決着
秘書の話を聞いた後、石橋の父親は条件反射的に立ち上がる。
その後、言葉を発することも忘れて直立不動となり、文字通り放心状態に陥った。
「い、石橋取締役?」
秘書の呼びかけにハッと我に返りった彼は、すかさず田沼さんにガンを飛ばす。
「た、田沼社長! これは一体どういうことですか!?」
「はて? どうも何も、秘書の方のおっしゃった通りでは? 疚しいことがないのであれば、堂々と潔白を証明なされてはいかがでしょうか?」
「っ!?」
彼女の惚けた態度に、石橋の父親は為す術なく黙り込む。
……理解が追いつかない。
田沼さんは間違いなく、提供先は『俺』だと言った。
であれば、この状況の説明がつかない。
石橋の父親に負けず劣らずの放心状態の俺を見て、田沼さんはフッと静かに笑う。
「荻原さん。あなたは少し勘違いされているようです。私はダメ押しとは言いましたが、これは荻原さんの件とも石橋さんの依頼とも、全く関係ありません」
「……は?」
思いがけない一言に、俺は思わず言葉を失う。
彼女はそんな俺に構わず、石橋の父親に向き直り、『ンンッ』と小さく咳を払った。
「時に石橋取締役。つかぬことを伺いますが、最近日本銀行の審議委員のお一人と会食をされたようですね」
「ど、どうしてそれを……」
田沼さんの質問に、石橋の父親の表情は凍りつく。
それを見た彼女は一層勢いづいた。
「あ! 急にごめんなさいね! 聡明な石橋取締役は既にご存知かとは思いますが、不幸の鑑定につきましては、依頼人のバックグラウンドを洗い出す必要がありまして……。ねぇ、荻原さん」
「へっ!? あ、はい」
「そ・れ・で! 本来であれば、きちんとヒアリングの時間を設け、石橋取締役の不幸について、じーっくりとお聞きしたいところでしたが……。何分、大変お忙しいお立場のようですので、ね。勝手ながら、私の方でイロイロと調べさせていただきました」
「た、田沼社長! お待ち下さいっ! 私は別に依頼をしたわけでは」
「おや? 違いましたか? 『相談』と聞いていたので、私はてっきり依頼の話だと思っておりましたが。それで、その会食の翌日でしたかねー。何やら、相銀子会社のファンドが日本国債の空売りを、大量にされたようで……」
彼女の言葉に唖然とした石橋の父親は、その場で立ちすくむ。
もはや彼に、返答の術は残されていなかった。
だが、それでも彼女は嬉々とした表情を崩さず、口撃を緩めようとはしない。
「その週末でしたかねー。日銀の政策決定会合でサプライズ的に利上げが発表されたのは。これにより、日本国債の価格は一時的に暴落しました。コレって偶然なんですかね? ま・さ・かとは思いますが、何かしらの情報提供があった、なんてことはありませんよねー?」
田沼さんは空々しい態度で、まじまじと石橋の父親を見上げながら問いかける。
「え、えっと、チサさんっ! つまりはそれって、どういうことですか!?」
新井は身を乗り出し、田沼さんに問いかける。
すると、彼女は何故か爛々とした眼差しを俺に浴びせてくる。
彼女のその期待を込められたような熱視線には、自然と溜息が溢れ出てきてしまう。
「……まぁ要するに、石橋の父親にはインサイダー取引の疑惑があるってことですかね?」
「おっしゃる通りっ! 石橋取締役にはその疑義があります!」
田沼さんはそう言って、石橋の父親の鼻先に向けて、人差し指を突き出す。
その様子は実に俺の知る彼女らしく、見ていて安心する程だった。
もっとも、それは今まさに彼女の餌食となっている人間にとっては、堪ったものではないのだろうが……。
事実、彼はその差し出された指先を、アワアワと見つめることしか出来ていなかった。
「まぁ、それ自体は別にいいんです。現段階では、飽くまで疑義。他の誰かがその場に居合わせて、会話を録音したわけでもない以上、私のような者が警察に話したところで取り入ってもらえないでしょうしね。そもそも私たちは、捜査機関でも、司法機関でもありません。我々がとやかく言うのはお門違いでしょう」
「……まぁ確かに、それはウチの領分ではないですね」
