決別

「そうですか。やはり……」

「はい。荻原くんから遠回しに、ですけど聞いていました。ですから……、覚悟はしていました」 


 込み入った話の合間にも、時は刻一刻と過ぎていた。

 『地検が来た』と石橋の父親の秘書の一言があってから、社内は分かりやすく浮足立ち、メインルームから数室離れたこの会議室に居ても、その騒々しさはひしひしと伝わってきている。

 そんな中俺たちは、に向けて静かに淡々と進んでいった。

 彼女の問いかけに、どこか吹っ切れたような草臥れた笑顔で応える石橋を見ると、現状が彼にとって如何に残酷なものであるかがよく分かる。


「……これも土方元常務からヒアリングの過程で伺ったことです。石橋さんのお母様、石橋 耀子ようこさん……、いえ。籍を入れていないのでそれは通称でしたね。正しくは宍戸 耀子さん。彼女は約一ヶ月前に自裁じさいされたそうです。何でも、自室のクローゼットで首を吊っていた、と」


 分かっていたとは言え、何とも後味の悪い話だ。

 だが、これではっきりした。

 俺がわざわざ話すまでもなく、彼女は分かっていたのだろう。

 それこそ、俺と石橋が出会う以前から……。

 

「そう、ですか……」


 石橋は小さくそう呟くと、その場で萎れるようにしてへたり込む。

 すると背中を丸め、ひくひくと身体を揺らしながら、すすり泣き始めた。

 一頻り泣き、小康状態になると、田沼さんは石橋に語りかける。

 

「石橋さん。あなたの希望は、『父親たちから、母親を引き剥がすこと』でしたよね?」


「はい……」


「それに関して、荻原さんからは以下のことを承っております。『前提条件がどうであれ、石橋のは母親から始まったもの。それは母親自身が一番理解していた。万が一、を迎えていた場合、それは意図的である可能性が高い。本当に引き剥がすべきは父親たちではなく、石橋自身だ。それこそが母親への最大の供養だと思う』と」


「……はい」


「私も荻原さんと同意見です。石橋さん。私は一度依頼を預からせていただくと言いましたが、現状を鑑みた結果、我々が介入するのは得策でないと考えました。無論、荻原さんの方で鑑定は済ませておりますので、をつけることも可能です。それにより、あなたの今後の人生に一定の方向性を示すことも出来るでしょう。ですが……、それはあなた自身の手で勝ち取った未来と言えるのでしょうか? あんぐりと口を開けた状態で、誰かが与えてくれた価値観とやらに、一体どれほどの値打ちがあるのでしょうか? 問題はあなた自身が、お母様の死とどう向き合うか。石橋さん、今一度考えてみて下さい。因縁を、因縁で終わらせるか。それとも、そこから何かを見出すか」


「何か……、皆して勝手ですね。コッチは一方的に何もかも押し付けられたって言うのに……。何にもない俺に、唯一道を示してくれた母さんを恨めとでも言うんですか?」


「……石橋さんにとってはお辛いことかと思います。ですが結果として、そうした方がこの先スムーズであることは事実。これで晴れて、お父様方ととして、お母様への負い目は解消されますか? ご自身の容姿を変えてまでも払拭出来なかった因縁を。お母様は既に亡くなっているのですから、尚更です。石橋さん。勝手ながら申し上げます。一度、全てを否定して見てはいかがでしょうか? ご自身を取り巻く、全てのものを」


「一度、何もかもリセットしろ……、ということですか?」


「……否定はしません。でもそれは、別に石橋さんのせいじゃない。誰だって、好きで生まれた来たわけでない以上、恨むべき対象も選べませんからね。全てはなんです」


「巡り合わせ、ですか……」


「はい。同じ地獄なら、自分で選んだ地獄の方が、納得感は得られるかと思います。石橋さんに足りていないのは、その実感かと……。だからこそ、『提供』を通してでなく、石橋さん自身の手でこの因縁にケリをつけるべきかと思います。お母様の御遺志を無駄にしないためにも」


 彼女の言葉に、石橋は静かにフゥと深く長い息を吐いた。

 

