第2話 息子のポリシー
「明日ホームセンターに行くんだけど、何か欲しいものある?」
「あー。うーん。特にないかな」
あるだろう。
ウサギを入れるカゴだとか、ペットシーツだとか。
そういうものがなく押し入れに自由にさせていたら、布団が糞尿まみれになってしまう。
「そう? ちょっと買ってきてほしいものがあるの。ついでにお小遣いを渡すから、好きなものを買ってきてもいいわよ。確かあそこはペットコーナーもあったわね。カゴとか、ペットのエサとかもあるし」
「ええ? なんでそこ食い下がるの? 別にないってば。ホームセンターなら荷物重くなるだろうからお使いは行ってくるけど」
本当に優しい子だ。
手を差し伸べてやるつもりでかまをかけているというやましい部分があっただけに、良心が痛む。
私は買い物メモと一緒に奮発して一万円を渡した。
頼んだのは置き型除湿剤三個パックと、Gに直接噴射するタイプの殺虫スプレー、それから毒餌タイプの対G用殺虫剤。
残りのお金で十分必要なものが買えるはずだ。
「もういきなり部屋に薬剤まき散らすのはやめてよね」
とやや警戒した目を向けられ、私は安心させるようにカラカラと笑って頷いた。
「そんなに何回もやらないわよ。窓が開いちゃってたし、どこかで生き延びてるGがいるかもしれないから毒餌を巣に持ち帰ってもらって根絶を狙うの。あとは予防と、いざという時のための備えよ」
本当は廊下に噴霧剤をまき散らしたい。けれど押し入れにいる誰かもトラウマになってしまっているだろうし、ブシューと激しく吹き出す音を聞いたらまた逃げ出してしまうだろう。
息子の部屋は二階だ。慌てて窓から出て怪我をしないとも限らないし、うっかりウサギが置いて行かれでもしたら大変なことになる。
Gを放置すれば繁殖してしまうから放置はできないけれど、さすがにお友達が毒餌を食べてしまうようなことはないだろうから、この方法なら安全だ。
「ふうん。お母さんてさ、Gには容赦ないよね。どうしてそんなに目の敵にするの?」
「百害あって一利もないからよ。雑菌や細菌が湧いたり、食中毒や喘息、アレルギーの原因にもなる。それに、紙も食べちゃうんですって。コードを噛まれれば火事にだってなりかねないし」
「そっか。そこまでとは知らなかった」
息子はどこか考えるような顔。
Gなんて殲滅して当たり前だと思っていたから、息子の言葉は正直意外だった。
「どうしたの、急に」
「うん。友達……、にさ、何で? って聞かれて答えられなかったから。最初から悪だって思い込んで、それだけで終わってて、自分たちにとって何がそんなに迷惑なのか、考えたこともなかったなと思って」
「そうね。Gに関してはCMでも何でも、最初から悪者だものね。いちいち何が悪いかなんて説明はあまり聞かないかもしれない」
知ること、考えることはとても大事だ。
身近な誰かがやっているから正義だと思ってしまうのはひどく危険でもある。
それに気づくきっかけになった友達というのは、きっと押し入れの住人なのだろう。
息子にとって、いい影響をもたらしてくれているようだ。
「どんな生き物でも殺しちゃいけないっていうのは、自分が生きている限り矛盾するとは思うし、それじゃ生きてはいけないけど、それでも、理由も知らずにっていうのはよくないよね。無駄な殺生はするべきじゃないのは確かだし」
「うん。だからクモはそのままにしてるのよ。何故だかわかる?」
「ええ、クモ? なんで?」
「クモはゴキブリを食べてくれるから。益虫なのよ」
「うそ!? あのほっそい体でどうやってゴキブリを食べるの? 大きさが見合わなくない?」
「成虫を食べる種類のクモは大きいみたいだけど、小さい種類のクモにもゴキブリの子どもを食べるのがいるんですって」
「へ、へえ……」
「命は大事だと思う。だけどお母さんにとって一番大事なことは家族の健康とこの家を守ること。だからGと戦うのよ」