「はい。ですからココで重要なのは、そこに疑いがあるかどうか。火のないところに煙は立たないとはよく言いますが、逆に言えば火の元さえあれば、いくらでも煙を際立たせることは可能。そこに、我々の役割の本質の部分があるのです」
ここまで聞いて、ようやく彼女の言わんとすることが理解出来た。
なるほど……。
確かに物的証拠の有無など関係ない。
更に言えば、誰でもいいのだ。
被害者感情や民意との整合性が取れれば。
司法や行政へのバッシングを抑えられさえすれば。
肝心なのは、問題を問題として捉えるか、だ。
……いつだってそうだ。
不都合で薄暗い事実には蓋をされ、時の権力者の匙加減で本質は捻じ曲げられるのだ。
「……よく分かりました。だから先回り、なんすね」
俺がそう呟くと、彼女は一層目を細める。
「おっしゃる通り! 提供する不幸については、提供先となる当人に振りかかっていない項目に限られますからね。この場合の不幸とは、『表になっていない問題が噴出すること』ですが、実際に捜査の始まっている罪状については既に生じたものとして扱われます。だからこそ、確かめる必要があった。石橋取締役の疑惑が表沙汰になっていないことを」
「なるほど……。考えて見れば、里津華もそうでしたからね」
「はい。知っての通り、彼女はそもそも事件の首謀者ではありませんでした。彼女の場合、共謀者のどなたかが出頭したことで事件が明るみになり、芋づる式に辿り着いた、といった流れです。したがって、荻原さんが『提供』をした瞬間に彼女自身の捜査が始まった、ということになりますね」
「……そうですか。納得です」
「いやぁ! 思ったように事が運び、安心しましたよ! 知り合いの警察官僚の前で、それとなく石橋取締役の名前を出したところ、特段反応を示しませんでしたからね。それで確信出来ました。捜査はまだ始まっていない、と」
彼女はそう言って、ニンマリと半ば煽るように笑いながら、石橋の父親に向かって語りかける。
確かに彼女の言う理屈は分かる。
だが……。
それは飽くまでも彼女の主観に過ぎない。
そもそも俺たちは、意図的に石橋の父親に辿り着いてはいけないのだ。
「……まぁそこまでは分かりましたよ。ですが、だからと言ってその流れで石橋の父親を選ぶのは、あなたのエゴでしかない。提供先は俺だったんじゃないんですか? 基本理念とプロセスを守れって言ったの……、あなたでしょ?」
「そ、そうだっ! 田沼社長は依頼とおっしゃいましたが、仮にこれが依頼の一環なのだとしたら、紛れもなく背信行為だ!」
石橋の父親は酷く困惑した様子で、田沼さんを指差す。
「はて? 背信行為とは? 石橋取締役もご存知でしょう? そもそも『提供』とは、特定の誰かを意図的に陥れるものではない、と。それに私は間違いなく、荻原さんに対して提供をしましたよ?」
俺と石橋の疑問に、わざとらしく首を傾げる。
どういうことだ?
彼女の支離滅裂とも言える話に、俺も石橋の父親も返す言葉を失う。
「おっと! 私としたことが、まだ大切なことをお話ししていませんでした! 実は今回、私が受けた依頼は合わせて3つあります」
「はぁっ!?」
俺は石橋の父親を差し置き、声を上げてしまう。
「おや? どうされました? 荻原さん」
いつもながらの惚けた調子で、田沼さんは聞いてくる。
「よくもまぁ、そんなキョトン顔が出来ましたね……。何すか、3つって……」
「ふふ。では荻原さんのために今一度おさらいを。まずは言うまでもなく、石橋さん。次に、ご本人は否定されていますが石橋取締役。そして、もう一人……、とその前に。石橋取締役。
田沼さんは石橋の父親に向き直り、ニコリと微笑んで問いかける。
しかし、その声はどこか冷たく乾いていて、敵意のようなものすら感じた。
そして、それを裏付けるかのように石橋の父親は打ち震える。
「ア、アンタ……。ま、まさかっ!?」
「えぇ。あなた方……、石橋家に人生を壊された方です。そして、3人目の依頼人でもあります」
驚愕する石橋の父親に対して、彼女はわざとらしい笑顔で首を傾ける。
「あなたの実質的な
飄々と話す彼女を前に、石橋の父親は一層顔を青白くさせる。
「そ、そんなの……、当然でしょ!? 我々が救済したわけですから! 人事権はコチラにある!」
