怠慢⑥
「ちょっとお母さんっ! ちゃんと薬飲んだん!? アタシは別に良いけど、これ以上周りの人に余計な心配させんなしっ!」
俺自身も、気にはなった。
だが何よりも、新井が自らの空腹も忘れて走っていく姿に、言い知れない不穏さを感じた。
母子家庭云々もそうだが、俺と新井の境遇は本質的にどこか似ている。
そんなシンパシーもあってか、俺は気付けば反射的に新井の後を追いかけ、彼女とほとんど同じタイミングでスタッフルームに着いていた。
さて、肝心の新井の母親だが、俺たちが部屋へ入ると、中央部分に配置されたテーブルに、ぐったりと顔を突っ伏していた。
しかし血相を変え、部屋に突進してきた新井の声に気付くと、虚ろな瞳にうっすらと生気を宿らせる。
そして……。
「やだー! 『アタシは別に良いけど』なんて、カナエちゃんやっぱり優しー! チューしちゃうんだからっ!」
勢いよく新井に抱きつき、キスしようとしている。
一瞬、薬の副作用か何かで意識が朦朧としているのかとも思ったが、彼女のこの様子を見る限り、完全に酔っ払いのソレだ。
「ちょっ!? やめてよっ! こんな公衆の面前で何考えてんだしっ!」
「えー! いいじゃない! 減るもんじゃないし!」
必死に抵抗する新井を尻目に、母親は不服とばかりに頬を膨らませる。
こうして見ると、微笑ましい親子のやり取りでしかないが、生半可に事前情報がある手前、どうにもワケあり感満載に見えてしまう。
部屋に着いて真っ先に目に飛び込んだハイトーンの髪は金色に近く、単純な派手さで言えば娘の新井に負けず劣らずといったところか。
ただその割りには、髪の根本を見ると、かなり『プリン』が進行していて、隅々にまでは手入れが行き届いていないようだ。
あまり、ひと様の母親をジロジロと見るのも如何なものかとは思うが、確かにズボラな印象は否めない。
だがそうは言っても、だ。
童顔で小皺一つ見当たらない肌、酒焼けとは縁遠い甲高い声。
そしてその、どこか子ども染みた仕草も相まって、贔屓目なしに若く見える。
いや……、むしろ幼い。
新井の年齢を考えると、40代半ば辺りなのだろうが、とても年相応には見えないことは確かだ。
「っ!? てかお母さん! お酒臭いっ! また二日酔いでパート来たん!?」
「だってぇ〜、しょうがないでしょ〜! 担当くんの誕生日だったんだからっ!」
ほとんど酩酊状態でそう話す母親に、新井は絶句し、頭を抱える。
どうやら俺の予想は、あながち間違ってはいないようだ。
つくづく、新井には同情を禁じ得ない。
「アレェ? そちらの子はぁ?」
新井の母親は、俺の存在に気付くと、呆けた表情を浮かべる。
「あ、えっと。荻原 訓と申します。新井さんとは、大学の同期で……」
俺が名乗ると、新井の母親は眉間にシワを寄せ、訝しげな視線で頭の天辺からつま先まで、舐め回すように見てくる。
そして一通り物色すると、満足したのかニコリと微笑む。
「中々のイケメンさんね。合格よ! カナエちゃん、グッジョブ!」
新井の母親はそう言って、サムズアップのポーズを取る。
すると、新井は誤解を解こうとするでもなく、ただただ顔を赤らめていた。
一世代前のラブコメを彷彿とさせるかのような小芝居に、むしろ俺としては逆に冷静になる。
「そんでぇ〜。カナエちゃんは昨日のイベですっからかんになったお母さんに、わざわざお金を届けに来てくれたのかな? さすがっ! なんだかんだ言って優しいんだから〜」
「期待を裏切るようで悪いけど、家賃以外はビタ一文出す気ないから。用があんのはソッチ!」
新井はそう言うと、俺を強く指差す。
すると、新井の母親は一瞬驚いた様子になるが、スグに期待のこもった爛々とした眼差しで俺を見てくる。
「オギワラくんって言ったっけ? 何々? お姉さんに何でも聞いてごらんなさい!」
「さりげに図々しいこと言ってんなし……。オギワラ! そこの身の程知らずのおばさんにガツンと言ってあげて!」
「別にそういう趣旨じゃねぇんだけどな……。まぁいい。えっと……、すみません。いくつか伺いたいことがあります」
