第3話 いつか流行っていたあれ
掃除を理由に息子の部屋に捜査に入ろうか。
しかしいくら親子といえど、プライバシーというものがある。
迷いながら階段を上りきり、廊下に右足を置いた瞬間、思わずギャッと悲鳴をあげてそのまま尻餅をついた。
とすぐ後に、押し入れからガタガタン!!と激しい物音が聞こえる。
客人が突然の悲鳴と物音に驚いたのだろう。
私は心の中でごめんと謝りながら、「やだあ、滑って転んじゃった! ドジなんだからー」と大きな独り言を呟いた。
これで安心してくれるだろうか。
その後は物音は続かず、再び辺りは静寂に包まれた。
ふう、と静かに息を吐ききり、尻餅をついた格好のまましばらく痛みに耐える。
とにかく痛い。とんでもなく痛い。
何で滑ったのかと右足の裏を見ると、そこには緑のねばねばがべったりとついていた。
「何コレ?!」
息子がスライム遊びでもしたのだろうか。
中学生になったとはいえ、心はまだ小学生だ。
いや、違うな。
最近女子高生や大人の間でも流行っているとテレビでやっていた気がする。
触っていると癒されるということだったが、思わぬところで踏むと気持ち悪さと悲しさばかりが胸に湧く。
ぞうきんか何かで足を拭こうと、背を向けていた階段に顔を戻すと、よく見れば緑の何かはぽたぽたとあちらこちらに落ちていた。
階段を昇っている時に転ばなくてよかったと、背筋が冷える。
右足だけつま先立ちになり、緑の何かを避けながら階段を下りて行くと、それは台所まで続いていた。
ちょっと待って。
スライムで遊んだくらいでこの量が家中に散らばる?
しかもなんだか歩いたそばからぽたぽたと落ちていったみたいではないか。
どういうこと?
押し入れのお友達が落としたの?
落としたって……
何を?
どこから……?
一瞬とんでもないことを考えてしまい、いやいやいやまさか、はははははと自分で自分を笑う。
まさかね。
◇
帰ってきた息子と二人で夕食を食べながら、それとなく話を向けた。
「ねえ、最近ってスライム遊びがまた流行ってるんでしょ?」
「ふうん、知らないけど。僕の周りではスライムの話なんて出ないよ」
「あんたも持ってたじゃない」
「もうどっかいっちゃったよー」
「緑よ。緑なのよ」
願うように、じっと息子の目を見る。
「いや、マジでもう興味ない。なんかのオマケで当たったの? お母さんが使えばいいじゃん」
息子よ。
こんな時くらい嘘をつけ。
じゃないと「じゃあ廊下に落ちていたあれはなに?」って聞かなきゃいけなくなるじゃない。
よくこんな素直さでこんな大きな隠し事ができると思ったものだ。
「大人も触ってると癒されるんだって。定規で切ると新しい感触で病みつきになるらしいよ」などと言われても、こっちはそれどころではなく「ふーん」と気のない返事しか返せない。
もしスライム状の何かが垂れる状態にいる……いや、あるとしたら、押し入れが腐らないだろうか。
それが心配だ。
フローリングはある程度のコーティングがしてあるが、押し入れは水分に弱そうだし。畳だって腐ってしまう。
「そういえば、最近ピクニックにも行ってないわね。青いビニールシートなんかも、もう使わないかしら。ほら、二階の廊下の収納庫に入ってるでしょう?」
使っていいのよ、息子。
むしろ床の保護のために敷いてほしい。
「えー?どうせピクニックの時は青いビニールシートなんて使ってないじゃん。布みたいのに銀が張られてる、ちょっとフカッとしたやつ買ったでしょ」
そうなんだよなあ……。
どう自然に会話に出そうかと思案したのだけれど、それしかなかったのだ。
確かに青いビニールシートは防災にも使えるし、キャンプの時にも何かと役に立つから置いてあるのだけれど。
会話にさらっと出すということの難しさ。
息子よ、母ちゃんがいつまでもナイスにアシストできると思うな。
早めに欲しいものを拾って快適に押し入れの何かと過ごせるように整えてくれ。
その間に、たとえ押し入れの住人がスライム状の何かだったとしても受け入れられるように心の準備を整えておくから。
私の中ではウサギの獣人説は消えた。
スライム状の何かだから食性がわからず、あれこれ食べさせてみた結果、その中にウサギの餌というチョイスが混ざっていたと考えるべきかもしれない。
やっぱり異世界から来たモンスター的な何か?
スライムになって異世界に転生する物語だってあるわけだし、こちらにそういう生物が転移してくることだってあるかもしれない。
いや。まだ限定はできない。
私が散りばめた単語に息子が何も反応しないところを見ると、普段はスライム状の何かが垂れるような状況にはないのではないか。
何か怪我を負って体から漏れ出したとすると、もしかして、あれか。
科学実験により何かの細胞が分裂して生まれたと言われている――
いや、やめよう。
人間になりたいとか聞こえてきたら別だが、あまりに現実離れしすぎている。
最近はあまりに考えすぎて荒唐無稽な話に行き着いてしまいがちだが、ウサギの獣人もスライムも妖怪人間も、まさかそんなことはありえないのだからそんな妄想を続けていても時間の無駄になるだけ。
そのはず。
そのはずだ。
そうして思考を中断させたから、適切な次なる問いなど何も浮かばなくなり、その日の息子アタックを終えた。
とてもではないが、「まさか押し入れにいるお友達がスライム状の粘液を垂らしながら歩き回ってるとかないわよねー? むしろ本人がそうだったりする?」だなんて聞けるわけがない。
しかし、それ以来緑色の何かが落ちているようなことはなかった。
あの時だけ動き回っていたからか、それとも、あの時だけ垂れていたのか。
押し入れのお友達のみぞ知る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます