第七章 たたかう息子

第1話 他人の息子

 今度はダッシュして受話器を奪取。ノイバスティが出る前に「はい、もしもし」と口早にこたえる。


「あの、守くんのお母様でしょうか? 私、タニグチと申します。同じクラスのタニグチハルトの母です」


 タニグチ。

 谷口……。

 クラス全員の名前など把握していないからまったくピンと来ていないが、連絡網を見て電話をくれたのだろう。


「あ、はい、いつもお世話になっております、守の母です」


 同級生の親御さんとの挨拶ってこれでいいんだっけ。

 急なことで頭がパニックになりながらも、電話の側に置いてあったファイルをめくり、守の連絡網を上から順に辿る。


「いきなりお電話をさしあげまして、すみません。あの、お時間よろしいでしょうか」


 違う、これは去年の連絡網だ。

 今年のは、ああそうだった、まだちゃんとファイルに入れていなくて、ぺらっと挟んだままだった。

 後でと思ったまま使うこともなかったから何か月も放置だ。だからこういうのは『後で』にせずその時やっておくべきだったと、いやいや今はそんなことはいい。

 谷口、谷口……、あった、谷口大翔はるとくんだ。


「あ、はい、大丈夫です!」


 とても丁寧なだけに、こちらも失礼があってはならないと余計に焦る。

 結果、「あ、はい」ばかり繰り返している。


「ありがとうございます。あの、私も先程息子から事実確認をしたばかりなんですけど、実は昨日、小学校から仲よくさせていただいている、ユウキくんのお母様から連絡をいただきまして――」


 登場人物が増えた。ユウキくんは……、あった。


「高橋優希くんですか?」

「はい、そうです。今日学校に来た守くんは顔に痣ができていたそうで、その優希くんが心配して、親御さんに話してくれて、それで、あの――、あの、ごめんなさい、慌てて電話をしてしまったので、うまくまとまっていなくて。わかりにくかったら教えてください」


 谷口さんの声はやや上ずっていて、緊張しながら話しているのがわかった。

 こちらまで伝染しそうだ。

 そこまで深刻な話なのかと、自然と覚悟を決めながら話を促す。


「いえいえ、大丈夫ですので。それで、何をお聞きになったんですか?」

「はい。実は、うちの大翔が、守くんを殴ってしまったのだそうで――」


 殴った。

 やはりパーではなくてグーか。

 そうよね。でなければあんな風に痣にはならないだろう。

 どこか納得しながらも、その衝撃に胸がばくばくと音を立てる。


「先ほど大翔本人からも何があったか話を聞きました。本当に申し訳ありませんでした」

「あ……、そうでしたか」


 思わぬところから突然真実が明かされ、私はうまく言葉を紡げなかった。


「実はそれだけではなくて。以前から、大翔が先導して守くんをからかったり、体育祭で負けたのを守くんのせいにして、みんなで取り囲んで責め立てたり、いじめのようなことを――いえ、大翔から話を聞いて、私はいじめだと思いました。本当に、申し訳ありません」


 やはりそういうことがあったのか。

 以前みんなに囲まれたと言っていたのは、体育祭のことなのだろう。


 横っ面を殴られたような衝撃だった。

 それはどれだけ辛かったことか。

 トロいといじられることだって辛いだろうが、何人もの相手から責め立てられるなんて。

 そもそも競技なのだから必ずどちらかは負ける。

 人は誰しも得手不得手があり、団体競技においてもクラス全員の能力が同じわけはなく、練習したとて上手くできる子もいればできない子もいるのは自然なことだ。

 だからこそそれぞれが助け合ってよい成績を目指すのものなのではないか。


 ”トロいことは悪なのか”

 ノイバスティの問いが頭に蘇る。

 勝てなかったことは残念なことだし、守が足を引っ張ってしまったのも事実なのかもしれない。

 けれど負けた原因を一人のせいにされ、集団で殊更責められるなんて、あっていいことだとは思えない。

 能力にも体力にも個人差がある以上は、どんなに頑張ったって誰かは『一番下手』や『一番遅い』ことになるのだから。

 それぞれの苦手を理解し、その手を引き、全体で高め合える。そんな関係もこの世には確かにあるのに、誰かに比べてできないことを責めて終わりにするなんて、ただひたすらに後味の悪い競技にしかならなかったことだろう。


「これまで気づきもせず、ずっと守くんに辛い思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。親バカとしか言いようがありませんが、まさか大翔がそんなことをするだなんて信じられない思いで、私自身もまだ衝撃が抜けきっていなくて……」


 谷口さんの声は申し訳なさと共に戸惑いの色が濃く、その気持ちは共感できた。

 しかしすぐに慌てたように言葉が続けられた。


「あ、その、言い訳をするつもりではないんです。ただ、大翔自身が小学生の頃にいじめられていたものですから、その痛みがわかるのに、そんなことをするだなんて思ってもみなくて」

「え……? 大翔くんが?」

「はい。背が小さくて、力も弱かったので、からかいがエスカレートして……。その時に先生に助けを求めても、『泣いてないでしっかり「やめて!」って言わないと、いつまでも同じことの繰り返しだぞ』と言われたそうで。それも今日話した時に初めて聞いたくらいで、親として何も聞いてやれず、何もしてやれなかったのが悪いのですが。その時大翔は、大人は守ってくれない、弱いのが悪いんだと思ってしまったんだそうです」


