27 GOD BLESS YOU:この修羅の世界に復讐を ②

 どろり、と。

 アザレアの傍らに立つイスラの体が、独りでに溶けていく。

 身長一六〇センチくらいの、ほっそりとしているが少女らしい肉感は備えたシルエットが、まるでのっぺりとした噴水のように滑らかな曲線の塊へと塗り替えられていく。

 黒いマグマのようにとろけて形を失ったイスラは──アザレアのリンカーネイトは、まるでゴムのように弾力性を感じさせる動きで膨らむと、即座に再び形を取り戻して体高だけで二メートルほどはある巨大な黒い狼へと変貌を遂げる。

 ──そしてその足元に、ズズズ……とイスラの体が浮かび上がってきた。



「……なるほど、それが君の能力って訳だ」



 それを見て、私は静かに言う。

 タイミング的にも、自発的にイスラの『格納』をやめたって訳じゃないだろう。……どうやら、リンカーネイト能力そのものが解除されたらしい。いや……能力が解除されたというよりも、これは………………。



「そうね。これが私のリンカーネイト──『呑み欺く黒き大顎ディープ・フェンリル』よ」



 言いながら、アザレアは傍らの黒狼を撫でた。

 撫でるアザレアの手に従って、黒い毛並みがまるで波のようにざわざわと音を立てる。口から覗く牙が、薄暗がりの図書館の明かりを受けて鈍く輝いていた。



「この子の能力は、『自分の影の中に物質を入れること』でね──」



 能力の説明を始めたアザレアを隙と見たのか。デーアの体が、微妙に揺れる。今が攻め時だと言いたいのだろう。だが、オレはその肩に手を置いて制止した。

 今は、攻撃するべきときじゃない。というより──今は、オレ達も



「能力対象には、私自身の他には『意識のない生物』も含まれるのよ。そして呑み込んでいる間、私以外の対象物の時間は停止する。本当、ただそれだけの能力だと思っていたのよ? 最初は」



 そう言って、アザレアは笑う。

 ……ああ、オレに当初説明した能力の補足を、今になってしている訳か。

 ただ、とアザレアは言い、



「この能力の真骨頂は、にあるのね。……このリンカーネイトは、意識のない生物を影に呑み込んだ時にその姿と機能を獲得することができるのよ。……その思考回路まで含めてね」



 ……なるほどな。

 呑み込んだ時点で物質の時間が停止するのであれば、意識を奪ってから呑み込んだ生物は呑み込んでいる限り永久に目が覚めることはない。

 そして呑み込んだ生物の姿と機能を獲得すれば、思考回路までついてくる。……つまり、『リンカーネイト:オーバーライド』程ではないにしても、半自動的な操作が可能ということなのだろう。

 イスラの『替え玉』は、そうやって実現していたのだ。


 そして、先ほどそれが解除されたということは──『適用』が、始まったということだ。


 おそらく、オレがこの場に来た段階では『適用』を開始する為に構成式の変更作業の真っ只中だったはずだ。アザレアはその無防備な作業を安全に完了する為に、ウィラルドを囮にして自分は影の中に隠れ潜みながら作業をしていたのだろう。

 そして、オレ達がウィラルドに気を取られていた間に、構成式の更新作業が完了した。だからアザレアは安心してオレ達の前に姿を現したのだ。

 ……いや、それ以前に不意打ちが失敗したから、隠れているメリットがなくなったのもあるだろうが。


 『リンカーネイト:オーバーライド』の『適用』が行われている間は、リンカーネイトによる戦闘は難しいだろう。構成式が変更されているのだ。当然である。

 防御がないということは、アザレアはこの瞬間、身を守る術がないということでもある。先程デーアの腕を切断した何か──おそらく魔法──にしても、不意打ちだったからオレもデーアも対処できなかったが、面と向かっている今なら恐れる要素はない。

 ただし──アザレアを殺すことはできない。

 『適用』は、構成式の変更が完了したから発生している。つまり今術者であるアザレアを殺したところで、『適用』が中断されるわけではないし──稼働した『リンカーネイト:オーバーライド』は、アザレアが死んだとしてもその死体に残留している魔力を使って活動が可能だ。


