第3話 ハチと福の会話・八幡沈香登場

 僕と一緒にさいわい横町に戻るハチは、不良少年然として風を切って歩いていた。

 気が立っているのかなと思う。虐待を受けていた彼が「殴らない数少ない大人」と言う福は大事な心のり所だろうし、今の話は僕もかなりショックだった。

 福は捕まるのだろうか? それとも遠くに行ってしまうのだろうか。


 BLANCの光る看板が見えてきた。ほっと息をつくと同時に、今の話をどうしようと思う。

 ハチは勢いよくにぎわう店内に踏み込むと、ずかずかと歩いて靴を脱ぎ捨て、上がり框に足をかけると階段を駆け上がっていった。二階は福の住居兼事務所だ。僕も慌てて追う。


 二階に上がると安っぽいベニヤのドアがあり、そこからは声が漏れてきた。ハチの泣き声だ。


「あいつ、福に出ていけって言うんだ。お、俺、福に出て行ってほしくない。捕まってもほしくない。どうすればいいんだよ。俺やだよ。福たちと一緒にいたいよ」


 ハチは声を震わせて号泣していた。その姿を僕に見せることはできなかったのだろう。


「母ちゃんとこなんて戻りたくないよ。どうせあいつに殴られるんだ。母ちゃんは家にずっといないしさ、置いてかれて、飯も食わせてもらえないしさ」


 声にならない声でハチは泣いた。僕は音を立てることもできずにドアの前で立ち尽くしていた。


「大丈夫だよ。お前の面倒は俺が見る」


 福が落ち着いた声で返した。でも、と続けるハチに、福はこう言った。


「三田は俺を監視していることをアピールして、俺の行動をコントロールしようとでも思ってるんだろう。証拠のデータはあるんだろうからな。でも、大丈夫だ、俺は捕まらない」


 僕はそっと階下に降りていった。これ以上聞くのは気まずい。福の声は続いている。


「俺たちの計画を信じろ。俺はうまくやる。お前は安心して待ってろ」……




 僕が手持ちぶさたに立っていると、カウンターの中からダリルが僕を呼んだ。椅子が一つ空いたらしい。のろのろと座ると、ダリルは料理を盛りながら僕に話しかけた。


「何だか元気がないね。外で何かあった?」


 ここで話すわけにいかないので曖昧あいまいに笑っていると、ダリルは僕の隣の客と話し始めた。隣の客は中年の、近くの工事現場で働く男だった。


「あのいけ好かねえ男、また新宿の大型スクリーンに映ってやがった。面がいいのは本人のせいじゃないが、それを見せつけて自慢にするのは何ともいけ好かねえ」

「あたしはよく美容記事見て参考にすることもあるよ。結構参考になってさ」

「普段は何か気持ちわりい白いマスクをして歩いてるらしいじゃねえか。しかもこの辺に住んでるんだろう?」

「皮膚の角質を傷つけないための特別な美容成分を含んだマスクらしいよ。うーん、あたしは夜だけならやってみたい」

「ダリルちゃんなら皮膚もピチピチだからいらねえだろう」

「はは、ありがと」


 どうやら最近人気の美容専門家、角谷かどやメロウの話をしているらしい。映像で見たことがあるが、顔立ちがくっきりした美しい男で、肌は異様に白くて艶があり、女性に人気があるのも何となくわかるような気がした。


「しかし俺は皮膚が年取るのも悪くないと思うがね。しわやたるみは時間を経た人間らしさだ」

「そうですかねえ」


 男の向こう側にいる若い男がげっそりとせこけた顔をこちらに向けて言った。


「年はとらないほうがいいですよ。皮膚の問題だけじゃない。内臓はどんどん経年による老化をしますし、努力を怠れば若いころ蓄積した筋肉はどんどん衰えていく。いいもんじゃないですよ」

「まあそうかもしれねえけどよ。若くピチピチなのは若いときだけでいいって話をしてんだこっちは」

「皮膚もできるだけ大切にしなければいけないですよ。私なんてもう乾燥でフケだらけです」


 二人の男は色々と噛み合わない会話を続けていたが、やがて僕の隣の男の方が我慢できなくなったらしく、勘定かんじょうを済ませるとそそくさと帰って行った。


 痩せこけた男は黙ったままウイスキーをあおると、ため息をついた。何だか気味の悪い骸骨がいこつのようなやつだ。関わらないようにしよう。ダリルも何となく避けているように見える。


 しばらくして、福とハチが降りてきた。ハチはもう泣いていない。普段の生意気な顔をしている。


「ハチ、あんたご飯食べた?」

「食べたよ。福が作ってくれた。ちょっと福と出かけてくる」


 ハチは心なしかうきうきした様子で外に出た。福がちらりとこちらを見た。僕は違和感を覚える。


 何だろう。目が笑っていた。


「よく見る子ですが、ダリルさんの子じゃないですよね。見たところ、あの子は浮浪児でしょうか」


 あの男がダリルに話しかけた。ダリルは微笑んだまま黙っている。


「はあ、可哀想にねえ。あんなにかわいらしい子が」


 男はハチが出て行ったドアを見つめ続けた。何だか気持ち悪かった。あとで聞いたところ、あの男は宿無しの八幡やはた沈香じんこう。ダリルによると「子供に妙に関心を持つ変な常連客」とのことだった。

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