第2話 ドコイルと関節パルス連動システム

 坂之上の案内の元、僕と福は施設内を歩き出した。

 一階は日当たりのいいホールと受付になっていて、観葉植物などが置いてあり、平和な雰囲気だ。患者の家族などが自分たちの問題と向き合いながら椅子に座って待っていて、ここで殺人事件が起きただなんて信じられない。


 二階は回復した患者のリハビリ施設になっていて、理学療法士りがくりょうほうしと共に二本のバーの間を歩く練習をする患者、筋力トレーニングのためにスタッフにつき従われながら下半身の運動をする患者がいた。数人がそのように社会復帰のために訓練している。


「不思議だな」


 福がつぶやく。坂之上が会心の笑みを浮かべ、続きを待つ。


「患者たちに後遺症こういしょうがほとんど認められない」

「そうでしょう?」


 僕が最初来たときもそうだった。坂之上はそのことを指摘されると何よりも嬉しそうな顔をする。


「一般に脳に損傷を受けるなどして植物状態と言われる状態になって、その後運よく意識を回復しても、自力で移動できなかったり、発語ができなかったり、意思疎通いしそつうが成り立たなかったりと、多くの問題が起こりえます。

 私どもの施設ではその問題をできるだけ解決するために、特別な措置を行っているんですよ」

「そうなんですね。それはこれから見ることができる?」


 福が促すように聞くと、坂之上は大きくうなずき、


「屋上へ参りましょう。そこで世にも珍しいものをお見せできますよ」


 坂之上はにんまりと笑った。僕らはエレベータに乗り、屋上へと向かう。


「一般に、植物状態で目を覚まさない患者様は、褥瘡じょくそう――床擦とこずれとも言いますが――を避けるために日に何度も寝ている姿勢を変える必要があります。

 最初はそれを患者様ご自身で防いでもらえたら、スタッフのルーティーンも減らせると思っただけだったのですが……」

「患者様がご自身で?」


 福が坂之上の気分を盛り立てるように言う。坂之上は段々福のことが気に入ってきたようだ。笑顔が自然なものになり、楽しそうにしている。

 僕は一足先に見たので、福の反応を見るのが楽しみだ。これから見えるのは、非常に奇妙な世界だからだ。


「ええ、処置をいたしましたら、患者様の意識が戻るのも早く、その後の経過もよく後遺症も少ないので、画期的な医療措置として世界的に有名になったのですよ。こんなことにはなってしまいましたが……」


 エレベータを降り、廊下を歩く。廊下に面しているのは処置室のようだ。二重になったガラスの扉の向こうには、二十人ほどの人々の群が見える。


「ご覧ください。私たちが開発した、関節パルス連動システムを!」


 そこにあったのは、機械のひしめき合う研究室でもなく、人間たちの集団でしかなかった。先程から見える通りだ。

 ただ、驚くべきはここにある。この屋上の庭園に。


 十五歳ほどの少年が、人工芝の上をぐるぐると走りながら回っている。少年は満面の笑みで、「夢のバク! 赤と灰! ドキュメントシステム誤算タイピング!」と叫んでいた。

 歩いている中年の紳士は、穏やかな笑みで「爪の垢国の憂い芥川龍之介の大本のいわく」と会話風に話している。向かいには誰もいない。

 若い女性はダンスをしながら「鳥とインクのジョーゼット」と何度も歌うように言うし、老女は壁に向かって編み物をしながら「ガタガタの鯛」と繰り返し、誰かに教えるような態度を取っていた。


 さすがの福も唖然としたようだった。しかしすぐに気を取り直し、


「不思議な光景ですね。これが先程おっしゃっていた、関節パルス連動システム?」


 と坂之上に笑いかけた。坂之上は大きくうなずき、


「奇妙でしょう? 彼ら彼女らは植物状態の患者様たちなんです」


 と言う。福はうなずいて続きを促す。


「特別に大切にされている彼らに、褥瘡も作ってはいけないと様々に工夫して、とうとうこのシステムが生まれたんですな。

 彼らは六十八個ある全身の関節及び声帯に関節パルスの小さなマシンを埋め込まれまして、微弱な電流を起こされ体を動かし声を出すのです。

 あれら奇妙な動きや言葉はリハビリの運動と嚥下えんげ訓練、発声訓練になります。これらを普段から一定時間こなすことにより、彼ら彼女らは脳や身体の損傷が回復しやすくなり、意識が戻りやすくなり、元々訓練をしていたから後遺症も少ないんですな。

 いやあ、素晴らしいシステムです」

「彼らの関節は一人一人の体ごとに連動しているんですね?」

「そうです。そうでないと無理な動きをしてしまいますからね」


 彼らを見ていると、奇妙な動きをしながらも無理のない範囲で行動し、老人なら過度の運動をしないなどの調整がなされているようだった。それに互いにぶつかったりしていない。


 僕はにっこり笑って坂之上に聞いた。


「彼らはGPSを用いて位置を把握されているんですか? ほら、全身に埋め込んだマシンがあっても、それは個々によって違うもので、位置把握とは違うだろうから……」


 坂之上は、わかってないなあ、と言わんばかりの顔で笑みを作った。福はうなずいて、


「彼らは要人だったり、金持ちの子息、子女だったりする。そうですよね」


 と坂之上に聞く。坂之上は大きくうなずき、


「よくわかってらっしゃる! 彼らにGPSをつけるような真似はできないんですな。

 そんなことをしたら個人情報の問題もありますし、要人を狙って何者かが襲いに来るかもしれない。

 だから私たちは患者様たちに補聴器ようの機械『ドコイル』をつけてもらっています。人間には聞こえない程度の音を響かせ、左右の耳に装着した機械に壁や周囲の人々との距離を測ってもらうんですな。

 そうすると、関節パルス連動システムにその位置情報が届き、彼らは壁や人にぶつかったり、何かにつまづいて転んだりしなくなるんです」


 と答えた。福はにこにこ笑う。何だか僕だけ馬鹿みたいだ。


「でも、そのように植物状態の人々同士で、殺人が起こってしまったんですよね?」


 福が言うと、坂之上の表情が曇った。


「そうです。簡単に言うと、刺殺事件が起こってしまいました。現場はここではありません。封鎖されていますが九階です。

 ご覧になりますか? 私、警察は信用していなくて。警察がよくやる科学捜査も大切ですが、人間がその場で考えることも大事だと思っていましてね……」


 坂之上は悄然しょうぜんと歩き、屋上から屋内へと入っていく。僕と福もついていき、僕はちらりと屋上を振り返る。


 うへえ、こんな状態で生かされるのは勘弁だな。

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