第2話 ハチのこと・福の仕事・三田刑事のジレンマ

「家に帰ったら、殴られるから」

「えっ」

「拳で殴られるんだ。たまったもんじゃない。体が吹っ飛ぶんだ」

「誰に……?」


 ハチは黙った。僕は彼の前に周り、しゃがんで肩を掴む。


「児童福祉センターに相談したほうがいい。そんな家族は逮捕してもらってさ、君は安全な……」

「安全な児童養護施設に入るわけ? やだよ」


 ハチは黒い、光のない目で僕を見上げる。


「あそこ、街から汚い孤児を隠すために子供を集めてるだけでさ、自由なんてないんだぜ。体罰だってある。戦前とは違うんだ。孤児は世話できないくらいたくさんいるし」

「でも……、子供を殴るなんて」

「アランはお坊ちゃまだからな。子供を殴らない大人なんて、ここでは福とダリルしかいないよ」


 僕は呆然としてハチを見つめる。彼は真っ暗な目で僕を見ている。シャットアウトされている。彼の心の中から。


 何かを話そうとしたら、ハチに口を塞がれた。娼婦の集団だ。これからどこかに向かうらしい。


「そんなに福の居場所が知りたいなら行こうぜ」


 どこへ? と聞く暇もなくハチは先に歩き出した。娼婦たちの後を歩いていく。かしましい女たちは賑わう街から離れ、人気のない開発途中の街を歩いていく。

 仕事をするためにしてはおかしい。街角にいたほうが仕事をしやすいはずだ。


 やがて彼女たちは、爆撃で半壊したままの小さなビルの中に静かに入っていった。


「窓から中を見てみようぜ」


 言われるとおりにすると、中には女たちが待ち遠しい様子でそわそわと立っていた。小さな明かりがどこかにあるらしく、足元だけがかすかにわかる。


 やがて黒いスラックスと革靴が現れた。革靴は女たちの派手なハイヒールの間をい、何かをしていた。さらさらと衣擦れの音が聞こえる。

 用が済んだらしい女たちが次々に出てきて、こそこそと帰って行く。誰もいなくなったビルの中で、革靴の人物がしゃがんで明かりによって顔を照らされた。落とした「商品」の袋を拾う福だった。


 ふうん、普段はこうやって売人をやっているのか。


 福は片づけを済ませるとゆっくりと歩き出し、ビルから出るとしばらく歩いて建物の陰にあるオートバイに乗って街のほうへと消えていった。


「元締めに集めた『紙幣』を持って行ったんだ」

「紙幣? 今時?」

「買い手は正式のウェブ上の金で指定の物質の紙束を買う。組織が作った名刺みたいなやつ。それが『紙幣』。それを『商品』と交換する。集まった『紙幣』を元締めの元に持って行って、福は労働の対価をもらうってわけ」

「いたちごっこになりそうだな。警察に『紙幣』の存在を知られたらまた新しいルートを開かないと」

「そ」

「君、詳しすぎるな。福に教わったのかい?」

「いや、俺も将来売人になるだろうからさ、勉強してんだ」


 僕は再び呆然とする。しかしよく考えたらそうだ。ハチのような浮浪児同然に生きてきた子供の将来の選択肢は、とても少ない。


「売人になるか、ヤクザになるか。とにかく犯罪で生きてくしかないんだ」

「で、でも……」


 ハチは急にしゃがみ込み、あーあ、と言った。


「本当は外国かどこかに行って最初から人生をやり直したい。殴らない親と、ちゃんとした家に住んでさ……」


 僕は何も言えなくなり、ただ立ち尽くした。大丈夫、僕が日本を変えるから、社会は変わるよ、君のような経歴の子供でもやっていけるように。

 そんな言葉が頭を巡るが、全く口から出てくる様子はない。僕には他人の人生に責任を持つことなどできない。だから、これ以上深入りできない。


 草のこすれる音がした。僕らがいる反対側の外壁に、人がいた。あれは、三田刑事だ。この間柴田岩石刑事のことで僕に忠告していた。三田刑事は、僕らのほうをじっと見て、こちらへと歩き出した。


