3-36.溺れた少女は藁をもつかむ

 信号が赤から青に変わったので、私たちは歩きはじめる。


「早く暖かくならないかなぁ……」

「そうですよね。ちょっと、今年の冬は寒いですよね。早く暖かくなるといいですね」

「あの……」


 横断歩道を渡り終えると、彼の歩みがゆっくりとしたものになり、ついには立ち止まってしまった。

 自然と私の足も止まる。


 彼の真剣な目が私をとらえる。

 その目をみたとたん、私の鼓動が速くなる。

 少し長めな沈黙の後、彼が意を決したかのように口を開いた。


「その……暖かくなったら……」





 暖かくなったら……。

 なんだったのだろうか。


 彼は誰?

 彼は何を私に言いたかったのだろうか?

 私は彼との約束を守ることができたのだろうか?

 思い出せない。


 思い出せないのだけど、彼の微笑みに意識を向けると、心がほのかに暖かくなる。


 ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、暖かくなったような気がする。


 暖かくて、柔らかな空気に包まれる。


 トクトクと聞こえる鼓動は、誰のものなのだろうか。





「レーシア! レーシア! しっかりしろ! 目を覚ませ!」


 ああ、私のお気に入り声優の菊山礼一郎ボイスが耳元で聞こえる。


「レーシア! レーシア!」


 ああ。やっぱり、菊山礼一郎はいい!


 でも、ちょっと、声が裏返っているのが気になる。

 いや、これもこれでいいんだけどね。

 贅沢を言って申し訳ないのだが、どうせ聞くのなら、もう少し低め声のパターンを聞きたかった……。


 いやっ!


 私はなにを気弱になっているんだ!

 しっかりしろ!


 菊山礼一郎の『腰砕け生低音ボイス』を、この耳でしかと聞くまで、死んでたまるかっ!


 こんなところであっけなくリタイアでは、腐女子の神様に顔向けができない!

 あきらめたらそこで物語は終了してしまう!

 この状態は、転生チート物語の序章すら終わってないんじゃないか?


 ゲームでいうところのチュートリアル終了一歩手前だ!


 キミツバには、まだまだ私のお気に入り声優さんたちがでているのにぃぃぃ!


 メインの攻略キャラは新人が多かったが、イベント時に追加されるアルティメットレアの声優さんたちはすごかった……ような記憶がある。

 たぶん、すごかったはずだ。

 そうじゃないと、あんなに課金するはずがない!


 断言しよう!


 前世の……キミツバの詳細を思い出せなくても、あたしにはわかる!

 一度死んで、再び死の淵に片足をツッコんだ腐女子の勘をなめるな!


 山村利幸、大保武士、寺山浩二、月江晴樹、上野亮、竹岡俊司、桜木義孝……最低でも、このライン! キャラの名前は思い出せないが、声優さんの名前はしっかりと覚えている!

 見逃せ……いや、聞き逃せない!


 絶対に、絶対に、私は負けてられない!

 これしきの試練は試練じゃない!

 泉に溺れたくらいで、なにをためらう!

 あたしは薄い本に溺れた女だ!


 冷えかけた心に、メラメラと炎が灯るのがわかる。


 冷たくこわばっていた全身に、体温が戻り、あたしはゆっくりと閉じていた瞼を開けた。


「レーシア!」

「お嬢様!」


 キミツバ攻略キャラがあたしを見ている。

 まだちょっと焦点がぼんやりして定まらないが、ふたりとも涙で顔が濡れていた。


 ふたりが泣いているのは、もしかして、あたしのせいなのだろうか?


「ライース兄様……カルティ……」


「レーシア!」

「お嬢様!」


 ライース兄様は安堵の表情を浮かべ、カルティはわあわあと泣き始めた。


 まだ寒い。

 身体は冷たいし、上手く動かせない。

 それでもあたしはがんばって、ふたりに笑顔を向けた。


 緊張しきっていたふたりの表情が安堵に緩む。

 あたしを抱きしめていたライース兄様が、さらに強くあたしを抱き寄せる。

 カルティは懐からハンカチを取り出すと、チュ――ンと音をたてて鼻をかむ。


 モブにすらなれなかったモブこと、フレーシア・アドルミデーラは『腐の力』で生還したのだ!


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