石橋の父親は必死に弁明するも、彼女は白け切った冷たい視線で彼を見ていた。
「救済、ですか……。そう言えば、土方元常務。大変興味深いことをおっしゃるんですよ。初めて、相銀が北信共立に対して経営統合の話を持ちかける1ヶ月ほど前、ですかね? 何でも、北信共立では大手ゼネコンへの大型融資が決まりかけていた、とか……。それにより、自力での立て直しの目途が立っていたと言うではありませんか!」
「はぁぁぁっ!? ま、待ってくれっ!! そ、それ以上」
石橋の父親の制止を振り切り、田沼さんは続ける。
「これは土方さんのおっしゃていた推測です。当時の交渉の窓口になった方が、裏で手を回し融資の件を破談させた、と……。その点について、石橋取締役はどの様にお考えで? あ! ちなみにご本人から許可をいただいた上で話しているので、ご心配なく!」
田沼さんはそう問いかけるが、石橋の父親の返答はなかった。
彼が口を噤むのは、無理もない。
彼女は白々しく『交渉の窓口』などとぼやかしてはいるが、そもそも経営統合を持ちかけたのは石橋の爺さん本人だ
もし彼女の言う通りであれば、これは相銀側が仕掛けたマッチポンプ以外の何物でもない。
「娘可愛さに、あなた方に屈した宍戸元頭取に問題がないとは言いません。まぁ百歩譲って、役員である土方さんの解任までは分かるとしましょう。ですが人員整理と称して、末端の社員にまで事実上の『追い出し部屋』への異動を強いるのはいかがなものでしょうか? それも土方さんに近い、という理由だけで。いやはや……。部外者の私が申し上げるのも大変僭越ですが、随分と歪な経営をなされるのですね、石橋家は。それとも、これが社内政治の世知辛さ、というものなのでしょうか?」
田沼さんは普段の調子で話すが、その実、石橋の父親に浴びせるその視線は冷淡に見えた。
「さて! 今更話すまでもないとは思いますが、石橋取締役の疑惑については土方元常務からのタレコミがありました。と言っても、依頼のヒアリングの過程で偶々伺ったことではありますが……。いやぁ! それにしても。我ながら、何とも無駄のない理想的なムーブです!」
田沼さんはそう言いながら、満足そうに笑う。
そんな彼女に、してやられた石橋の父親は膝から崩れ落ちた。
「アンタ、最初から……」
勝負あった、といったところか。
彼女を睨みながら、恨み節を溢すその声もどこかか細い。
「はい。ですから、言ったでしょう。私は筋を通す人間だと」
田沼さんは、笑顔で淡々と言い切る。
「はてさて! 事後報告的になってしまい恐縮ですが、石橋取締役の鑑定結果、並びに提供先をお伝え致します。石橋取締役の総合点は15点。提供先は荻原訓さん、と相成りました。なお、提供する不幸についてですが……。今回の結果については、私の実質的な個人プレーに依るところが大きいかと思われます」
「……まぁ、俺の鑑定なんてあってないようなものでしたからね。今のところ」
俺が応えると、彼女はここぞとばかりに嬉しそうにほくそ笑む。
「よって! 今回の荻原さんの特別手当はナシ、ということで! どうです? コレは中々の不幸でしょ?」
「そんなの……、あなたの匙加減でしかないでしょうが……」
取り繕う気があるのか、ないのか。
どう考えても、目的ありきの後付の方便でしかない。
正規のプロセスを踏んだのかどうかも怪しい。
一体、どこからどこまでが、彼女の計画だったのか。
先回りと称して警察に探りを入れていたことを考えると、少なくとも石橋の依頼以前より動いていたことになるが……。
いずれにせよ、一つだけ確かなことがある。
これは俺が彼女に伝えた意図ではない。
そもそも石橋の父親の不祥事など、俺の頭にはなかった。
会社の大義名分にも反する。
これらが全て意図的であったとすれば、政府も黙っていないはずだ。
はっきり言って、田沼さんの話は衝撃などという言葉では生温い。
新井にしても同じのようで、あんぐりと口を開けて言葉を失っている。
だが、そんな新井や俺を遥かに凌ぐレベルで、目の前に突きつけられた残酷な事実に茫然自失している人間がいた。
「石橋……」
