
「はぁ?まぁなぐなったのはごめんじゃん?でも先にかかってきたのはそっちでしょ?」
理不尽だなぁ、と朱燈は眉を寄せた。ヴィーザルに所属してから、いやそれ以前から何度か理不尽に切られることはあったが、いつでもそういう時は不快なものだ。なんだって自分達の力不足を他人のせいにできるのか。その思考回路になれるやり方を教えて欲しいくらいだった。普段の自分の千景に対する行動を棚上げにして、朱燈は滔々と上から目線でそう思った。
一方、クリスティナは人でも殺しそうな形相で朱燈を睨んでいた。腹をさすり、しかしまだ反抗の意思を見せる彼女は並並ならぬ敵意を見せていた。
「ほんと、なにがあったの」
「つ。——事情を知らないんですか?」
あまりの敵意、あまりの抵抗に朱燈は不審がってつい聞いてみた。するとクリスティナはきょとんとした様子で目を細めた。
「本当に、知らない?」
「だから、なにを。てか、あんたはほんと、何をそんなに意固地ってるわけ?」
いい加減教えろ、と眉を釣り上げて朱燈はクリスティナに訴える。わけもわからず救助を断られた挙句、いきなり鈍器で殴りつけてくるような暴力女の言い訳など聞きたくはなかったが、なんとなくここでドブに捨てては寝覚めが悪い。
よしんば、クリスティナを締め上げてヘリに戻っても彼女がヘリ内の爆弾とかを起爆して、ヘリが墜落なんていう事故が起きないとも限らない。不満があるならここで吐き出させるべきだし、秘密があるならさっさと暴露してもらいたかった。
立ち上がったクリスティナはその足を格納庫の奥へと向けた。彼女の腕時計に照らされたドアを開くと、狭い廊下を間に挟んで、またドアがあった。最初のドアが鉄製だったのに対して、二つ目のドアは木材に似た塗装がされていた。ドアの間にある廊下は非常用の足元のライトだけがぼんやりと光っていて、天井の照明は落とされていた。
無言のまま、クリスティナがその扉を開くとやはり、中は暗かったが、かすかに人の気配がした。同時に嗅ぎ慣れたむせかえるような血潮の匂いが漂ってきた。
生唾を飲み、朱燈はクリスティナの後を歩く形で中へと入っていく。
ライトに照らされて目に入るのは左右にそれぞれ三席ずつ、真ん中に四席のごくごく普通のキャビン。人二人が並んで歩けるほど広いウォークスペースが一本ずつ左右に走っていて、ちょうどキャビンの中間部分にトイレボックスが置かれていた。
キャビンが薄暗い、というか足元の非常用ライト以外に光量を発していないのは照明を落としているからというのもあるが、窓の遮光パーセンテージをほぼ100パーセントにしているからだ。おかげ外からは中の様子がわからない。反面、中も真っ暗になる。
暗いせいでよく見えないが、歩いている通路の左右に怪我人がいることがわかる。大半がうめき声で、どこを怪我しているのかはわからないが、座席に横になっていることはわかる。
ライトで照らすと眩しそうに両手を前に突き出す人もいれば、フードで顔を覆う人もいた。血の匂いがすることから、何人かは出血もしていた。
キャビンの中間地点でクリスティナは朱燈の方へ振り返り、前後のカーテンを閉めた。トイレのドアを開けると、勝手に光が点き、気まずそうな朱燈と真剣な眼差しのクリスティナの表情が綺麗に浮かび上がった。
朱燈が気まずい雰囲気を漂わせているのは無論、今さっき目にした負傷者のことだ。どう考えても2、3人という雰囲気ではない。キャビンの半分だけで30人はいた。もう半分も加味すれば実質60人。しかも暗がりの中では痛がる怪我人のことを慰める人もいたから、総数は80人を超える。
ちらりとライトで照らした座席の背面にあるパンフレットネットには日本語と英語、そしてロシア語で何かが書かれたパンフレットが入っていた。日本語部分には「新しいサンクチュアリへ」と書かれていた。
「えーっと。つまり」
ここまでお膳立てされれば朱燈でもこの輸送機が何かはわかる。なるほど輸送機の格納庫が大きい割に木箱が数個積んであるわけだ。なにせはじめから輸送は輸送でも物資の輸送ではないのだから。
「これってひょっとして難民輸送機?」
「正確にはロシア難民の輸送機です」
だからロシア語か、と朱燈は得心がいった。
ロシア、もとい東欧はフォールン大戦の最前線だ。近い場所にヴィーザルの本部があるストックホルム・サンクチュアリがある。日夜、フォールンとの果てなき闘争に身を投じ、しのぎを削っている。いや、正確にはしのぎを削っていた。