「さて。では今一度、伺います。『提供』は必要ですか?」


「必要、ありません」


 石橋がそう応えると、田沼さんは柔らかい笑みを浮かべる。

 すると、それに応えるように、彼もまたフッと小さく笑った。


「父さん」


 石橋は父親に向き直り、静かに語りかける。


「……珠羽」


 石橋の父親は、この場で初めて彼の名を口走る。

 悲壮感の裏側に、どこか疚しさも入り混じったような彼の声は、辺りの喧騒に、かき消されてしまいそうだった。


「……母さんのこと、何で言ってくれなかったの?」


「お前は……、知らなくいいからだ」 


「……俺が整形したことも、知ってたんだね」


「まぁな……」


 断片的で拙く、薄氷を踏むかのような二人の会話は、彼らのこれまでの歪な親子関係を物語るようだった。


「父さん。一つだけ、いいかな?」


「……何だ」


のは、父さんも同じなんだよね?」


「……何の話だ」


「爺ちゃんが銀行を私物化しようとしてたことは知ってるよ。世襲だ何だって、気付いた時には頭取になることを強要されて、パートナーまで一方的に決められてさ……。しかも世間的に言ったら、後ろめたいカタチで、さ……」


 石橋の父親は、何も言わなかった。

 だが、身体の奥底から沸々と沸き起こる憤りを隠しきれていないのは、傍から見ていても明らかだった。

 そんな父親に対して、石橋は更に言葉を浴びせる。


「多分だけど、今回もさ……。焦ってたんでしょ? 爺ちゃんから、目に見える数字上げるように、しつこく言われてたんだよね? 分かるよ、それくらい……」


「……馬鹿なことを言うのはやめなさい。子供の分際で分かったような口を叩くな」


「父さんは、押し付けられたんだ。何もかも……。母さんのことも。そんな人との子供なんて容姿とか関係なく愛せるワケない、よね……」


「だ、黙れっ!! お前なんかに何が分かると言うんだっ!!」


 石橋の父親はたまらずといった様子で、大声を上げる。


「あぁそうだよっ! お前らのことなんか愛せるわけないだろっ! そもそも何が悲しくて、あの女との子供なんて作らなければならないんだっ!」


 どっと。堰を切ったように、石橋の父親の口から言葉が溢れ出す。

 石橋はその様子を、ただじっと悲痛の表情で見ていた。


「私は全部、あの父親の言う通りにした……。父親の望む大学にも行ったし、父親と同じ道にも進んだ。自覚もしているが、盲信していたんだよ。そりゃあ、本人にとっては都合の良い息子だったろうよ」


 石橋の父親はそう言いながら、自嘲気味に笑う。

 そんな父親を前に、石橋は『うん』と静かに頷いて見せた。


「だが、同時に恐れてもいた。父親が示した道で結果が出せなかったらどうなるか分からなかった。私には他に何もないからな。自分を測る物差しが。だから、いつだったか言ってやったんだよ。『自分には親父しかいない。だから見捨てないでくれ』と。自分でも惨めだとは思うがな。そうしたら、なんて言ったと思う? 『当たり前だ。お前には他に必要ない』だと」


「…………」


「それだけならまだいい。私のその一言は、却って父親を激昂させた。『お前は私が信じられないのか。ならば今すぐ起業でも何でもして結果を出せ。もっとも何もないお前にそれが出来るとは思えんが』といった具合にな……。私はその時、気付かされた。端から、逃げ場なんてなかった。結局、私には父親と心中する道しか残されていなかったんだ、と……。その日から私は只の一つも、父親に口答えをしたことはない」


「……なるほど。そんな八方塞がりの中で出会ったのが、雨宮 絢乃あめみや はるのさん、ということですね?」


 田沼さんの口から、何やら聞き慣れない名前が飛び出した。

 瞬間、石橋の父親は身体をびくつかせ、まるで通り魔に遭遇したかのような、血の気の引いた顔になる。

 そしてしばらく絶句した後、半ば諦めるように首を縦に振った。

 それを合図に、彼女は再び口を開く。


「雨宮 絢乃。横浜発祥の某アパレルブランドのオーナー、でしたね? 小規模展開ではあるものの、地元の若者を中心に底堅い支持のある優良企業、と聞いています。そして何より雨宮さんは……」


 田沼さんはちらりと石橋の方に視線を寄せる。


「父さんが……、結婚する人、だよね……」


 石橋は、彼女の暗に何かを要求するような視線に気付くと、辿々しく応えた。


「……知ってたんだな」


「詳しくは知らないよ……。昔、爺ちゃんがそんな事、言ってたような気がしたからさ……」


 石橋の言葉に、石橋の父親はハァと大きく息を吐く。

 

「……本当に頑固で口の悪い女だった。私が何度話を持ち込んでも、彼女は一向に首を縦に振らなかった」


「うん……」


「私は焦っていた……。父親の手前、これ以上たかが一社の契約に時間を取られるわけにはいかないからな。そんな焦燥感からか、私はを使ってしまった」


「というと?」


 田沼さんがそう聞くと、石橋の父親はバツが悪そうに視線を逸らす。


「……私が父親に口利きをすれば、多少金利を優遇できるかもしれないと伝えた。すると彼女は言ったんだ。『あなたみたいな人としての誇りも尊厳もない銀行員に救われる企業が不憫で仕方ない』と」


「あら。それは手厳しい」


「向こうは若くして地域有数のブランドを立ち上げたやり手の女社長だからな……。対して、こちらは親の威光に頼らないと何もできないボンクラと来たもんだ。そりゃあ、見てて苛つくだろうさ。だが、まさか面と向かってそんなことを言われるとは思わなかった。一応、界隈では『御曹司』で通っていたからな。事実、ほとんどの経営者は私にすり寄ってきた」


「まぁ、銀行は『晴れの日に傘を貸して雨の日に取り上げる』なんて言いますからね。無理もないかと。あなた方に睨まれでもしたら、いざ経営が傾いた時、どんな因縁をつけられて融資を打ち切られるか分かりませんし」


 田沼さんがそう言うと、石橋の父親は黙って頷く。


「……しかし彼女は違った。私にはその感覚が分からなかった。だが同時に眩しくも見えた。歳で言えば、私と変わらないくらいなのに、彼女は何事にも物怖じせずに気高い。いつも何かに怯え、びくついている私とは何もかもが違う。気付いた時には、私は彼女になっていた」


「ほう……」


 田沼さんはそう呟き、いつか俺に向けてきたような生温い視線を送った。

 石橋の父親はそれから逃れるように、視線を背ける。


「なるほどー。そんな絶望的な状態から、石橋取締役がどんな一発逆転のテクニックを駆使して彼女を落としたのかは気にならなくもないですが……。まぁそれは追々ということで! それで……、話の流れから察するに、結局あなたはお父様に抗うことが出来なかった、と?」


 田沼さんは追い打ちを掛けるように質問すると、石橋の父親は小さく頷いた。


「……父親が彼女を認めることはなかった。彼女が堅実な経営をしていることに間違いはないが、所詮は中規模事業者だ。なまじ、政府との繋がりもある分、エリート意識も高い父親は明らかに彼女を見下していた。そこで私は迫られたんだ。父親を選ぶか、彼女を選ぶか、を」


「そっか……。それが父さんにとってだったんだね」


 石橋がそう言うと、自虐的な笑みを浮かべ、応える。


「心底、自分に失望した……。この後に及んでまだ父親か、と! この世で唯一、熱を上げた女性すらまともに愛することが出来ないのか、と! 私はこの時ほど、身に染みて感じたことはない……。自分自身の不自由さを……」


 俺はこの時、自然と腑に落ちた。 

 一度落ちたら、二度と元の場所には戻れない。

 それは彼らも同じだ。

 だからこそ、必死だったのだろう。

 石橋の父親も。その父親も。

 たとえ、自分や身内の自由を犠牲にしてでも、だ。

 そうやって彼ら上層が躍起になって築き上げたのが、この固定化された階級社会なのだろう。

 そして……、俺や新井はそれに巻き込まれた。


「私が彼女の話をした後、すぐにどこぞの令嬢を宛行われた。それが耀子だったというわけだ。好きでもない女とつがわれされた挙げ句、として愛人だぁ? 全く……。ヒトの事、タネウマか何かだと思ってるのかね……」


