劣等②

「10歳くらいからでした。何となく、学校の授業が難しいなって思い始めたのは……。その辺りから、自分が周りよりも劣ってるっていうか、色んな人の足を引っ張ってるように感じるようになって……」


 芙莉華さんは、田沼さんに促されるまま、ぽつりぽつりと話し始めた。


 彼女のは、小学生の頃。

 当時彼女は、母親の言いつけ通り、中学受験のための準備を進めていた。

 だが4年生を迎えた辺りで、壁に直面する。

 具体的には、特に漢字に苦戦したと言う。

 通常、教育現場では『10歳の壁』という言葉もある通り、特段珍しいことでもないらしいが、中学受験を控えていた彼女にとっては致命的だった。

 そこから彼女は努力を重ねるも、一向に成果は見られず、周囲から徐々に取り残されていく。

 中学受験にも、敢え無く失敗してしまう。

 

 覚えられない。

 瞬間的に覚えたとしても、身についていかない。

 そんな彼女の姿を見て、母親の態度も徐々に変容していった。

 

 その後、中学・高校と、彼女が抱える問題は解消されないまま、学生生活は終わる。

 高校卒業後はアパレル倉庫で働き始めるが、そこでも彼女の苦難は続く。

 マニュアルに書かれた漢字が読めず、またそのことも周囲には理解されなかった。

 そんな事情もあり、彼女は仕事でミスを重ねてしまう。

 平身低頭謝る彼女を前に、センター長はこう浴びせた。


 『頑張るって便利な言葉だな』、と。


 その一言は、彼女を壊すのには十分だった。

 全ての自信を喪失した彼女は、会社を退職し、徐々に引きこもるようになってしまう。


 『境界知能』

 芙莉華さんの話を聞いて、真っ先に思い浮かんだ言葉だ。

 彼女の場合、日常生活でのコミュニケーションには特段問題がなかったので、誰にも気付いてもらえなかったのだろう。

 事実、俺自身も気付かなかった。

 いや……。

 むしろ、彼女は能動的に自分の異質さを隠そうとしていたフシすらある。

 特に彼女は、俺の境遇を知っていた。

 だからこそ、余計な心配は掛けまいと、その苦悩を隠し続けたのだろう。

 その、心優しい性格ゆえに。


「私さ。ずっと自分は普通だって思ってた。いや。薄々違うって気が付いてたけど、無理矢理そう思い込もうとしてた。サトルくん。ウチのお母さん、知ってるでしょ?」

「はい。まぁ、THE・教育ママって感じでしたかね……」


 俺がそう言うと、彼女は黙って頷く。


「そうだね。でも私が中学受験失敗してからは、何か急に優しくなっちゃってさ……。ていうか、何も言われなくなっちゃった。何か、すっかり私に興味失くしちゃったみたい! その後はずっと妹に付きっきりっでさ……。まぁ妹には悪いけど、やっと解放されたってヤツ?」


里津華りっか……、ですか?」


 彼女には3つ下に妹が居る。

 小さい頃はよく3人で遊んでいたが、最近では芙莉華さん同様、その姿を見かけていない。


「そうそう! 有名私大の特待生! 何かもう少ししたら留学するみたいだよ? ホント……、どうしてこうも出来が違うんだろうね!」


 芙莉華さんは、自嘲気味に笑いながら言った。

 『お前は好きに生きろ』

 彼女の母親の変化を、、そういったメッセージが込められていたのかもしれない。

 恐らく、だ。

 彼女の母親としても、色々と察した部分はあったのだろう。

 ただ……。

 親が寄せる、ある種の諦めや失望の眼差しには、子供は敏感だ。

 ましてや、そんな露骨な態度では、否が応でも伝わってしまう。

 