ロシア最大のサンクチュアリであるモスクワ・サンクチュアリが陥落して以降、対東欧戦線は後退の一途をたどっている。現在、ロシアの主だったサンクチュアリはオムスク・サンクチュアリとはるか東のウラジオストク・サンクチュアリだけだ。
サンクチュアリとは大量の人類を養い、育む場だ。それができるだけの物資があり、設備がある。規模は大中小と分けられ、陥落したロシアのサンクチュアリはいずれも大、ないし中規模のものだ。
必然、陥落したとなれば大量の難民を生む。生き残ったロシアのサンクチュアリではすべての人間を受け入れることはできず、発生したロシア難民は多くが同じユーラシアの各サンクチュアリへと流れる形になった。朱燈の同僚であるクーミンもロシア難民である。もっとも、彼女の場合はロシアで暮らしていた時間よりも日本にいる時間の方が長いため、ほぼなんちゃって状態だが。
しかし今朱燈の目の前にいるクリスティナをはじめとしたロシア難民はなんちゃってではない。苛烈なフォールンの脅威から逃れるため、はるかインド洋、太平洋と渡って極東までたどり着いた紛うことなきロシア難民だ。
「彼ら、彼女らは貴方達の救助者リストにありましたか?」
なかった。それだけは断言できる。懐の端末で任務内容を再確認するまでもなく。
理由は不明だが、輸送機は最初から捨て駒、あるいは捨て石だったのだ。ただクリスティナ一人だけを確保できればいい、それだけのための布石にすぎなかった。
サンクチュアリで育った朱燈にはそれがどういう意味か、難民とはなんであるかはわからない、字の意味はわかっても、それがどういう体験をしてきたのかなんて想像できない。
「彼らは救いを求めて、ここまで来ました。故郷を悪きフォールンに奪われ、それでも生きようと極東の東京サンクチュアリに来るため、己の財産を投げ打って」
住んでいたサンクチュアリから逃げた時点で裸一貫だった人間ばかりがここにはいた。朱燈自身、劣悪な環境で育ち、ほぼ身売りに近い形でヴィーザルに入社したが、それでも10代に満たない頃からフォールンを間近で見てきたわけではない。彼女が初めて実物のフォールンを見たのは四年前、ヴィーザルの養成所で行われた最初の壁外試験の時だ。その時は13歳。比較的成熟していた時期だ。
ロシア難民は朱燈でも知っているくらい、国際問題となっている課題の一つだ。大規模サンクチュアリであるモスクワ、サンクトペテルブルクの両サンクチュアリが陥落し、放り出された万を超える難民は周辺のサンクチュアリすら巻き込んで、世界各地へと広がった。
必然、各サンクチュアリも感情的には彼らを受け入れたい。数少ない人類ということを考えればそう考えるのが自然だ。しかしそうはならなかった。
各サンクチュアリでロシア難民の扱いに誤差はあるが、概ね排他的な扱いを受けている。場合によってはサンクチュアリへの入場を断られる場合もある。
居心地のいい温室を追い出され、挙句フォールンに怯える毎日、たどり着いた近くのサンクチュアリからは追い出され、はるか遠くの東京サンクチュアリまで来て、ようやくというところでまた見捨てられる。それはむごいことだ。
「それはむごいこととは思いませんか!?」
話し始めた頃はトーンを抑えていたクリスティナの語気が強まり、次第に大きな声になっていった。怒気を孕んだ純粋な憤激。帯びてしかるべき、発露してしかるべき感情だった。
一応、朱燈もサンクチュアリ防衛軍に雇用されている手前、その存在を知ってしまえば、守る義務が発生する。言い換えれば彼女が何も見ていないと言えば、そこに難民はいない。
だが朱燈は見たものを見てないと言えるほど鉄面皮ではなかった。少なくとも、ああも迫る碧眼の少女の前では。
イヤーキャップに手を伸ばし、彼女は千景につなぐ。数秒後、接続と同時に嫌そうなトーンで千景が、なに、と返した。
「あのさ、千景。今あたし機内にいるんだけどさ」
『うん』
「めっちゃ怪我人いるっぽい」
『あーうん。だろうね』
どこか諦観めいた声音で、千景は返す。予期していた、予感していた、予想していたとはっきり明言する彼に少なからず不快感を覚えたが、今はそれを口論している場じゃない、と気を取り直して朱燈は彼にどうにかできないか、と聞いた。
推敲するような間があった。部隊の責任者である手前、色々と計算を巡らせなくてはいけない、というのは朱燈も理解している。しかし理解までだ。感情は納得していなかった。
「あのさ、千景。怪我してる人らん中には子供もいるみたい」
『うん』
「あたしらがさ、見捨てたらその子らってどうなる?」
『死ぬかな、ほぼ100で』
