第9話 事件解決・僕は彼らの過去に思いを馳せる

「彼女の経歴の、多くの部分が嘘だ。

 でも、台東区にあった工場を経営する両親と祖父母と弟、家族六人で暮らしていたことや、介護士の資格を取ってここで誠実に働きだしたのは本当だ。

 彼女は戦争で全てを失い、若くして一人生き残り、娼婦として生きていくしかなかった。


 地下道に暮らしていたときの、きれいな姉さんたちを思い出しますよ。化粧をし、髪を美しく整え、派手な衣服を身につけていた姉さんたちを。

 彼女たちは同じ境遇である私たち孤児に親切でした。たまに稼いだ金で買った甘酸っぱい綿菓子を配ってくれたな。

 彼女たちは多くの時間を地下道で過ごしていました。ただ、私たちと違って体を売る先でふかふかのベッドで寝ていることも圧倒的に多くて、何も知らない私はただ羨ましく思っていましたね。


 そんな姉さんたちと同じように、彼女は生きてきました」


 坂之上が唇を震わせて福を見ていた。前田は床を見つめ、ただ腕を組んでいる。


「彼女は恋をしました。

 十三歳年上の田辺桂です。彼は客でしたが、優しく、親切で、彼女に結婚を匂わせていました。金持ちで包容力のある彼は、彼女にとって父親や兄のような存在でした。彼女は夢中になった……。

 でも、田辺は姿を消します。彼女はしばらく彼を忘れることができませんでしたが、現実的に考えて、介護士の資格を取って新しい人生を歩くことを決意します。

 そしてこの、カーサ・デル・ボスクで働き始めたのです。彼女はしっかり働いたでしょう? 坂之上さん」


 福が聞くと、坂之上は声を震わせながら、「そりゃあもう」と答えた。


「患者様の異変にすぐ気づくし、トラウマをお持ちの患者様のケアにも長けています。彼女は優秀な介護士ですよ」


 厳しい顔をしていた露木が、下唇をぎゅっと噛んだ。


「でも、転機はまた訪れた。交通事故で脳を損傷した田辺桂さんが施設に入所したのです。

 彼女は驚き、喜んだ。でも、それもつかの間、彼女は彼の仲のいい妻と息子たちを見せつけられることとなった……。それで、自分が裏切られていたことを知った。彼は当時から結婚していたのです。

 嫉妬と怒りに狂った彼女は、彼を殺すことを決意します」


 露木がすっくと立ち上がり、こちらに近づいてきた。福はそれでも構わず説明を続ける。


「あの夜、彼女はこのように彼を殺しました。

 まずは寝ている田辺さんと刺す側の冷田山吹さんの耳に、一対のドコイルを装着します。どちらが右側でどちらが左側かはわかりませんが、二人で一対です。

 そして冷田さんをこっそり田辺さんの部屋に入れます。患者が自分で自分を世話できるこの施設だから、見回りは最小限です。簡単でしょう。

 屋上の関節パルス連動システムの部屋に侵入し、田辺さんを立たせて冷田さんを歩かせます。そしてドコイルを起動させます。

 冷田さんは最初から彼女が握らせた果物ナイフを持っています。冷田さんは人を刺す動作をしながら田辺さんの周りを歩き回ります。ドコイルは二人の人物に装着されているため、位置については混乱したままです。

 やがて果物ナイフを振りながら歩いている冷田さんは立っている田辺さんを刺します。何度も何度も。ランダムに歩いては彼を刺し続けます。

 そして彼は刺し傷で穴だらけになって亡くなりました」

「そうだよ」


 露木が腹をくくったように肩までの髪をかきあげた。場違いなことを思ってしまうが、やはり色っぽい。


「私はそうやって田辺を殺した。探偵さんの言う通り。

 ドコイルは自分で二人分に増やして、細かい関節パルス連動システムの操作が得意な前田さんに罪を被せようかなと思ってた――前田さんが二人を操って殺したって思わせるようにね。

 前田さんが落ちてたドコイルを洗って元に戻しちゃったから、最初からなかったことにしちゃった。それがこんなにこんがらがっちゃうとはね。

 でも、二対のドコイルが落ちてて、警察が調べたら誰がつけてたかわかっちゃうよね。最初からなかったことにするのが正解だったんだ」

「そうですね」


 福が答える。露木はうなずき、


「そうだよね。じゃあ前田さんは正しかったんだ」


 とつぶやいた。前田はじっと彼女を見つめ、拳を握っている。露木はため息をついた。


「関節パルス連動システム、そのまま動かし続けるつもりだったけど、前田さんが止めてくれたんでしょ? 急に冷田様が動かなくなるからびっくりしちゃった」


 前田はただ床を見つめ続ける。


「大人しく娼婦しとけばよかったのかな……。人殺しなんかしちゃってね。でも、田辺を見つけたら絶対にこうなったから、同じか」

「田辺さんを、愛していた?」


 福が聞く。露木はしばらく考え、「さあ」と答えた。


「愛だったのかはわからない。ただ、私は家族という形に執着してた。家族がほしかった。

 でも、祖父母や、両親や、生意気な二つ下の弟がいたあのころを、取り戻したかっただけかもしれない。そうだね。執着だ」

「家族がほしいと思うことは、自然なことですよ。今の時代は、それが当然だ」


 福の言葉に、僕はどきっとした。福の人生だって、彼女と近いものがあるに決まっている。


「ダリル連れてくるなんてずるいよ……。口割っちゃうに決まってるじゃん」


 僕が不思議に思って彼女とダリルを見ていると、ダリルが苛立たしげにそっぽを向いた。


「私、自首するから、ダリル」


 露木はかすかに笑ってダリルを見た。ダリルはまた泣き始めた。


「わけわかんないよ。何であんたが……」

「殺したもんは仕方ないよ。ねえ、最後にハグしよ」


 露木が駆け寄り、ダリルを抱きしめた。ダリルはぎゅっと彼女の背に腕を回し、鼻をすすりながら泣いた。


 ようやく僕に、彼女たちの関係の正体が見えてきた。彼女は、戦後を若い娼婦として生きてきた戦友なのだ。ダリルもまた、十代の娼婦だったのだ。


 僕は何も知らないで彼女と接していたことに、愕然とした。彼女を福のおまけ程度にしか考えていなかった。

 彼女にも、彼女のはっきりとした軌跡があったに決まっているのに。


「前田さん、罪を被ろうとしてくれてありがとう。あなた、いい人だね」


 露木は前田に微笑んだ。前田は固い顔で首を軽く振った。目をつぶり、次に彼女を忘れまいとするようにじっと見つめた。


「坂之上施設長、私たち何も言わないからこの施設を続けたらどうですか? ドコイルも関節パルス連動システムもこれから絶対必要ですよ」


 彼女は坂之上に力強く言う。坂之上は動揺し、でも、と何度も言うが、彼女は、


「今の坂之上施設長も、この施設も、なくなっては困ります」


 坂之上は頭を掻いて、考え込んでしまった。


「じゃあ、明日になったら出頭します。ご迷惑おかけしました。それでは」


 露木は笑ってエレベータに乗った。福はじっと彼女を見つめていた。彼の中の娼婦の「姉さんたち」、彼女たちに思いを馳せているように見えた。




 車にダリルを乗せ、僕は深夜の車道をひた走った。僕らは無言だ。ビルの陰を抜け、荒廃した渋谷区に入ると、ダリルは心底ほっとしたようにため息をついた。


「やっぱあたしはここのほうが落ち着く」

「こんなに荒廃したまま街が変化しないのも、問題だと思うけど」


 僕が言うと、彼女はうるさそうに、


「ここはあたしたちが作ってるあたしたちの街だ。だから安心するんだよ。あんたは異分子。あんたが店にいると胸がざわざわする」


 と答えた。言ってくれるなあと思っていると、彼女はこう続けた。


「送ってくれてありがとう。おかげで翡翠に会えた」

「彼女とは……」

「お察しの通り、同じ娼婦仲間。福が見せた娼婦たちの写真に写ってたでしょ? あたしと翡翠。

 あのころはずっと一緒だったな。あいつとはずっと組んでやってた。二人以上で組まないと、本当に危ないから。でも、あたしは子宮が駄目になっちゃって、あいつが介護士を目指し始める前にバーの経営に切り替えちゃった。

 だからあいつ余計男にのめり込んだんだと思う」

「……ダリルのせいじゃないと思うよ」

「あれ、優しいこと言ってくれるんだね。あたしに文句ばっかり言ってるくせに」


 ダリルは初めて僕を見て笑った。顔をくしゃくしゃにして。


「悪かったと思ってるよ」

「そう。あたしが恋愛映画ばっか見てる理由も、馬鹿な理由だと思ってるんでしょ?」


 一瞬黙る。ダリルはくすくすと笑う。


「考える必要ないよ。恋愛がしにくい体だから、恋愛に憧れてるのは本当だし」

「そうなんだね」


 僕は初めて彼女のことを知った気になっている。彼女だけではない、福のこと、この街のこと。そしてもっと知りたくなっている。

 福は戦争前どんな人生を歩んだのだろう。ハチがここにいる理由は? 彼らは僕をどう思っているのだろう。


 スポーツカーがさいわい横町に近づいていく。僕は一瞬一瞬を過去にして置いていく。

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