「うん、わかってる。いつもありがとう」
中学二年生になってもこのように素直な息子は稀有な存在なのではないだろうか。
正直、ゴキブリごときの話ではあるが、じいんとしてしまった。
そうしてお使いに出かけた息子は、きっちりと私が頼んだものだけを買って帰ってきた。
レシートもおつりもそのままに渡される。
「何も買わなかったの?」
「うん。だから、別に欲しいものはないって言ってるじゃん」
ややうんざり気味に言われて、こちらが戸惑う。
息子は自分の持っているものでなんとかするつもりで、助けてもらおうとは微塵も思っていないのかもしれない。
考えてみれば、コンビニで買っていたのも自分のお小遣いからだったし、夜食のおにぎりすら『残って困る』扱いをされたご飯を救ってくれただけ。
冷凍食品をすすめても断られた。
自分が決めたことだから、親の金を使うのは違うと思っているのだろう。
なんとも真面目な息子だ。
思えば学校をズル休みしたのだって、小学六年生の授業参観の時だけだ。
何が嫌だったのかはわからないが、はっきり嘘もつけず、『お腹が痛い……かもしれない』と目を泳がせていたから、ゆっくり休みなさいとしか言えなくなったのだが。
そんな息子だから、私に黙っていることはあっても嘘をついていることはないだろう。
嘘ならすぐにわかる。
ただ、本当にウサギがいるならカゴだけは買ってほしかった。
そのあたりに無頓着なのはまだまだ子どもだからなのか、それともウサギなんていないのか。
ああ――。
扉を突然ガラッと開けて息子と相手が喋っているところに突撃してしまいたい。
まどろっこしくてついそう思ってしまうけど、見守るのも親として必要な忍耐だ。
とはいえ、私としては相手の親御さんと連絡をとり、大人としてその子にとっての最善を一緒に考えたいところだ。
もし本当にその子が虐待やネグレクトを受けているなら、後手後手に回ると何もできなくなる可能性がある。
新興宗教に騙されている線もまだ消えてはいない。
だから私にはまだまだ情報が必要で。
またもや息子の部屋の前の廊下で床に這いつくばっているのは、それしか手段がないからだ。
「ワタシにとっては、文化、不思議です」
「そう? たとえばどんなところが?」
「外は靴を履いて、家は、それ脱ぐトコロです」
なるほど。アメリカを始めとして、外国ではほとんどの国が靴を脱がないから、日本の習慣は珍しく映るだろう。
「あー。当たり前だと思ってたから何とも思わないけど、海外では靴を脱ぐほうが多いんだよね」
「ワタシも、外から家、そのままが当たり前。靴だけ脱ぐわからない。服は?」
長年当たり前だと思って生活していたから、そう訊かれると言葉で説明するのが難しいかもしれない。
息子はどう答えるのだろうと、息をひそめる。
「うーん。靴は物理的な目に見える汚れで、服は細菌とか埃とか目に見えない汚れだからさ。レベルが違うっていうか。服も着替える人はいるけど、それだって普通は家の中に入ってからだしなー」
「レベル?」
「うん。目に見えて汚いと、嫌じゃん? 見えない汚れのほうが体に悪いこともあるんだけど、なんていうか、汚れてるなあと思いながら過ごすのって、なんか落ち着かないっていうか。お客さんが来た時にも恥ずかしいしさ」
息子が考えるように答えると、両者ともしばらくの間が空いた。
「目に見える汚れ嫌う、『おもてなし』?」
「そうそう、おもてなしの心だね。お客さんだけじゃなくて、自分も、家族も、居心地よく過ごすため」
「ワタシ、外も家も同じ、汚れてる思わない。だけどおもてなし、いい。日本人、優しい」
そう言われるとなんだか嬉しい。
単なる生活習慣の違いで、どっちが正しいとかはないけれど、そこに心遣いを見つけてもらえると自国の文化を誇らしく思う。
そしてお友達は自分なりによく考えているようだし、とてもいい子だ。
「あと、モナカ。モナカはどれもおいしいです。おいしくないモナカはこの世に存在するですか?」