「それでさ……。最近になって、やっと気付いたんだよね。『あ、私って別にいなくても良かったのかな』って」


 知らなかった。

 彼女のそんな境遇も。

 ましてやそれに囚われ続け、自分を見失っていたことも。

 腐っても幼馴染という立場にいながら、俺は彼女の何を見ていたのだろうか。


「すみません……。芙莉華さんがそんなに悩んでいたなんて……。俺、知りませんでした」


 謝って何になる。10年遅い。

 第一、彼女にとって不誠実だ。

 それが分かっていながらも、俺は何故か謝らずには居られなかった。

 そんな卑怯極まりない俺に向ける彼女の困ったような笑みは、昔のままだった。


「何でキミが謝るの? キミはキミでその、さ……、色々だったんだしさ。私に構ってる余裕なんてなかったこと、知ってるよ」


 彼女のどこかあどけなさの残る笑顔に、救われている自分に気付く。

 どうやら俺は、いつまで経っても彼女の世話になりっぱなしのようだ。

 そんな俺を構うことなく、田沼さんは顎に指を添え、何やら思考に耽っていた。


「なるほど……。話をまとめると、山片さんは自分を虐げてきた社会に対して報復がしたい、と……」

「だから、どうしてそうなるんですか……」

「そ、そんなっ! ほ、報復なんてっ! 私はただ、ココへ来たら私みたいな出来損ないでもになれるって聞いて……」

「一体、どういう触れ込みで営業してるんすかね……。マジでまた警察沙汰になりますよ?」

「心配御無用! 何のために荻原さんをお呼びしたと思ってるんですか!」


 入社1時間に満たない新人に全幅の信頼を寄せてくれるのはいいが、俺にとってはその期待、重荷でしかない。


「で、でも何かのヒントになったら良いかなって思ってるのはホントで……。このままじゃ駄目だって分かってるから……」

「ふふ。冗談ですよ。心配に及ばずとも、私たちは復讐代行業者のようなものではありません。弊社の役割は飽くまで、なのですから」

「は、はぁ……」


 田沼さんはそう言うが、実態が把握出来ていない現状ではどうしても詭弁にしか聞こえない。

 芙莉華さんにしても、実際のところ何を考えているかなど分からない。

 今の今まで、彼女が抱えていた苦悩にすら気付くことが出来なかった俺などでは、到底分かるまい。


 彼女は今。

 一体、何を望んでいるのだろうか。


「さて、荻原さん。いよいよ、ここからが我々にとっての腕の見せ所ですよ!」

「いや、いきなりそう言われても……」

「あ、あのさ……、サトルくんはどうして、ココにいるの?」


 芙莉華さんは俺と田沼さんのやりとりを前に、当然の疑問を投げかけてくる。


「い、いや……。詳しく話すと長くなるんですが、ココでバイトしてます……。つっても、今日が初日なんですけど」

「そ、そっか。そうなんだ……」


 何かを察したのか、彼女はそれ以上詮索してくることはなかった。


「そ、そう言えばさ。サトルくん。は……、どうしてる、のかな?」


 彼女が俺のである以上、避けては通れない話題。

 そんなことは分かりきっていたはずだった。

 でも……。


「どうもこうも……。ですよ。当たり前じゃないですか……」


 ただ、そうであったとしても、誰かに踏み込ませるまでには消化しきれていないようだ。

 だから、俺は半ば八つ当たりに近いカタチで、彼女の問いに応えることしか出来なかった。

 そんな俺の非礼に対して、芙莉華さんはまるでこの世の終わりかのように眉尻を下げ、『そっか』と消え入りそうな声で呟く。


「荻原さん。お母さんが、どうされましたか?」


 彼女とは対照的に、田沼さんは躊躇なく踏み込んでくる。

 

「別に……。お気になさらず。ちょっとした特殊事情を抱えてるってだけなんで……」

「ほぅ」


 田沼さんは、俺の応えに意味深に呟く。

 相変わらず読めない人だ。

 

「……いいでしょう! それでは、これから鑑定のノウハウを伝授致しましょう!」

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