 先生は、いくら大人が相手を諫めたところで、本人がいじめられないように強くならなければ、また違う人からも同じ目に遭うぞと言いたかったのかもしれない。

 言っていることはわからなくはない。現実問題、いじめる人というのは大人になってもいるのだから。

 だがその言葉は、いじめられる側にも問題があると聞こえてしまう。「やめて」と言える人ばかりでもない。

 もちろん、前後がある話だろうし、そこだけ切り出されているからそう聞こえるだけなのかもしれない。

 その先生はきちんと相手を諭した上で、大翔くんにも助言のつもりで付け加えたのかもしれない。

 だが結局大翔くんが受け取ったことは、大翔くんの中では真実だ。


「それで中学校に入ったらやっぱり背が低いほうで。それまで最高学年で、自分より小さい子たちなんてたくさんいたから目立たなかったのが、先輩たちがたくさんいる中だと殊更委縮してしまったんだと思います。初めて会った違う学校から来た子子たちも大きく見えて、怖くなってしまって……。またいじめられるんじゃないかと、今度はそうならないように自分でなんとかしなければならないと考えたのだそうで……」


 谷口さんは言いづらそうに言葉を止めると、小さく息を吸って続けた。


「それで、自分が攻撃する側に回れば攻撃されないと思い、誰かいないかと探したそうです」


 自分がいじめられていた時は誰も助けてくれず、いじめている奴はいじめられることがなかった。だからいじめたほうが勝ちだ。そう思ったのだろう。

 そして自分がされたように、相手に弱いところがあれば攻撃してもいいのだと考えた。

 だって、自分がしなくてもどうせ誰かがやるのだから。

 そうして自分なりに理論武装し、「自分がされて嫌だったことは他人にしない」などという幼少の頃から繰り返されて来たであろう道徳を論破したつもりになり、息子を攻撃することにしたのだろう。


 話はわかった。しかし、何と答えればいいのかわからないまま黙り込む私に、谷口さんは続けた。


「本当に、なんでそんなことをって、意味がわからないですよね……。私、あの子と今日話して、どうしてこんなに考え方が歪んでしまったんだろうって、絶望しました。なぜこんなに自分に都合のいいことだけを考えるようになってしまったんだろう。『人が困ることはしない』、『人にやさしく』、そう育ててきたはずなのに。それなのに、気づいたらこんなことを考えているなんて」


 中学生なんだからもっと手を放すべきだとか、いやまだ未成熟なのだからしっかり見守らなければとか、私もさんざん悩んで来た通り、中学生というのは小学生よりも大人で、だけどやっぱりまだ子どもだ。

 自分の認知が歪んでいることにも気付かないまま、言葉としてだけ学んで来た道徳は自分に当てはまらないと素通りしてしまい、がむしゃらに走り出してしまったのは未成熟ゆえ。

 確かにどこかで大人がそれに気づいて道を正せればよかったのだろうが、そううまくいくことばかりではないことは私もよくわかっている。

 それは親の怠慢だとか向き合っていないだとかそういうことではなく、完璧な親はいないという言葉があるように、すり抜けていってしまうものは確かにあるのだ。

 

「親として不甲斐ないです。いつの間にかあの子はねじ曲がってしまった。もう修復不可能かもしれません……」


 思いを吐き出すように小さく呟かれた言葉に、しかし私は反射的に口を開いていた。


「まだ『今』しか見ていないのに、何故もう無理だとわかるんですか? まだあなたは何もやっていないでしょう。これからじゃないんですか?」


 親が諦めたら子どもはどうなるのかと言いたかったが、堪えた。

 親を責めて追い詰めてもいいことはない。

 慌てて電話をかけたと言った通り、まだこの人も自分の中で整理がついていないのだろう。

 あまりの衝撃に耐えきれず、投げ出したくなる気持ちもわかる。

 だから、まだ、これからだ。

 ここから自分と子どもの思いを整理して、どうするかを一緒に話していかなければならない。

 私も、彼女も。


「……はい。申し訳ありません」


 親同士の話だ。謝ってほしいわけじゃない。

 責めたいわけでもない。

 これで終わりにしてほしくなかっただけなのだが、それ以上私も何を言えばいいのかわからない。


「話していてもどこかピントが合わないといいますか、私の知っている道徳的であるはずの言葉が、どうにも大翔に響いているような気がしなくて……。それでつい、自棄になったようなことを言ってしまいました。――すみません」


 鼻をすする音が聞こえる。

 泣きたいのはこっちだ。そう思ったが、これから大変なのは確実にあちらだ。

 息子は先に自分の苦手と向き合い、一段抜けて、成長した。

 しかしあちらはこれから向き合って、親として正しい道へ導いていかなければならないのだ。

 一度違う道を自力で歩いていた子を誘導するのは簡単なことではないだろう。

 そこまで考えて、心からの応援を送った。


「お互いに頑張りましょう。まだ彼らは子どもです。私たち親の、大人の手が必要です。それは、私たちにもまだできることがあるということです。そう信じて、諦めずに向き合っていきましょう」

「はい、すみません。ありがとうございます――」


 そうして電話を切った。

 息子は今、どんな思いでいるのだろう。

 こんな日に限って、帰りが遅い。

 私は受話器を置いたまま、夕日のオレンジが差し込むリビングでぼんやりと立ち尽くしていた。

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