 石橋の父親は消え入るような声でそう言うと、静かに石橋の方へ向き直る。


「珠羽。全ては私の弱さが招いた結果だ。許してくれとは言わん。もうしているだろうが、軽蔑してくれて一向に構わない。ただ、もう……、私に何かを期待するのはやめてくれないか? この通り情けない父親だ。お前の欲しいものは何一つくれてやることはできない。私はもう……、自分が自分でいることに疲れたんだ。すまん……」


 そう言って、深々と頭を下げた。


「……何だよそれ。ふざけんなよっ!!」


 石橋はつかつかと父親に近付き、声を荒げ、胸ぐらに掴み掛かる。

 そのまま、為す術無く壁際に追いやられた父親は、激しく目を泳がせた。


「そんな話をして……、『じゃあしょうがない』とでも言うと思ったかっ!?」


 石橋は、鬼気迫る形相で父親に詰め寄る。

 もはや俺の知り得る石橋の姿は、どこにも無かった。


「そ、そんなことは思ってない……」


「土方さんに、北信共立や相銀の社員、それに雨宮さん……。色々な人の恨みを買って……。挙げ句の果てには犯罪にまで手を染めてっ! だけど、分かってる……。父さんだって、被害者だ。だからそれについて、俺がとやかく言うつもりはない。でも……」


 石橋はそう言うと、父親を睨むその視線は一層鋭くなる。


「それだけ沢山の人に迷惑掛けたってのに……、どうして、未だにそんな苦しそうな顔するんだよっ! 何謝ってんだよっ! 最後まで憎まれ役でいろよっ! 母さんは何のために死んだんだよ……」


 声を震わせ、並べ立てる言葉とは裏腹に、父親を追いやるその手は徐々に脱力し、少しずつ拘束が解かれていく。

 石橋の父親はその手を払い除けるでもなく、ただただ俯いたまま、彼の話を黙って聞いていた。

 そんな彼らの姿を、田沼さんは眉一つ動かさずに見つめていた。


「……一つだけ伝えておくよ。母さんは確かに後悔していた。ただそれでも……、父さんのことを愛していた。これは事実だ。父さん、コレ、見覚えない?」


 石橋はそう言いながら、手持ちのビジネスバッグからを取り出し、父親の前に突き出す。

 

「コレは……」


 差し出されたその手に乗せられていたのは、5cm程のシルバーのヘアクリップだった。

 先端のクリップ部分に施された星の装飾は、部屋のLED照明の光を僅かに反射し、その存在を主張するように小さく瞬いている。

 石橋の父親は唖然とした表情で、まじまじとそれを見つめていた。


「母さん、見た目は良くなかったけど、髪は凄くきれいだったから……。黒髪に良く映えるって言って、自分で渡したんだろ?」


「どうしてお前が……」


「いつか俺に大切な人が出来た時にあげなさいって、母さんがくれたんだ。こんなの……、重くて誰も受け取らないっての。相変わらず、ズレてるっていうか、不器用っていうかさ……。でも、そんなところも含めて母さんらしいなって」


 石橋はそう言うと、投げやりに微笑む。


「俺さ。決めてたんだ。いつか父さんにこれを突き返してやろうって」


「珠羽……」


「分かってる……。今更、俺がこれを渡したところで、父さんは重荷に思うって。でも、知って欲しかったんだ。父さんが何の気なしに見せた希望は、母さんをずっと縛りつけていたことを」


 石橋のその言葉を聞いた瞬間、父親はガクリと膝から崩れ落ちた。


「耀子……。すまない……」


 石橋の父親はそう溢すと、泣き崩れる。


「……母さんが雨宮さんのことを知っていたのかは分からない。でも、母さんにとっては、これがこの世に残された希望だった。それは確かだよ。言い方は悪いけど、母さんは本望だったと思う。でも、それなら……、何でこんなロクでもない結末なんだよ……。母さんを踏み台にしてまで、父さんが得たものって何なんだよっ!? これじゃ、まるで……、犬死、じゃないか」