「モナカはね、お腹が空いた時に最強の食べ物なんだ。だけど正直、味の違いは僕はよくわからない。もしかしたら、全部一緒かも」
そんなことはないだろう息子よ。いくらなんでも暴論すぎる。
モナカは皮と餡子だけでできているシンプルな構造ゆえに、違いは生まれにくいかもしれないが、おいしいモナカはあるだろう。
ただ、おいしくないモナカはあるのかと問われれば確かに悩む。
商品として売られているモナカでまずいと思ったことはない。
シンプルゆえにまずく仕上げられる余地がないのか。
「勉強なります。他に、地球のいいところ、教えてください」
地球規模とは大きく来た。
もしかして未開の地とか、あまり国交が開かれていないような国から来たのだろうか。
そろそろ自分の体重でうつ伏せに潰されている肺および周辺の筋肉が痛くなってきた。
「そうだなあ、地球のいいところって言っても僕はあまり詳しくないけど。空気があるところ? 熱すぎて燃えちゃうってこともないし、息ができるし……」
「確かに、人間や地球に生きる生き物
言葉がまだ不慣れなせいだろうけれど、まるで自分は違うみたいな言い方になっている。
話が気になったが、だいぶ肺および周辺の筋肉が限界に近い。
私はそのままの向きでにじりにじりと後退し、後ろ向きで足から階段を下りて行った。
夕食の時間になり、すかさず息子に尋ねてみた。
「前に帰国子女の子がいるって言ってたじゃない? 大変よね、生活習慣が違うと」
「子供の頃は日本にいたって話したじゃん。最近の流行りにもすごく詳しいよ」
「そういえばそうだったわね……。ちなみに、どこの国から来たの?」
「アメリカだって」
「あ、そう。でもアメリカといっても広いものね。アメリカにも未開の地ってあったかしら……」
「シアトルって言ってたと思う。とにかくハンバーガーとピザばかりで、アメリカに行ったばかりの頃はうんざりしてたって笑ってたよ」
「ハハハ、そうよね、お米が主食だと恋しくなるわよね」
シアトルはワシントン州最大の都市だ。
じゃあさっきの会話は何?
もしかして、地理の勉強か! それとも理科?
そういえば近々テストがあると言っていたっけ。
すぐに私は変な妄想をしてしまうようだ。
ウサギのエサは買ったのにカゴもペットシーツも不要だなんて、まさかああして会話している押し入れの住人自身がウサギのような姿をした獣人だったりとか、なんて……。
だって、それならいろいろと説明がついてしまう。
人型ではあるから窓を開けて自分で外に出ることも可能だ。
モナカだっておにぎりだって食べられてもおかしくはないし、おにぎりをこれじゃないと息子があれ以来握っていかないのも好み……食性が合わないからだと考えることができる。残っていたから揚げを持って行かなかったのも草食だからなのでは。
うさ耳やねこ耳の生えた獣人などは、何十年も昔から創作物に登場していたはず。
火のないところに煙は立たないというし、実は本当にいるのかもしれない。
いや、異世界から来たとすれば、『人間や地球』を他人事のように語るのも頷ける。
――だなんて、最近の異世界物の流行に乗っかり過ぎな妄想だ。
獣人というのはきっと、ふわふわのうさ耳やねこ耳が生えている生き物が喋ったらかわいい、面白いという人間の夢ある想像力から生まれたものだろう。
科学技術の話ではないのだから、人間が想像したものが何でも現実にあるわけではない。
裏でそんなことを考えながら、私は息子とお米の重要性について熱く語りあい、和やかに食事の時間を終えた。
押し入れ状況の把握はなかなか進展しない。
やはりここは正面から……いやいや、息子の信用を失いたくない。だけど、大人として時にはきっちりと――
私の悩みはまだ結論を見せてくれない。
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