1-39.前世のあたし

 あたしは反射的に酔っ払いを支えようとしたんだけど、支えきれずにあたしもそれに巻き込まれて……さらに、後ろにいたひとと一緒に、ひとまとめで階段から転落した……ところで、記憶は途絶えていた。


(あちゃ――。ひどい目にあったな――)


 他人事のような響きの独り言が漏れる。

 三人でもつれ合うようにして、階段から落ちたのだろう。

 仰向けでひっくり返って、後頭部を階段にぶつけた……と思う。


 あの高さから転がり落ちたのなら……打ちどころが悪ければ、死んだとしてもおかしくはない。

 生きていたとしても……かすり傷とかそういうレベルではないだろう。


 で、あたしは、電車の中でプレイしていた『キミツバ』の世界に転生した……という流れだ。


 夜の駅構内での三人がからんだ事故。

 ネットニュースくらいにはなっただろうか。

 近頃は驚くような事件が立て続けに起こっているから、酔っぱらいサラリーマンと疲れたOLと……もうひとりの巻き込まれてしまった不運なヒトが階段から転落した……なんて、ちっぽけな出来事だろう。


 田舎の母親は何度かあたしのアパートにやって来ていたので、部屋の状態は知っているが、あのタペストリーは知らない。


 しかも、価値などわかるはずもないから……燃えるゴミとして処分されてそうだ。


 やりかけの仕事よりも、なによりも、パソコンとか、スマホの中身とか、クローゼットの奥に隠している薄い本とか……見られると、恥ずかしいものがいっぱいそのままで残っているのがいたたまれない。


(お母さん、娘の部屋を片付けて泣くだろうな……)


 貯金は『キミツバ』に搾り取られたけど、一応は残っている。

 生命保険にも加入したままになっているし、帰宅途中の事故だから、労災が適応されるんじゃないだろうか。

 葬式代とかは、両親に迷惑をかけることなく自前の金でできると思う。


 色々な意味で、泣かせてしまいそうだった。

 ごめんなさい、と心のなかで謝るが、残念ながら母親の顔もうっすらとしか思い出せない。


 朝イチで使用するプレゼンの資料が、同僚の手によって無事にプリントアウトされたかなど、もう、どうでもいいことだった。


 だって、死んで別の世界に転生してしまった。と断言してもいいだろう。

 死んだ九割。

 意識不明もしくは夢オチが一割じゃないかな。


 いや、もう、死んじゃったと思うことにしよう。


 死んでしまったモブのあたしには、どうしようもできない。


 戻れない前世のことに、いつまでもこだわっていてもしかたがない。


 こういうときは、スパッと切り替えが大事だ。


 限定生産のタペストリーはきっぱりあきらめ、今世の生ライースと真剣に向き合うことを考えよう。


 推しキャラのいる世界に転生できたのは、嬉しい……。


 普通であれば、嬉しいことなのかもしれないが、ちょっとだけ微妙だった。


 ライース・アドルミデーラには悪いが、どうせ、転生するのなら、もっとぬるい、楽勝なゲームの世界の方がよかった……。


 というのが、嘘偽りのない本音だ。


 それこそ、『キミツバ』では、右手をだすか、左手をだすか、という選択肢が、そのまま、生きるか、死ぬかに直結する。


 そのシステムがこの世界にも適応されていたら、選択肢をあやまって、下手に動いたら、すぐに死んでしまう。


 困ったことに、前世では複数アカウントでゲームを嫌というほどやり込み、ファンの交流サイトではそこそこ名の知れたヘビーユーザーだったんだけど、肝心の選択肢が思い出せない。


 ダメダメじゃん……。



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