ふと石橋の方を見ると、その場で立ち尽くしたまま、項垂れている。
掛ける言葉もない。
当然だ……。
彼女は、何を思ってこのような答えを導き出したのだろうか。
「石橋さん」
「……はい」
田沼さんの呼びかけに、石橋は力なく応える。
「いかがですか?」
「…………」
石橋は何かを訴えかけるような虚ろな目で、彼女を見た。
「おや? 石橋さん、浮かない顔ですね? 石橋さんのお望みの結果かと思いますが」
「はい……。確かにそうです、ね」
意地が悪い。
確かに表面上は、当初の石橋の希望通りには見えなくもない。
だが、それは飽くまで建前だ。
俺は彼女に伝えたはずだ。
本来、石橋が一番向き合わなければならない問題は他にある、と。
『悪意の先で生まれた、忌み子』
まるで自分自身を『後ろめたい命』とでも言うかのような、生まれながらに植え付けられた自意識。
いわくつきの家庭で育ってしまったが故に、歪められた価値観。
そして、何より。
自分の息子にディスアドバンテージを背負わせた負い目に苛まれる、母親への罪悪感。
そんな石橋が……。
母親という、ある種の呪縛から解放されるために。
この先の人生に少しでも、手応えを感じられるために。
容姿を変えてまで、母親の心の安定を図ろうとした石橋が、本当の意味で自分自身の人生を始めるために。
彼女が導き出した結論では、それが叶うとは到底思えない。
だからこそ、俺は共犯者の一人として、彼女に苦言を呈さざるを得ない。
「流石に……、それはないんじゃないですか……」
「おやおや。石橋さんのみならず、荻原さんもご不満ですか?」
「……俺が言ったこと、覚えてますか?」
「はい、もちろん」
彼女はこちらが拍子抜けるほどの真顔で応える。
「いや、だったら……」
「……荻原さん。やはりあなたは勘違いしていますね」
面食らう俺を前に、彼女は両手を挙げ、やれやれと心の声が聞こえてきそうな程に呆れる素振りを見せた。
「クドいようですが、お聞きします。荻原さん、我が社の理念は何ですか?」
「……世の中の不幸のバランスを取ること、です」
「はい、その通り。ですが、荻原さん。あなたはバランスを取るなどと称して、依頼人の人生そのものに口出ししようとしているのではないですか? まるで、『そうあって欲しい』と、あなた自身の理想を押し付けるかのように」
咄嗟に。返す言葉が見当たらなかった。
一瞬生じた俺の迷いに付け入るように、彼女は次々に言葉を並べ立てる。
「分かりますよ。それが、あなたの破滅的な優しさ故のものであることも。ですが、それは本来危険なことなんです。荻原さんご自身も分かっておられるはずです。だから、あなたはこれまで『諦観』を選んできた。違いますか?」
「っ!? そ、それとこれとは話が別ですっ! 俺のはただの一般論だ! 第一そんなの……、今更じゃないですか……。それに……、それを言うならアンタもでしょうが!」
「違います」
田沼さんは食い気味に言い放つ。
「私と荻原さんとでは根本的に違います。少なくとも今のところは、ですが……。荻原さん。あなたはまだ、用意されたルールの中で戦おうとしている。本気で世界を変えるのなら、そんな小手先は通用しない。私たちがルールそのものを作る側に回らなければなりません。だから私は今、彼らと決別をしたのです。誰のためでもなく、私自身のために」
「世界を変えるって……。一体、何の話ですか? 今はそんな話、してないでしょうが……」
「そうですね。おっしゃる通り……。まずは石橋さんの問題を片付けなければなりません」
そう言って彼女は、再度石橋に向き直った。
「さて、石橋さん。結果としてこうなりましたが、ここまでは飽くまで土方元常務の依頼の領分となります。ここから先は石橋さん、あなた自身が向き合うべき問題です。もう、お気付きなんですよね? お母様のこと」
彼女がそう問いかけると、石橋はしばらく口を噤む。
そして、覚悟を決めるように深く息を吐いた後、ゆっくりと口を開く。
「……はい。母は、既に亡くなっていると思います」
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