第11話 別れ
病院で、僕は痛みに耐えていた。一度再検査になったが、昨日動き回ったことはさほど影響を及ぼさなかったようだ。それでも体調は格段に悪く、僕は総合病院の個室のベッドでうなっていた。
「小野寺さん、面会に来られた方が」
看護師の言葉に振り向くと、福がいた。僕は思わず体を起こそうとし、痛みでぐったりと倒れ込んだ。
「福が見舞いに来てくれるなんてね」
福は煙草を探す素振りをしたが、ここが病院だからか諦めたようだった。
「君のことを何て呼べばいい? 星木柘榴? 遊部福?」
「福でいい」
福は僕の近くにスツールを持ってきて座った。
「世話になったな」
「どういうことだ?」
僕は福を見る。福は相変わらず無表情だ。嫌な予感がしていた。
「俺は日本を出る」
「どうして!」
叫んで、また痛みでうずくまる。
「ハチも、ダリルも行く。もう決めた」
「だって君はもう安全なんだろう? 僕の祖父は起訴されるだろう」
昨日、カーサ・デル・ボスクに戻る前に警察署に寄って、あの出来事のビデオデータを提出した。僕はコンタクトレンズで全てを撮っていた。
でも、どうやら同様のデータと、別の物的証拠――おそらくあの強化ガラスの記憶媒体――がすでに提出されているようだった。エドワルドだった。彼は父親のために「正しいこと」をしたようだ。
「ああ。星木柘榴はな」
「え?」
「星木柘榴が生きていたらホッとしていただろう」
「どういうこと?」
僕は混乱して福の顔を見つめる。
「星木柘榴は十四歳の時に死んだ。病死だ。元々体が弱かったが、裕福な育ちの柘榴には孤児生活が過酷だったんだ」
僕はぽかんとして彼を見つめる。では、この人物は。僕の前にいる煙草を吸いたくてたまらなそうな、謎の人物は?
福は語り始めた。
「柘榴とエリックと一緒に、ずっと生きてきた。俺は柘榴にあの記憶媒体を任され、あいつの生きてきた人生や記憶媒体の内容を事細かに頭に叩き込まれ、利用してくれ、と言われた。
僕の人生を利用してくれ。僕の魂を救ってくれ。それがあいつの遺言だった。俺はその通りにした。
俺は荒川区に住んでた普通の金物屋の息子だよ。名前は遊部福じゃない。何だ? 金物屋の息子が戦争の首謀者に復讐して悪いか? これは俺たち庶民の復讐だった。他の誰でもなく、庶民が最大の被害者だった」
僕は彼を見つめ続ける。彼は、ふっと笑った。
「あんたには退屈だろうが、俺の戦争前の生活は、まずポータブルゲームで友人と対戦、それから両親に叱られながら学校の課題をやって、夜は九時に寝るってものだった。起きたら近くにある公立小学校に行って……。
俺はまあまあ利発で頭もよかった。中学から私立に行ってはどうかと勧められたりもしてたな。我が家の収入じゃ無理そうだったが、俺もちょっとその気になってた。
二学年上のエリックは暴れん坊で、親も片方外国人でちょっと近寄りがたくて仲なんてよくなかった。
でも、戦争が全てを変えた。俺たちは家族を失い、共に生きてきた。柘榴が合流してからは秘密を守りながら絆を深めてきた。
柘榴が死んでからは、本当に人生が灰色だった……。
ダリルに拾われて、ハチと暮らして、ようやく人間らしくなったんだ。俺は、探偵なんかじゃない。本当にただの麻薬の密売人なんだよ。探偵の肩書きは、ヤクザであるボスから報酬を得やすくするためのものなんだよ。依頼の報酬のふりをして売人の仕事の代金をもらうんだ。
さいわい横町では誰も俺に浮気調査や猫探しや身元の調査なんて依頼しなかった。あんただけだよ、俺に事件の話を持ち込んでくるのは。
どうだ、がっかりしたか?」
僕は首を振った。ゆっくりと、彼がわかってくれるように。
「僕は君の能力に惚れ込んだんだ。君の仕事や肩書きのためじゃない。君はスーパーヒーローなんだよ。殺人犯を見つけ、格好よく解決する物語の探偵なんだ。僕は君といるとすごく嬉しいんだよ」
福は顔を伏せた。僕はまくし立てる。彼と追った事件のこと。美津子やエリックのこと、前田猫と露木翡翠のこと。子供たちの誘拐のときの彼の立ち回りの格好よさ。ハチやダリルとの思い出。ダリルは推理を外してばかりだったけれどハチは結構鋭かった。ダリルは僕らの姉みたいだった。
「あんたはさ、あんたは……」
福は笑って言いよどむ。
「今になって、あんたの人生を壊した俺を、俺たちを、救済してくれるんだな」
救済? 救済って?
「家族がいない俺たちは、疑似家族を作ってここまで来た。
俺に興味を示すあんたを、利用しよう、大金を得て、復讐もして、遠くに逃げてやろう、そう言い合ってた。
それなのにあんたは、
それが救済でなかったら、何なんだ?」
福が笑った。見たことのない、ひどく悲しそうな、正直な笑顔だった。
「僕は正しいことをしただけなんだ。それは君たちから学んだんだ。僕は落ちぶれようが何だろうが、祖父を告発するほうが正しかったと思う。それに、君たちは僕には何もしなかった。僕と一緒に過ごしてくれただけなんだ。そうだろう?」
僕は素直にそう言った。僕を変えてくれた彼らを、彼らのありようを、感謝しているのは確かだ。
「何だっていい。君たちに行かないでほしい。僕を置いて行かないでほしいんだ」
福は唇を噛んで、こう続けた。
「俺は捕まる。それはもう嫌なんだ。どうしようもない社会のしわ寄せを一手に受けて、売人をするしかなくてここまで生きてきた。ヤクザにいいように扱われるのも、危険ばかりの人生も、もういい」
僕はすがる。
「じゃあ僕を連れていってくれよ」
福は立ち上がり、僕に笑いかける。
「いや。あんたはここで生きていけるだろう?」
僕は少し泣きそうになった。彼に自分の人生の太鼓判を押されてしまった。こんなときに。彼が僕を見捨てようというそのときに。
「じゃあな。いつか会えるといいよな」
福は僕に背を向けた。黒いスーツは蝙蝠のようで、今にも羽ばたきそうだった。遠ざかっていく彼を、僕は黙って見送った。僕は仲間などではなかったのだ。
そんなことはわかりきったことだった。
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