 見ていて、痛々しい。

 これが拗れに拗れた親子関係の顛末というものなのか。

 石橋を母親、ひいては石橋家から解放させると決めた以上、少なからずこうなることは分かっていたのだ。

 だが……。

 カタチはどうであれ、石橋はこうして父親と、そして母親の死と向き合った。

 それに間違いはない。

 母親の未練にケリを付け、父親への想いを昇華し、彼らと決別する。

 その一点に絞れば、目的は達成されたと言える。

 やり方や過程はともかく、田沼さんは確かに俺の思惑通りの結果に導いてみせた。


 しかし……、ここで終わっては不味い。

 問題はその先だ。

 不健全だからと、これまでの生きる指標を剥ぎ取るだけ剥ぎ取り、丸腰同然で放り出すのは、端的に言って無責任だろう。

 ……分かっては、いる。

 石橋の今後のことなど、俺たちの領分ではない。

 ましてや、俺たちが提示できるものなど、その場しのぎの応急処置的なものしかない。

 ただ、そうであったとしても、今後の方向性を決めるきっかけ程度にはなる可能性がある。

  

 奇しくも、石橋自身も言っていた。

 石橋の父親が軽はずみに見せた希望は、母親を縛り付けたと。

 結果として、俺たちは石橋から全てを奪った。

 そして、見せた。

 枷から解放された先にある、僅かばかりの新しい可能性を。

 であれば、最後の最後まで、口煩く口出ししてやるべきだろう。

 たとえ、田沼さんが何と言おうとも、だ。


「……石橋。それは少し違うと思うぞ」


「えっと……、荻原くん。どういうこと、かな?」


 石橋は不安げな表情で、俺の顔を覗き込んでくる。


「そのクリップが、お前の母親の唯一の希望ってのは勘違いだと思うぞ。石橋。お前の母親はどんな想いでそのクリップを託したか、分かるか?」


「えっ……」


 言い淀む石橋を前に、俺は思わず大きく息を漏らしてしまう。

 やはりというか……、彼らは間違いなく親子だ。

 俺の反応を見て、目を泳がせる石橋を見て、つくづくそう思う。


「……石橋。母親はどんな人だったか? 少しズレてて不器用な人だって、お前言ってたよな? だとしたら、その『大切な人が出来たら……』ってのも、気休めでも何でもなく、文字通りの意味だったんじゃないか?」


「ごめん。それってどういう……」


「だからまぁ……、要するに母親はお前にして欲しかったんじゃないのか? 自分自身が叶えられなかった幸せな結婚生活とやらの、よ。知らんけど」


「……リ、リベンジ?」 


「利己主義とまではいわねぇけど、案外強かっていうかさ……。考えてもみろよ。自分の結婚願望を叶えるために、父親の立場を利用したんだぞ? 結果として、末端の従業員を巻き込んだとしてもな」


「お、荻原くん……。でも、それは……」


「わーってるての! お前の母親の願望なんて、所詮は会社同士の論功行賞での建前だってことくらい。でもな……。たかだか容姿が悪いってだけで何もかも、泣き寝入りしなきゃなんねぇことに腹が立ってたってのは事実だと思うぞ? お前は根っからの善人だとか言ってたが、母親だって一人の人間なんだよ」


「それは……、そうかもしれないけどさ……」


「だからまぁ要するにさ……、母親にとっての最後の希望はお前自身、だったんじゃないかって話だ。自分の無念を晴らすためのさ」


 俺がそう言うと、石橋はハッとした表情を浮かべる。

 ここまで言えば、何となく真意は伝わっただろうか。


「……田沼さんはああ言ってたが、別に恨む必要も否定する必要もねぇよ。だが敢えていうなら、そうだな……。ビジネスライクだ!」


「ビ、ビジネスライク?」


 石橋は、ぽかんとした顔をする。


「……お前は、母親から『幸せになる』っつぅミッションを任せられたわけだ。これはお前の母親が人生を懸けても、ついに叶えられなかった最重要プロジェクトだ。の母親から、そんな重大な役目を仰せつかったお前が、いつまでも腐っててもしょうがねぇだろ? だからさ……。証明してみせろよ。お前の母親が手に入れられなかった幸せがこの世に存在するってことを。その……、なんだ? を受け取ってくれる『大切な人』とやらを見つけてさ。他に何かやりたいことがあるなら別だけどな」


「荻原くん……」


 言ったそばから、自覚する。

 それこそ、気休め以外の何ものでもないだろう。

 無責任極まりないし、小っ恥ずかしいことこの上ない。

 散々、母親を恨めだの否定しろだの勝手なことを言っておいて、この言い草はご都合主義にもほどがある。

 だが、何もないよりはずっといい。

 生きる理由だとか大層なものでなくても、当面の予定くらいは入れておいた方が、自分を見失わなずに居れるはずだ。


「つっても別に俺だって、女心とやらに精通してるわけじゃねぇ。だからまぁ……、あんま真に受けんな」

 

「荻原くん、ありがとう」


 どこか言い逃れするかのような俺の言葉に、石橋は静かにはにかむように笑って応えた。

 そんな石橋の姿を見て、俺は居心地が悪くてたまらなくなった。


「……荻原くん」


「へっ!? は、はい」


 不意に石橋の父親から話しかけられ、俺は咄嗟に気色の悪い声を上げてしまった。


「神取弁護士からどこまで事情を聞いているのかは分からないが、私は近いうちにを話そうと思う」


「……そうですか」


 石橋の父親にそう言われた時、俺の鼓動は高鳴った。

 

「あまり驚かないようだね。私はてっきり、どういう風の吹き回しかと言われると思ったが」


 頷いた切り何も言わない俺を見透かすように、石橋の父親は言った。


「……無論、その程度で私たちの罪が消えることがないのは百も承知だ。だが、まぁ……、一応けじめだ。私はキミたちに敗北した。であれば、敗者は勝者の血となり、肉となる。キミたちが、そうだったようにね」


 言葉に詰まる俺に構うことなく、石橋の父親は続けざまに、何とも勝手なことを宣う。


「……神取さんからは、ほぼ何も聞いていないも同然なので、何のことかはさっぱりですが、一応あなたのスタンスは分かりました。でも何か……、あなたからそれを言われると、すっげームカつきますね」


 俺がそう言うと、彼は嬉しそうに目を細める。


「ふっ。だろうね。だからまぁ、そうだな……。これからはするつもりだ。本当にすまなかったね」


 石橋の父親はそう言って、深々と頭を下げてくる。


「……それと田沼社長。最後に一つ、伺います」


「はて? なんでしょうか?」


「深い意味はない。これは単純に私個人の興味だ。こんなことを支出かして……、タダで済むとお思いですか?」


 そう聞く石橋の父親の表情を見ると、随分とさっぱりとしていた。

 前置き通り、何の含みもなく、興味本位なのだろう。


「あら。それは随分な言い草ですね。第一、のはそちらの方では?」


 しかし、田沼さんは意に介す様子もなく、普段の調子で惚けて応える。


「飽くまでそのスタンスですか……。今日をもって、あなたはとなった。これまで以上の厳しい処分が下ると私は考えますが」


「でしょうね〜。でも……、実際そんな暇あるんですかね? 今回の件について政府が承知していないのであれば、存外彼らにとってのトカゲの尻尾は石橋取締役、かもしれませんよ?」


「……そうですね。違いない」


 石橋の父親がそう言うと、二人は顔を見合わせ、不敵に笑い合った。


「ホラ! 早く行った方が良いのでは? 国家権力の皆様がお待ちですよ!」


「言われなくても行きますよ。田沼社長も、せいぜい命だけは取られないよう、気を付けて下さいね」


「余計なお世話ですよ」


 田沼さんはそう言って、静かに笑った。

 それにつられるように、彼もまた笑い、出口に向けて歩み出す。


「……珠羽」


 数歩進んだ先で、その足取りを止め、石橋に語りかける。


「一つだけ、言っておくことがある」


「……何?」


「私はお前のことを愛せない。今までも。この先も」


「言うに事欠いてソレ? でも、そっか……。分かったよ」


 そう溢すと、石橋はどこか窶れたような笑みを浮かべる。

 父親は『すまない』とだけ小さく呟き、会議室を後にした。

 石橋はその後ろ姿を、涙を流しながら見つめていた。


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