第4話 親として
いや。
やっぱり放っておくことはできない。
親として、この家と家族を守るものとして。
ウサギをカゴに入れずに飼っている疑惑よりも、スライム状の何かを家中にまき散らしているかもしれない疑惑よりも、やっぱり人間であった時のほうがはるかに黙っておけない。
異世界からの来訪者かもしれないだなんて、これから起きる大変だろう物事から目を逸らしたいがための現実逃避でしかなく、そんな妄想で時間を費やしている場合ではないのだ。
明日は私が期限と決めた日曜日。
いい加減、突撃するしかない。
そう決めて、しかしつい癖でいつものように這いつくばって階段を上った。
「そんな時はモナカですよ。モナカを食べればお腹がいっぱいになるですから、みんな平和なります。お腹が空くとイライラするですから、みんなモナカ食べればいいです」
お友達が前よりも流暢に喋るようになっている。
学習能力がとても高い。
どうやって勉強しているのだろう。
単語を覚えるのだって時間がかかるだろうに、イントネーションまで自然になってきている。
そして謎のモナカ推し。
なぜそうもモナカを布教するのか。
それはないと最初に切り捨てた新興宗教説がここにきて急浮上し、にわかに焦りが生まれる。
団体が相手となると、話が違ってくる。
「いやあ、お腹が空いてイライラしてるわけじゃないと思うけどね……」
「ではやはりいじめですね」
その言葉にドキリとして心臓が跳ね上がり、それまで考えていたことなどすべて消し飛んだ。
「いやいや、別にいじめっていうんじゃなくて……ただのイジりだよ」
「イジり。テレビで見ました。どこまでがイジりでどこからがいじめか、みんなが話し合っていました。だからワタシ、少し知っています」
「すごいね! どんどん学んでるなあ」
「いじめじゃない。イジリ。でも、言われるは嫌なんですよね?」
「……いやあ、うん、まあ、ね」
すぐに返らなかった息子の返事に、息を詰めた。
その間が答えだ。
全身の血が一気に下がる。
中学二年になってから浮かない顔をしていることが多いのは感じていた。
けれど押し入れのお友達のおかげもあってか、最近はすっかり明るくなったから、クラスでもうまくやっているのだろうと勝手に思っていた。
押し入れのお友達がクラスメイトではないのなら、学校での問題も自動的に解決するなんてことはないのに。
中学生ともなると、親の関わりはまた難しい。
小さい頃のように何でも話してくれるわけではなく、把握が難しくなる上に、仮に知っていても安易に口を出すのもよくない。
そう思うとどう向き合ったらいいのかわからず、ここまできてしまった。
悔いながら、声を聞き洩らすまいといつもよりにじり寄る。
「ではそれはいじめです。『イジりは愛がある。いじめには愛がない』言っていました。相手が嫌がることをするは愛ありません」
「いや、そんなことないんだよ。本当に、ただちょっと言われるくらいのことでさ。僕がいちいちあれこれ言うと、空気が悪くなるっていうか、みんながシラけちゃうし」
「シラける。シラけるは楽しくなくなることだとテレビで理解しました。それは人が傷つくよりも大事にしなければならないことですか? 楽しいは誰かが傷ついても楽しいですか?」
「それは……」
人が傷ついているのを見るのが楽しい人もいる。それがいじめだ。
「誰かが傷ついているのに見ないふりをして楽しいを楽しむ人なのか、傷ついているのを楽しむ人なのか、どちらにしても、そんな人のために、傷ついても我慢する必要はないのではありませんか?」
彼は。
彼はすごく真っ当なことを言っている。
いつの間にか、息子の心に響いてくれることを願っている自分がいた。
しかし力なく笑う息子の声が聞こえた。
「いやー……、ハハ、ぼくトロいからさ。しょうがないんだ」
「『しょうがない』? ということは、トロいと迷惑なのですか? だから嫌でも嫌と言わないことで『おあいこ』にするですか」
「あ、いや、まあ別に迷惑かけてるわけじゃないけど……」
単純に体育の成績が悪くなるだけで、それは自分がへこむだけだし、とごにょごにょと答える息子に、心底疑問というような声が尋ねた。
「では何故トロいだとしょうがないですか」
「う、うーん。見てるとイラッとするだろうし」
「何故イラッとするのですか? ずっとあなたを見ていなければならないのですか?」
「そんなことはないけど……」
「トロい人は他にいないのですか?」
「たくさんいると思うけど」
「ふうむ。迷惑をかけておらず、他にもトロい人はいるのにわざわざあなたを見てイラッとする。それはあなたのせいなのですか?」
「え……?」
「あなたのせいなのですか?」
繰り返された問いに、息子は戸惑った様子でまごまごと返す。
「いや、あの、僕のせいかって言われたら、それは……」
