第19話 未知という名の獣

「食べたら急に足が速くなったんだけど、ガソリンがドーピングだったりしたかな!」


「いや、そんなはず……ちょっとまて」


 否定しかけてある可能性に気付く。

 ゴブリンはスライムの液胞をまるごと呑み込んでいた。

 あの食性が魔物共通のものだったら?

 スライムの排出物がアブラムシからでる甘い蜜のようなものだとしたら、たった今したことは魔物に撒き餌をまいたようなものだろう。


「リクト、もしかして逆効果だった?」


 カノも同じ可能性に気付いたんだろう。気丈に冷静さを保っているが、顔には不安の色がにじんでいる。


「否定は出来ないけど、やってしまったものは仕方ない。けど、それを検証するのは後でもできる」


 カノの不安を拭うようにニヤリと笑いかける。これは別に強がりじゃない。状況が既に好転していたからだ。

 イノシシに追いつかれないように加減しながらつま先でブレーキをかけ、緩いカーブを曲がる。

 これまで貯まった鬱屈を晴らすように強くアクセルを踏み込むと、そこには冬枯れした草原が広がった。


「やった、抜けた!」


 カノの歓声を聞きながら二車線道路に合流し、順調にアクセルを踏み込む。

 バックミラーごしにイノシシが遠ざかっていくのを確認する。ひとまずの危機は去ったといえるだろう。


 けれど、まだ追いかけてくる以上問題は解決していない。

 カノが道の先に見える鳥居をゆびさした。


「あれがくさびら神社?」


 そう、この道路の左側にある常緑樹の森に映える朱色の鳥居が神社への入り口。

 今こうしている間にも法定速度をとっくに超えてさらに加速する車はぐんぐん鳥居に近づいている。

 そして離れていてもイノシシの群れはあいかわらずついてきている。


「ああ。でもいったん通り過ぎる。イノシシをまいた後に戻ってこよう」


 そういって後ろに親指を向けた。


「だね。ピンチは切り抜けたんだからゆっくりいこうか」


 後ろを向いて理解したカノもため息をついてシートに深く座り直した。

 そしてブレーキを踏むことなく、鳥居のとなりを抜けるためにアクセルを踏んだ。


「——え?」


 カノの戸惑う声。俺もおもわず目を見開いた。

 突如、先に見える森の木々の間から神社の鳥居ほどもある人型をした岩の塊が現れたからだ。


「岩の巨人⁉」


「ここに来て新しい魔物か!」


 まずい、もう脇道はない。逃げるなら今右に広がっている草原に乗り入れてイノシシを迂回するしかない。


「リクト、新手が!」


 カノの視線をたどり右後方を見ると、群れのものより巨大なイノシシが草原を踏み割るようにこちらをめがけて駆けてくるのが見えた。

 イノシシの魔物による挟み撃ちを回避して逆走? 無理だ。

 瞬時に判断し、正面に意識を集中させた。


「ゴーレムの横をすり抜けるしかない!」


 行く先のゴーレムはレスラーが立ち会うように手を前に待ち構えている。

 でも大きさは一車線をふさいでいるくらいだ。反対車線をギリギリ通れば——


 まだ、俺はファンタジーというそれまでの理がぶち壊れた世界への理解が甘かった。


「魔法⁉」


 ゴーレムが振り上げた両手の間に黒い球が現れた。

 身体中に一気に冷たい注射を打たれた錯覚におちいった。

 瞬間的に詰んだ事が理解出来てしまった。だから思わずこんな言葉を口走った。


「カノ衝撃に備えろ!」


 口にした言葉を呑み込むようにつよく歯を食いしばる。

 備えきれなかったどの口が言うのか。

 今まで色々なことに備えていた。それは父親と同じになりたくなかったからだ。

 詐欺師に騙され、気付いた時には抜け出せない深い淵にはまり、家族も助けられないままに泥水に沈んでいった哀れで無力な存在を正直すこし侮っていた。

 けれど、その資格が俺にあっただろうか?

 新発見、新しい現実というのは大きな理不尽だ。ファンタジーという理不尽を前にして、なすすべなく、まさに俺は敗北しようとしている。

 今父親の気持ちがようやくわかった気がした。


(父さんはどの段階でこの絶望を感じていたんだろうな)


 小さくつぶやいた直後、ゴーレムが手を振り下ろした。

 地面にたたき付けられた黒い球から一切の光を通さない漆黒の壁が広がっていく。

 いったいどんな魔法なのか予想もつかない。

 改めて思う。

 新しい現実は実験室のおとなしいネズミなんかじゃない。

 次の瞬間何をしてくるかわからない、間には粗末な木の柵すらない。

 大きな口を広げ一瞬でこちらを呑み込んでくる、未知という名の獣だった。

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