第三章 出会いはいつも突然に
第1話 愛と尊重と人生と
夕食の時間になり、階段を下りてきた息子の目は赤く腫れていた。
「あれ、今日ってハンバーグ?」
「うん。急遽ね」
「面倒くさいから作るの嫌いだって言ってたじゃん」
「今日はひたすら肉をこねたかったのよ」
「なにそれ」
そう言って息子は明るく笑った。
こんな憂いのない笑いは久しぶりに見た気がする。
湯気が立ち上るコンソメスープとお手製ソースをかけたハンバーグ、白いご飯を山盛りにした息子と向かい合う。
「うーん、いい匂い。いただきます」
ぱくりと一口食べると、お、というように目を大きくする。
「おいしい。さすがひたすら肉をこねただけのことはあるね」
「そうでしょう。いろいろこもってるから」
「怖いよ」
半分真顔でもう一口ハンバーグを頬張る息子に、私は「ねえ」と声をかけた。
「お母さんがこの世で一番大切なものは何か、知ってる?」
「お母さん……。僕、もう中学生だよ?」
どこか呆れたような口調を作りながらも、答えのわかっている顔。
そんな風に親の愛を疑わずに育ってくれたことに心から感謝する。
それでも私は言葉にして紡ぐ。
私の頭の中と息子の頭の中は同じじゃない。それを少し媒介してくれるのが言葉だから。
「赤ちゃんだろうが、中学生だろうが、大人になろうが、
遠く離れたところに住んでいて普段は会えなくても、祖父母も、親戚も、これまで友達になった子たちだって、大切に思っている人はたくさんいる。
きっと、クラスにもいるはずだ。
目の前に見える人たちだけがすべてじゃない。言葉で示されるだけが繋がりじゃない。
「それと。私は守がいい子だから愛しているわけじゃないわ。どんなに苦労をかけさせられても、悪いところがあっても、大切なの」
子供を愛せない親もいる。親が子供を無条件に愛するわけじゃない。
だから私は幸せなのだと思う。
「……うん。知ってる。ありがと」
息子は少し照れたように、だけどしっかりと噛みしめるようにそう言った。
大袈裟だと言われるかもしれない。
けれど『イジり』は、エスカレートすることがある。
相手の態度が面白いから。気に食わないから。そんな理由でどんどん苛烈な言葉を投げかけるようになっていく。
そういう言葉を浴び続けていると、自分の存在価値がわからなくなってしまうことがある。
『誰の役にも立ってないのに生きてる価値ある?』などと言われて消えてしまいたくなることだってある。
誰にも迷惑をかけていないのに。その人にとって価値がないというだけで、何故人の生死を決められなければならないのか。
けれどずっと否定され続けていると、それがすべてになってしまうことがあるのだ。
だから否定された分を上回るくらいに、肯定したかった。
あなたが大切だと。
ただただ大切なのだと。
私は過去に、生きていたくないと思ったことがある。
大なり小なり様々だとしても、一度もそんなことを考えずに何十年も生きられた人のほうが少ないのではないだろうか。
私はその時、親の愛を疎ましいと思った。
いなくなってしまいたいと思うと同時に、親の悲しむ顔がちらついて自暴自棄な行動を取ろうとした手足が動かせなくなったから。
『どんなであっても生きていてほしい。親はそう思うものなのよ』
その時の私は、その言葉を思い返し、呪いだな、と思った。
それでは私は楽にはなれないではないか、と恨みさえした。
けれどその辛い時を越え、今私はとても幸せだ。
あの時期を越えられなかったら今の私はなかった。こんなに大切な息子の存在も。
結局のところ、私は呪いだと悪態をついたその親の愛に支えられ、生かされたのであり、今はそのことを心から感謝できるようになったけれど、辛い渦中にある人間の心理は私にも少しはわかる。
だからこそ、息子がそうして私の愛を重荷とせず、笑って受け入れてくれたことが胸に沁みた。
禍福は糾える縄の如し。
辛くても、それを越えれば幸せがある。
確かにそういうこともあるだろうし、実際に私はそうだった。
あの時を越えられなかったら幸せを掴むこともできなかった。
だから助けられたことは間違いないけれど、不幸の先に幸福があるなんて保証されているわけではない。
そもそも人生がどこで終わりを迎えるかなんて誰にもわからない。
そんなそれぞれにある人生の中で、今の息子のように親の愛を素直にありがとうと受け入れられる人はどのくらいいるものか。
そんな風に息子が素直に受け取れるのも、これまでに出会ってきた人たちの存在が支えとなってくれているからなのだろうと思う。
その中にはもちろん押し入れのお友達の存在もあるはずだ。
いまや、息子の中で一番大きいのかもしれない。
だから。
新興宗教だなんて疑ったことを心の底から謝罪したい。
息子にとって大事なお友達。
その関係性を壊してはならない。
そう考えていたのは事実だ。
だから慎重になっていた。
ただ、出会いはいつも突然だ。
私は片頭痛があり、鎮痛剤が手放せないのだけれど、手持ちを切らしてしまっていた。
ドラッグストアに行く気力はない。
頭がガンガンと脈打つようで、極力頭の位置を変えたくないのだ。
トイレにしゃがんだだけで「いっっったぁぃぃぃ!!!」と呻き、ソファから立ち上がるたびに「がっっっ!!」と悶絶し、ずきんずきんとこめかみの脈動が収まるのをじっと待つしかない。
そうならないよう、古典芸能の何かのようになるべく高低差が生じない平らでスーッとした動きを心がけ、なんとか切り抜けようとしたけれど、家事をしなければならない主婦がそれで一日をやり過ごせるわけもない。
そういえば冬に息子が風邪を引いたときに、子供も飲める解熱鎮痛剤を買って渡したはず。
結局使わなかったようだから、それを拝借しよう。
そう考えて、頭の位置を変えないように、ゆっくりと階段を上がった。
まあ土台無理な話で、一段上がるごとに頭をズガァンッと打たれたような衝撃が来るのを奥歯を噛みしめなんとかやり過ごす。
やっと平地まで昇りつめ、壁に手をついてすり足でそろり、そろぉりぃと平行移動でにじり寄る。
そうしてただただ『頭が痛い』だけで頭がいっぱいになった私は、やっと息子の部屋に辿り着き、ただただほっとした気持ちでドアを開けた。
開けてしまったのだ。
それは音を殺して忍び寄ったのと同じで。
結果――。
「あ」
「あ」
異口同音ってこういうことか。
私とそれは、同じ呟きをぽつりと漏らした。
そして、
「どうも」
私の口から出たのはそんな挨拶だった。
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