翻弄

 田沼 茅冴を全面的に信用したわけではない。

 ただ俺としては、彼女の話に思うところがあったのも確かだ。

 手段や過程はどうあれ、世の中のバランスを取ることで俺のような最底辺をのたうち回る人間が、今よりマシなになれる可能性がある。

 そう錯覚し得るだけの魔力が、彼女の言葉にはあった。


「まぁさ。最終的にはアンタの好きにしたら良いと思うよ」


 オフィスを出るなり、新井はをしてくる。


「……随分、あっさりしてんな。さっきはあんなに泣きついてきたってのによ」

「そりゃあね。アンタの人生だし。『素養のありそうなヤツを』っていうアタシの目的は一応達成されたんだし、後はアンタ次第っしょ」


 彼女からそう言われ、俺はふと思い出す。

 新井は、田沼さんに半ば脅されて俺を引っ張りこんできたと言っていた。

 そうだ。俺は彼女から肝心なことを聞いていない。


「……そういや、田沼さんへの借りってなんだよ?」

「あぁアレ? 実はさ。先週、友達に誘われて合コン行ったんだよね。ほら! 駅前の『築地・太平洋』って居酒屋!」

「俺のバイト先じゃねぇか……。だから知ってやがったのか」

「そうそう! あっ、そうだ! あれもっかい、やってよ! 『はい、よろこんでー』ってヤツ!」

「……また店に来たらやってやるよ。、な」

「あはは! ごめんごめん! 言ってみただけ! まぁその後なんだけどさ……。実はそこに来てたヤツにホテルに連れ込まれそうになったんだよね……。しかも、結構!」


 新井は冗談めいた雰囲気で話すが、その引き釣った笑顔からは、薄っすらと恐怖の色が滲み出ている。

 彼女が目指す幸せが何なのかは、分からない。

 だがソレにこだわるあまり、虚勢を張るようでは先が思いやられる。


「そこで、たまたま通りがかったチサさんが助けてくれたって感じ。だからまぁ……、そん時の借り? みたいな?」


「そうか……」


「……そん時はホッとしたし、助けてくれたチサさんには感謝してるんだけどさ。後からすごい虚しくなっちゃったんだよね……。アタシ何してんだろって。あれ? そういやウチの話ってしたっけ?」


「母子家庭、とだけは聞いた」


「そっか。まぁ言っちゃうとさ。ウチ、ずっと生活保護もらってたんだよね……。引いた?」


「アホかっ! むしろそれを聞いて引くヤツを、俺は心の底から軽蔑する」


 俺は、つい食い気味に反応してしまう。

 案の定、新井は酷く狼狽した様子で言葉を失くしていた。


「……んだよ?」


「い、いやっ。アンタってそういうの嫌いだと思ってたから。ほら。さっき教室に居たヤツら全員見下してるって言ってたじゃん!」


「んなこと言ってねぇだろ……。俺はどんだけ拗らせてんだ。それとこれとは全く違う次元の話だろうが。むしろ俺としちゃあ生活保護は権利どころか、義務とすら思ってるよ。ただでさえ捕捉率が低くて、毎年死ななくてもいい人間が何人も死んでんだからな」


「……ありがと。アンタみたいなヤツにそう言ってもらえるとなんか安心するわ。実はさ。一回、友達にも話したんだけどさ。それから露骨に距離取られちゃって……。口では『大変そうだね』とか、言ってはくれたんだけどね」


 実際、新井の話は本当のところだろう。

 『権利』だとか崇高なことを言っていて、その実どこかで多くの人間が差別意識を持っている。

 挙げ句の果てには、『税金で養っている』などと、身の程知らずな自意識に支配されるようになるのだ。


「母子家庭ってのもさ。元々ウチの母親が不倫して出ていったみたいなんよ。んでもって、その不倫相手の男ともスグに別れてさ。そっからはずっとって感じ? ウチの母親がまぁまぁって言った意味、何となく分かったしょ?」」


「あぁ。なんつぅか……。翻弄されてるな」


「うん。そうかも……。だから大学入れた時はすごく嬉しかった。やっとになれるって……。母親とは世帯分離したから、私の分の扶助はもうもらってないしね。自分のお金は自分でバイトして稼ぐ感覚ってーの? 普通のことなんだけど、それがすごい新鮮で楽しく感じたんだ。運良く、特待生にはなれたから、学費の心配はいらないしね! まぁまだは残ってるんだけど」


「頭良かったのかよ……。つーかスゲェな、お前」

 

「でもそういうことがあるとさ……。それも、まやかしだったのかなって思っちゃって。アタシにはすら荷が重いのかなって」


「……人並みとか、普通とか俺にもよく分からん。ただ俺からすると、ぱっと見お前もの女子大生なんだけどな」


「あぁコレ? 全部ファストファッション!」


 俺がそれとなく送った視線に気付いた彼女は、両腕を広げて得意げに笑う。


「これでも一通り勉強したんだよ? ファッション誌とか立ち読みしたりしてさ。でもね……。やっぱり分かる子には分かっちゃう。所詮、アタシのなんて急ごしらえのハリボテなんだよ。だからアタシ、知りたいんだ。自分にとっての本当の幸せって、何か……」


 迷いなくそう言い切る新井を前に、俺はどこか後ろめたい気分になる。

 彼女は生まれた瞬間から、気づかぬ内に周囲から後ろ指を差されていた。

 だからこそ、彼女なりにを追求したのだろう。

 だが、社会はそれを許してくれなかった。


 つくづく、後悔してしまう。

 俺は、新井のことを何も知らなかった。

 彼女があっけらかんと話すその裏には、壮絶な苦労があったことは想像に難くない。 

 事実、彼女は未だにを抱えていると言っていた。


「だからさ。チサさんから『幸せは定義が困難だから、人は他人に分かりやすい不幸を求める』って聞いて、何か不思議と納得しちゃったんだよね! まぁかと言って、それに全面的に賛同できるかって言われたら、そうでもないんだけどさ! アタシも自分の幸せのために、誰かの不幸を願うようになったりしたら嫌だなって思うし……」


 そう、はにかみながら話す新井を見て、確信した。

 彼女はまだ期待している。

 この殺伐とした社会の緊張が、少しでも解けることを。

 例え、こちらから歩み寄った世界に裏切られたとしても。


「そうだな……。まぁ俺としては2週間後にあの人に何されるのか、今から戦慄してるよ。お前も見ただろ? あの人の薄ら寒い笑顔。この世のものとは思えなかったわ」

「あぁそういやそういう話だったね! まぁでも流石に人道に反するようなことまでは……、いや可能性あるな。チサさんなら」

「不安を煽るなよ……」

「あはは! ごめんごめん!」

「ったく……」


 取るに足りない。

 まさにそんな感じだ。

 俺は直近に存在するを憂いつつ、住宅街を後にした。


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