1-3.黒髪の青年

 あたしが動くたびに、しなやかな枝が怖いくらいにギシギシと揺れる。


 すごく怖い。


 それでも、あたしは、子猫を助けたくて、そろり、そろり、と子猫の方に近づいていく。


「いいこだから……。いいこだから……。暴れずに、そのまま、じっとしているのよ……」


 手が届くギリギリのところまで近づくと、あたしはゆっくりと片手……ではなく、両手を伸ばした。


 身体のバランスが崩れる?


 そんなことに迷っている場合ではない。あたしは、子猫を素早く抱き上げた。


 抱かれることになれていない子猫は、少しだけ抵抗したが、あたしの胸の中におさまると、静かになった。


「やった!」

「おっ、お嬢様――っ!」


 あたしの叫び声と、侍従の悲鳴が重なる。


 メリメリと音がして、視界がゆっくりと下がっていく。


(ああ……やばい!)


 やばいけど、子どものあたしにはどうすることもできない。


 そして、いきなりの落下開始。


 そのまま景色がくるりと反転し、青い夏っぽい空が見えた。


 自分がどういう体勢になっているのか、全く想像できなかったが、自分の身にこれから起こることはわかった。


「あ……これから、あたし、木から落ちちゃうんだ……」


 いや、正確には、すでに木から落ちているのだが、そんなこと、子どもにはわかるわけない。


 あたしは反射的に目を閉じ、子猫をギュッと抱きしめる。


 なんだが、時間がゆっくりと動いているような錯覚にとらわれる。


「おじょうさま――っ!」

「レーシア!」


 侍従の他に、別の声が聞こえた。


 名前を呼ばれて、閉じていた目を開く。


 よく、そんな時間があるもんだ、とあたしは驚く。



 世界が止まって見えた。



 いや、世界はちゃんと動いている。



 だけど……。



 まるで、あたしをとりまく周囲の時間だけが切り離され、ゆっくりと、緩慢に流れているような錯覚に陥る。


 これって、話にきく、死の直前に感じる時間の流れというものだろうか。


 猫を抱いたあたしがゆっくりと、池に向って落下していくなか……全速力でこちらに駆け寄ってくる黒髪の青年の姿が見えた。


 黒髪の青年は、邪魔な低木を軽々と飛び越え、ものすごいスピードで走りながら、池の方へと一直線に向かってくる。


 その途中で、肩から下げていたカバンを勢いよく投げ捨てる。


 さらには、旅人が身につけている日よけの外套を脱ぎ捨て、腰の剣をベルトから外す。ポーチがついているベルトも外して、まとめて地面に投げ捨てる。


 首元を飾っているスカーフもしゅるりと外し、上着を脱ぎ、鍛えられた上半身が見えそうになったとき……。


 バシャン。

 ドボン。


 あたしは、折れた枝と一緒に、子猫もろとも水中に落ちていた。


 **********


 池に落ちると同時に、無数の泡に包まれる。


 視界が泡だらけになる。


 あたしは、木から落下した勢いのまま、水底にまで一気に落ちた。


 そして「ごちん」と頭に鈍い衝撃が走る。


 池の中にある岩にでも頭をぶつけたのだろう。


 衝撃で目から火花が飛び散る。


 世界がチカチカする。


 驚いた拍子に、鼻と口から空気が一気に抜けだした。


 そして、鼻から、開いた口から、水がガボガボと勢いよく入ってくる。



***********

お読みいただきありがとうございます。

――物語の小物――

『黒髪の青年のカバン』

https://kakuyomu.jp/users/morikurenorikure/news/16818023213729158725


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