俺はフゥと深く息を吐き、意を決する。
「娘さんのこと、愛していますか?」
瞬間、部屋全体が張り詰めたような空気になる。
目の前の親子二人は、『出会い頭にナニ言ってんだ、コイツ』と言わんばかりの、呆けた顔になっていた。
無論、この程度の地獄は想定の範囲内だ。
常識的に考えて、氏も素性も知れない俺がアレコレと問いただすのは僭越すぎる。
順序として、まずは俺に対しての警戒心を解くのが先決だ。
あまりぱっと見の人間性で判断するのもどうかとは思うが、彼女の場合、この種のフザケた導入の方が好印象だろう。
彼女の中に、多少なりとも『疚しさ』のようなものがあるのだとすれば、尚更だ。
当然、これは話の入り口に過ぎない。
目的は飽くまで、新井の不幸の本質を見極めることだ。
不正や売春云々は一旦脇に置き、彼女たちのバックグラウンドを一つ一つ洗い出す。
そうして得た情報を、今後の方向性を決める材料にする。
これこそが狙いだ。
それに……。
あながち、的外れな質問でもないだろう。
「あははっ! いきなり、何を言い出すかと思ったら! オギワラくん。イケメンさんってだけじゃなくて、ユーモアもあるのね! アタシ、そういうの好きよ!」
彼女はそう言って、抱腹する。
それを合図に、場の緊張の糸が一気に解ける。
「突然、申し訳ありません。実は僕の所属するゼミで、来月発表会がありまして……。『家計状況と幸福度の相関関係』という研究テーマで、いくつかサンプルが必要でして……。新井さんのお母さんにも、ぜひご協力いただきたいと思い、こうして失礼を承知で伺ったのですが……」
俺は如何にもな理由を話す。
口から出任せ以外の何物でもない。
だが新井の母親は、寸分ほども疑う素振りを見せず、満足そうに俺の話に相槌を打っていた。
「あーあー! もうそういうカタッ苦しいのはいいからっ! それと、『お母さん』ってのも禁止っ! 何かアタシだけババァみたいじゃん! ミキさんって呼んでくれると嬉しいな! ミキちゃん、でもいいけどね! ふふ!」
「は、はぁ……」
「ありゃ。浮かない顔だね〜。あっ! も・し・か・し・て〜? オギワラくんは、そっちのお義母さんのつもりで言ってたのかな〜? そういうことだったら、う〜ん……、ごめんなさい! 合格です!」
『アレな人』だと、新井からは口酸っぱく言われてきたが、どうやら予想を大幅に超えてきたようだ。
まさか同級生の母親から名前呼びを強要された上、光の速さで公認を頂けるとは思わなかった。
もし、コレが彼女の素なのであれば、何処ぞのスペイン語講師に並ぶ逸材に違いない。
「オギワラ、ごめん……。お母さん、やっぱりお酒抜けてないみたい。普段はもうちょっとだけ、まともだから……」
そう話す新井は、『消えてなくなりたい』とばかりに赤面していた。
『二日酔い』という言葉に、どれほど免罪符としての機能が備わっているのかはさておき、冷静に考えればアポなしでパート先にまで押しかけたこちらに非がある。
「そうか……。いやっ! お身体が優れないところ、突然押しかけてしまい、申し訳ありませんでした。また日を改めさせていただきます」
「だーかーらっ! 気にしなくていいってば! 今は一応勤務時間内だからマズイけど、もう少し待ってくれるなら全っ然協力するよ。身体もこの通り、ピンッピンッしております! あっ! さっきの質問だけど、答えはもちろん『YES』だよ! カナエちゃんLOVEのガチ勢だから、そこんとこヨロシクゥ!」
新井の母親はそう言って、額の辺りにピースサインをつくる。
世間一般的に見れば、『痛々しい』であろう自身の母親の言動に、新井は頭を抱える。
「……分かりました。ご協力、感謝します。では詳しくは後ほど」
「うんっ! 楽しみにしてるね!」
警戒心が無事に解けたのか。
もしくは、端からそんなものは存在しないのか。
その時、彼女が見せた笑顔は、天真爛漫そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます