1-38.鏡の中少女
あたしはそろそろと天蓋つきのベッドから抜け出すと、目覚めたときに目にしたあの大きな鏡の前に向かう。
みんなが心配していただけあって、数歩歩いただけで、足ががくがく震えて、足取りがおぼつかない。
寝室からはでない方がよいだろう。
屋敷内をウロウロすると、息切れして倒れてしまいそうだ。
池に落ちた時に頭を打った傷みも、そして、この疲れもとてもリアルだった。
この世界の月はずっと満月で、しかも月が三つもある。
明かりがなくても夜はそこそこ明るい。
窓のカーテンは開けたままになっているので、明かりがなくても、安心して室内を歩き回れる。
夜にヒロインが攻略キャラとイチャイチャするために、夜の闇は少し明るめな設定になっている……というわけだ。
あたしは大きな鏡の前で腕を組むと、鏡に映った亜麻色の髪の少女を見つめた。
「さて……」
少女のあどけない声が、小さな口から漏れる。
「あたしは……誰なんだろう?」
鏡の中のあたしは、不思議そうに首をかしげている。
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前世のあたし。
辛うじて、二十代。
女性。
地方の田舎から、大学進学のために上京。
そのまま就活をして、現在は、都内のアパートに一人暮らし。
仕事は……う――ん、広告代理店の企画営業……だったかなぁ?
会社名は思い出せない。
後輩と新任の上司には足を引っ張られていたけど、クライアントとの関係は良好で、仕事が普通にできる女子だった。
趣味は……あれ。
あれだ!
イケメン二次元をこよなく愛し、イケボキャラにもろもろの金を注ぎ込み、アニメを見て、ゲームをプレイして……BがLoveするお話が大好物で、BがLoveしてなくても、イケメンがたくさんでてくるお話が超絶大好きで、それにどっぷりと浸っている……泣く子も黙る慎ましい腐女子だ。
学生時代は陸上部で、走るのが好きだったんだけど、働きだして、なんかお金とストレスが溜まったら、変な方向に走っちゃった……ってパターンだね。
思い出せないのは会社名や、あたしを困らす後輩や上司の名前だけではない。
あたし自身の名前もよく思い出せないでいた。
若干、趣味への振り幅が極端だったかもしれないけれど、ごくごく普通な……警察の前では背筋がぴしっと伸びる善良な一般市民だったと記憶している。
鏡の中のあたしは、現在、眉間にしわを寄せて考え込んでいる。
(……前世の名前を忘れてしまっていても、今世で生きていくにはなんら問題ないから……ま、いっか)
効率重視。
無駄で無意味なものはざっぱりと切り捨てる。
名前が思い出せないのなら、がんばって前世での最後の記憶とやらを探ってみる。
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あたしは、明日の企画会議に使うプレゼン資料を、終電間際まで作業していて、なんとか完成させた。
(うん、なんか、ぼんやりとだけど、思い出してきた。上司とか、後輩の顔はうっすら……へのへのもへじでしかないけど)
プリントアウトするのは忘れたけど、帰宅するために、駅の構内に駆けこんで……なんとか電車に乗ることができた。
そして、乗り換えのためにホームの階段を登ってたら、目の前にいた酔っ払いが、バランスを崩して、あたしの方に倒れてきたのだ。
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