「あなたもあなたのせいではないと思っている? そうですよね。トロいからといってイジリをされるのはしょうがなくなんかないですよね。あなたは悪くないし、空気が悪くなるなどとあなたが気に病む必要もない。嫌なら嫌と言っていいはずです」
その通りだ。
その通りのはずなのに、何故こんなにも思春期の少年少女が集められた空間では『空気』というものが最重要視されてしまうのだろうか。
些細なやり取りに気を使い、アンテナを張り巡らせ、人の気持ちや言葉に敏感になり、批判やあげあしをとられないよう恐れながら生き抜かなくてはならない。
嫌なことを言われてもただのイジりだと言われれば空気を読んで納得し、周りが笑っていたら一緒に笑わなければならないような気がしてしまう。
だが言われた本人が嫌だと思うならそれはイジりではなく、いじめだ。
渦中にいるといろいろなことを考え過ぎてしまってシンプルに捉えられなくなるのかもしれない。
大多数の人に冷たくされ、嫌なものを向けられても、自分の何が悪かったのだろうと考えてしまう。
悪いところなんて探せば誰にでも出てくる。だから自分が悪いのだと結論づけてしまう。
だけどそうじゃない。
いじめなんてただの退屈しのぎだ。
だって、どこか悪いところがあって、それが嫌なら関わらないという選択肢がある。もしくは是正してくれと言えばいいだけのはずだ。
それをせず、まったく事象の改善につながらない行動で精神攻撃をし続けるのは、そのこと自体に愉悦を感じているから。
そんなものに心を痛める必要なんてない。
どんな理由をつけようと、いじめなど正義にはなりえない。
まかり通っていい理由などない。
そう言ってやりたかった。けれど割り込むわけにはいかない。
何より、息子から話を引き出したのは私ではなく押し入れのお友達だ。これまできちんと向き合ってこなかった私が、偉そうに何を言えるのか。
唇を噛みしめる私の耳に、息子のぽつりとした声が響いた。
「そうか……。別に僕、悪いことはしてなかったんだ」
「そう思います。嫌なことを言うほうが悪い」
「うん。そうだよね。ありがとう……。きっと、僕がうじうじするから、それが楽しかったんだと思う。僕もう、そういうのやめる。悪くないのに、悪いことしたって思うの、やめる」
息子の言葉には力がこもっていた。
決然と前を向くような、そんな覚悟が見えた気がした。
「大事な人と自分が幸せなほうがいい。自分を苦しめるやつ、楽しませる必要ありません」
「はは! そうだね。すっごく簡単なことだけど……。僕、今まで、自分が嫌われてるんだと思うと、恥ずかしくって、自分が自分で嫌になっちゃってたんだ。だから、自分の悪いところを直さなくちゃいけないって、そればっかり考えてた。だけど、そんなの簡単に直るなら最初からそうしてるし。それができないから、自分が悪いんだって、ずっと堂々巡りだった」
「悪いところも迷惑も、ワタシもある。ごめんね? 直さなくちゃいけない?」
「ううん! 僕はノイバスティがいてくれたから、毎日が楽しいんだ。ノイバスティはそのままでいいんだよ。もしもお母さんに出て行けって言われても、僕が守るから」
「ありがとう。じゃあ、ワタシだけじゃない。直さなくていい。そのままで、ワタシ助かっている」
その言葉に、息子がはっと息を呑む音が聞こえた。
それから、ふふっ、と爽やかに笑う声がする。
「ありがとう。僕は僕でいていいんだ――。ありがとう」
言葉で確かめるようにそう言った息子の声は、憑き物がおちたように晴々としていた。
私はなんとか息を殺しながら階段を後退した。
そうしてトイレにこもり、嗚咽した。
私が言ってあげられなかったことを、お友達は全部言ってくれた。
親ではない、他人にそのままでいいと認められたことも、きっと息子にとっては大きかったと思う。
親として不甲斐ないことではあるが、もし仮に息子が私に打ち明けてくれていたとしても、私の言葉では響かなかったかもしれない。
私がそのままでいいのだと言っても、息子は悪くないと言っても、親の愛ゆえと聞き流されてしまう気がするから。
ありがとう、ノイバスティ。
あなたがいてくれてよかった。
息子の味方になってくれてありがとう。支えてくれてありがとう。たくさん覚えた言葉を、息子のために考えて、紡いでくれてありがとう。
トイレから出た私は、固く決意した。
息子がノイバスティを守るなら、私はそれらをひっくるめて守ろう。
彼が押し入れから出る時がきても、二人が悲しまなくて済むように。
それが親であり、大人である私がしなければならないことだ。
ノイバスティ……それがお友達の名前。
どこの国の名前だろう。
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