超スーパークリティカルなダイス目で落ちた輸送機から逃れた奴が海流に流されて海岸に漂着して、偶然たまたま居合わせた心優しい人間に引き上げられるっていうパターンもあるけど、と千景は冗談めかして付け加える。無論、そんな0を何百回と繰り返した果ての1パーセントはもはや確率とは呼ばない。幸運、ミラクル、神のいたずらを通り越した、もうなんかよくわからない必然だ。
つまりそんな必然を除けば、朱燈とクリスティナが輸送機を離れた時点でもう彼、彼女らの命運は尽きるのだ。それを良しとできるほど朱燈は非情ではなく、また機械人間にもなれない。
「千景。あのさ。無理を承知で頼みたいんだけど、いいかな」
『うん』
「助けたい。この人ら全員」
『へぇ。なんで?』
意地悪な声で千景は朱燈に問う。見ず知らずの、それも任務に含まれていない人間を感情以外のどんな理由で救いたいと言うのか。それも自分以外の隊員まで巻き込んで。
千景の声音に真剣さ、真面目さというものはなかった。軍人的な厳格さ、峻峭さという意味でだ。
その声音はどこか自分の選択を聞きたがっている、知りたがっているように朱燈には感じられた。まるで雲上の大尽のような尊大さに舌打ちしたくなったが、なんとかその感情を抑え、彼女は一息で理由を言った。
「寝覚めが悪い」
『へー。ふーん。それは』
理由と呼ぶにはあまりに稚拙。お粗末な答えだ。しかし千景はどこか嬉しそうだった。
『決を取ろう。朱燈は寝覚めが悪いって言った。お前ら、それ聞いてどう思う?』
ん?
どういうことだ、と千景の言葉に朱燈は疑問符を浮かべた。そも、この会話を聞いているのは果たして自分と千景の二人きりなのか、と。
『副隊長から一票!賛成賛成!ボクは助けたーい!』
真っ先に答えたのはこの部隊の副隊長を務める竟だ。なんならもう戦う気まんまんなのか、イヤーキャップ越しに銃器のスライドをガチャガチャと弄る音が聞こえた。
『俺は反対。やるにしたって数が多い。ま、けどそうだな。朱燈ちゃんが今度の任務で前衛やってくれんなら考えなお、ぐぇ』
『はーい約一名棄権ね!あたしは賛成!朱燈ちゃんが誰か助けたいなんてレアじゃーん。無論、やります!』
肘鉄でもされたのか、あるいは膝蹴りか。うめく冬馬と嘉鈴のやかましい声がイヤーキャップ越しに響いた。
『賛成か、反対かで言えば俺はやってもいいと思う。弾はくさるほど持ってきた』
『俺もいいですよ!朱燈姉さんには世話になってますし』
『れ、廉君がいいなら、あたしも、いい、よ?』
続けざまに苑秋、廉、そしてあさりが賛成に票を投じた。彼らに続いて残る二人の第二特務分室の隊員も賛成する、と声を大にして言った。
『いいんじゃないですか?どのみち、私も寝覚めが悪い。それに子供は我が儘を言うものです』
『はー。まー独り身だしなー。それにここで賛成に票を投じれば俺らにもロシア美人がアテンドされっかもしれんしなー』
『ないですって、先輩。俺らにアテンドされるのはいいとこ、特務のガキンチョですよ』
『世知辛いね!!』
陽気な会話をするのはヘリコプターの操縦士二人だ。どうやら先輩、後輩の関係にあるらしい。片方は知らない声だったので、最初に聞いたときは朱燈には誰だかわからなかった。
『アカ先輩。私からは逆にお願いします。同胞を救ってください。うん、あー。もうだめ』
真面目な口調、声音を維持できず、クーミンは元のふやけた声に最後の方では戻っていた。賛成に票を投じて、緊張が途切れたのか、バタンとヘリの甲板に倒れる音が聞こえた。
『ふーむ。賛成10、棄権1か。ま、ここでどれに投票しても結果は同じだな。だから俺は反対に票を投じるよ。けど、手伝いはするよ。ほら、フランスの哲学者も言っていただろ?「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」ってさ』
『それ、本人は言ってないぞ?タレンタイアの本の中で言ってるだけだぞ?』
『うん、東先輩の言うとおり、だよ?』
見かけがはみ出し者の分際で意外にも愛読家な千景の謹言はしかし、同じ愛読家である苑秋、あさりに一蹴される。いーんだよ、別にと恥ずかしそうに千景は吼えた。
いずれにせよ、議論は決着した。
『とりあえず、まぁ。なんだ?』
気の抜けた声で千景は続ける。緊張感に欠けるが、戦う前から肩肘を張るよりずっといい空気感だ。
『ハエ叩きだ。派手にやろう』
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