 僕は福の犯罪の証拠を押さえられた今の状況に、身構えながら彼が近づいてくるのを待っていた。


「こんばんは」


 三田刑事は相変わらず精悍な顔つきをほとんど緩めずに軽く頭を下げた。


「お話が聞こえてきまして……。少し話しませんか? 私の行きつけの店でコーヒーを飲みましょう」


 僕はハチを振り返る。ハチは固まったまま唇を噛みしめている。


「もちろんそこにいる彼も」


 ハチは驚いた顔をした。三田刑事は返事も聞かずに歩き出した。僕とハチは顔を見合わせ、仕方なくついて行くことにした。


 さいわい横町からも近い再開発済みのビルの地下にある、夜営業もしている小さなカフェに着くと、「コーヒーがうまいんですよ」と入るなりコーヒーを二人分と、ホットミルクを注文した。

 おそらくホットミルクはハチの分で、ハチが不機嫌になったのがわかった。「子供扱いしやがって」とつぶやくのが聞こえる。


「ここは煙草OKでね。今時珍しいのでよく利用してます」


 三田刑事は若々しく真面目な印象とは違う様子で、気だるげに煙草に火をつけ、吸い始めた。


「あの、さっき……」


 僕が言うと、三田刑事はすかさず、


「監視してましたよ、遊部を」


 と煙交じりに答えた。


「福は捕まるんでしょうか」

「さあね。私が個人で動いてるだけですから」


 煙をくゆらせながら頭をひねる。警察官が覚醒剤売買の現場にいたら、警察が動き出すのが当然では?


「私は柴田刑事に世話になってましてね。捕まってほしくないんですよ」


 福が捕まると柴田岩石刑事も捕まるということか。でも、ますますよくわからなくなってくる。どうして捕まってほしくないんだろう。この間もそうだが、福がやりたい放題やっているのに三田刑事は厳しい顔をしながらも黙っている。


「柴田刑事には世話になったんです。戦争で母子家庭となった私が不良青年にならないように心を砕いてくれた。警察学校に入る際には参考書をいくつか用意して教えてくれた。家族でもないのにね。いい人なんですよ」


 そういう風には見えなかった。僕には福に怯える柴田刑事の顔しか思い出せない。


「遊部のせいで柴田刑事は人格が変わりました。覚醒剤を使うようになって、欲に弱く、罪に怯えるようになりました。遊部を逮捕したいが、柴田刑事に捕まってほしくない。そういうジレンマに悩まされていますよ」


 なるほど、それなら納得が行く。


「でも、僕たちに存在を知らせたのはどうして? 福には僕やハチが絶対にこのことを言うでしょう」


 僕が問うと、三田刑事は、ふ、と煙を吐き、


「言ってほしいんですよ」


 と言った。僕は耳を疑う。


「遊部には私が監視していることを知ってほしい。そしてどこか遠くに行ってほしい。そうでないと柴田刑事を告発するしかない。これでも刑事なのでね。不正は許せないんです」

「ばっかじゃねーの」


 ハチが初めて口を開いた。


「あんたのジレンマなんてどうでもいい。覚醒剤を覚えた柴田は、福がいなくなっても他の売人から買うだろう。告発しなきゃいけないんならしろよ。それがあんたの仕事じゃないか」


 ハチは行儀悪くテーブルに足を乗せて組んだ。そこにコーヒーとホットミルクがやってきた。ハチはホットミルクのカップを掴み、細いのどをさらしてがぶ飲みした。


「帰る」


 カップを置くと、ハチは立ち上がって歩き出した。三田刑事も立ち上がる。


「送っていくよ」

「子供扱いはやめろ! 俺だってさいわい横町の住人だ。身の守り方は知ってる」


 ハチはかなりイライラしている。僕は仕方なく彼と一緒に帰ることにする。


「君のような子供が望むように生きられる時代を、私は刑事として作っていこうと思っている。時間はかかるかもしれないが」


 三田刑事が後ろから声をかける。やはり僕らの会話を聞いていたらしい。ハチは舌打ちをする。


「それから、誘拐には気をつけて」


 最後の言葉に、僕は首をかしげた。

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