信用

「優秀とは思っていたが、まさかここまでとはなー。満点とは流石だ。セニョール。とりあえずはだ!」


 その後、特段俺と新井の間に何かがあったわけではない。

 というより、あるわけがない。

 彼女とは学部も学科も違う。

 授業も、教養科目のスペイン語の他に同じものはなく、ソレ以外のプライベートで会う機会も当然のことながら皆無だ。

 そもそも、こちらはその限り少ないプライベートの時間すら、金稼ぎに捧げているのだ。

 

 とは言え、あんな事情を聞いた後だ。

 学力云々はともかく、金銭面という一点で言えばシンパシーを感じるからこそ、気にはなる。

 親心とも違うが、どこか押し付けがましい親切心のようなものに支配され、『2週間後の約束』のことなど、すっかり忘却の彼方へ放逐しかけた頃だった。

 突如として、その時は訪れる。

 スペイン語講師の神戸が発した『今回の小テスト一位はセニョール萩原だ!』の一言に、俺は一気に現実に引き戻された。

 まさかとは思い、条件反射的にで知られる新井に視線を向けたが、当の本人はウィンク顔で舌を出し、『計画通り』と言わんばかりの憎たらしい笑みを浮かべていた。

 調整しやがったな、コイツ……。


 しかし、既に起きてしまった不幸に対して、いつまでも恨み節を唱えたところで何も生まない。

 今こそ、お得意の諦観を発揮する時だ。

 そう思い、こうしてテスト返却日当日に開催されたに、着の身着のまま参加している。

 案内された大学近くのスペインバルは、何でも神戸の語学留学時代の友人が経営していて、特別割引価格とやらで利用できらしい。

 ……ちなみに『サルー』は、スペイン語で『乾杯』だ。


「いやぁ! 先生、萩原と飲めて嬉しいぞ! だ!」


 スペイン語で『嬉しい』な……。

 開幕早々、ほぼ出来上がった状態の神戸は、ご機嫌にグラスを傾けて話す。


 やはり、苦手だ。

 スペイン被れの気の良い中年キャラを気取っているのかは知らないが、中途半端にスペイン語を交えながら分かりづらい話をする辺りは、どこぞの芸能人の顔が頭にチラつき、どうにもイライラが助長される。

 果たして、これはに分類されるのだろうか。


「でもなぁ。先生心配もしてるんだぞ! お前はどうもイロイロと溜め込むタイプに見えるからな〜。萩原には、悩みとか話せる友達はいないのか?」


 俺は小学生かっ!

 人のセンシティブな部分を、容赦なく土足で蹂躙してくる神戸には半ば呆れつつも、その物珍しさからかおかしな種類の感動すら覚えている。

 今日日、これだけ無神経に学生と接していて、苦情の一つも来ない方が不思議だ。


「そ、そっすね……。今んとこ、いないっすね」


 俺は『思う所』を必死に押し殺し、応える。


「お? そうなのか? でも、いつだったかアイツと歩いてなかったか? ほら! えーっと……、セニョリータ新井と! 俺はてっきりだと思ってたぞ〜!」


 神戸はニタニタと粘着質な笑顔で話す。

 どうしてこういう手合は、やたらと色恋沙汰に結びつけたがるのだろうか。

 もしくはスペイン風味を装えば、何を言っても許されるとでも思っているのか。


「アイツは……、そう言うんじゃないです。友達ってわけでもないですしね」

「なんだ違うのか。残念! まぁ大学じゃお前みたいなヤツも珍しくないか!」

「へ?」

「ん? どうした?」


 俺は気付けば、間の抜けた声を出していた。


「いや……、何か意外だったので……」

「意外? まぁよく分からんけど、別に珍しいことじゃないだろ。それこそ昼間は働いてる社会人の学生だっているんだからな。そういうのが、ハタチそこそこの奴らとヨロシクやれってのも、何か酷な話だろ? まぁそれに限らず、境遇の違う人間に分かったようなポーズ取られるのも、それはそれで腹立つしな!」


 神戸は、ほとんどキャラ崩壊に近いことを、平然と言って退けた。

 いや、そもそも神戸に対してのイメージそのものが、俺が勝手に植え付けたものだが。

 なんと言うか……、良い意味で裏切られた気分だ。


「でもな。先生、思うんだよ。別にお互い分かり合う必要はない。でも、一回話し合ってみると、違いは分かるだろ? 人と人とのコミュニケーションって、そういう違いを鮮明にする作業だと思うんだよ。それが分かれば、また新しい関係が築けるかもしれないしな!」


「……俺と他のヤツらが違う、とでも?」


「それはお前が一番分かってることだろ? ……まぁ、つってもムリヤリ歩み寄れとまではいわねぇよ。それこそ大学の人間関係なんてサッパリしたもんだからな。まぁアレだな! 萩原は他の奴らよりちょっとだけってことかっ!」


 神戸はそう言いながら、手持ちのシェリー酒を一気に呷った。

 裏表がない。

 いや。もっと正確に言えばこの神戸という男には、そもそも裏に追いやる必要がある人格を持っていないのだろう。

 そう思えば、少しは信用に値する人物なのかもしれないと、俺は心の中で買い被った。


「……大人が何を差すのかは分かりませんが、そんなことはないと思いますけどね。まぁ強いて言うなら、俺はもしかしたら友達に求める条件が高いのかもしれません」

「おぉ、そうなのか! ちなみにどんなヤツとなら友達になれそうなんだ?」

「そうですね……。最低限、正しい名前を覚えてくれる人、ですかね?」


 深い意味はない。

 単純に、これまでのに対する、ちょっとした意趣返しのようなものだ。

 我ながら、少し陰湿だとは思うが。


「ははは! 中々面白いこと言うなー! セニョールは!」


 付き合ってみることで、初めて違いが鮮明になる、か。

 やはり神戸は神戸だ。

 俺にとっては未来永劫、苦手な人物であることに変わりはない。

 それが分かっただけでも、収穫があったと考えるべきだろう。

 そんなことを思いながら、俺はこのが過ぎ去るのをただひたすらに待った。

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