 ──つまり、『リンカーネイト:オーバーライド』の稼働を未然に防ぐことは、既に不可能となっているのである。

 ……我ながら、最悪な現状分析だな。



「能力は秘匿するべき。あっさりバラす能力なんて知られても問題ない部分だけで、本当に大事な真骨頂は隠すに決まっているでしょ?」


「…………仰る通りで」



 ともあれ、『リンカーネイト:オーバーライド』によって稼働し始めた『聖者』が、自らを呼び覚ました術者を殺害したオレを見たとき、どう考え、現状をどう評価し、どう行動するか。

 それを考えたら、此処でアザレアを殺すという選択肢を取るのはあまり賢い選択じゃない。さっきデーアを押し留めたのは、そういう計算が働いたからだ。

 それに何より──もしも発現した『聖者』が暴走状態になった場合、本体が死ねば手の付けようがなくなってしまう。本体が生きていれば構成式の更新や契約コントラクトの追加などでまだ一応のやりようは残っているしな。


 だから今は、それよりも情報だ。

 何故、アザレアがこんなことをしたのか。どこから情報を仕入れたのか。最終的に何がしたいのか。

 『聖者』が本格的に復活する前に、そうした情報を獲得しないと。……『聖者』が復活したら、おそらくもうそんなことをしている暇はないだろうし。



「……イスラを呑み込めたんなら、そのまま此処に来ればよかったじゃん。どうしてわざわざ、私を巻き込んでまでこんな大掛かりな事件を起こしたのさ」


「それがね、そんな簡単なセキュリティでもないのよ、此処。『勢力』の長を思い通りに操作できたところで、完成された『勢力』の位階制度って意外と厳しくてね。……っていうかそもそも監視の目もあるから、『商工勢力』の体制が盤石な限り、石碑の前で長時間怪しげな作業なんてできっこないし」


「だから、私を利用したって?」



 オレは軽く笑いながら、アザレアに問いかける。

 アザレアもまた、笑いながら頷いた。


 まるで、友人のように気安い会話だった。あるいは、かりそめの友人関係だったときよりもよっぽど。

 お互いに建前を取り払って会話できるからか、取り繕う必要がないからか、置かれている現状とは裏腹に、穏やかに話ができていた。



「最初はね、偶然だったのよ」


「どうだか」


「本当だって」



 アザレアは少し憤慨したようにしながら、



「私のリンカーネイトは強いから、護衛が要らなかったのよ。一応本家の方からはそれでも打診があったけど、私が断ったの。……そうしたら、遠方から地面越しに攻撃されちゃったわ。横転してたのは、私が自分で攻撃を回避した影響ね。そんな時にアナタ達が来た訳」


「そっか。じゃあ余計なお世話だったかな」


「とんでもない! ……僥倖だったわ。だって、ずっと探していた『



 ……そりゃあ、僥倖だったろうな。

 だが、オレにとっては痛恨の極みってヤツだ。



「デーアさんを見て一目で分かったわ。ああこれは、『リンカーネイト:オーバーライド』の産物だって。そしてそれを実装するような人間は、提唱者以外にあり得ない。……そして、あの理論を提唱するような化け物は絶対に強いって、最初から分かってた」



 そう言って、アザレアはオレのことを見据える。



「だから、徹底的に被害者のポジションに収まり続けた。それでいて、舞台の中心からアルマが『商工勢力』を叩き潰してくれるように事件をセッティングしたの。……思惑通り、アナタはこれ以上ないほど完璧に『商工勢力』の体制を破壊し尽くしてくれたわ」



 ……つまり、オレは見事に乗せられていたって訳だ。

 実際、オレは最後の最後まで一度もアザレアのことを疑っていなかった。彼女は友人だと、裏切りなんてものはそもそも関係ない関係性だと──そういう箱の中に彼女を入れて、疑うことを辞めていたのは否定できない。

 ……このクソったれな世界で、『友達だから欺いて来ない』なんて優しい法則がないことなんて分かり切っていたのに。



「つまり、ヴィラムルース男爵家は……」


「良い家だったわよ」



 オレの言葉に、アザレアは端的に答えた。



「私を認知したヴィラムルース男爵は、それはもう己の不徳を悔いていてね。最大限の支援を約束してくれたし、実際に支援してくれていたわ」


「………………、」



 それはそうだろう。

 ……そもそも、もしもヴィラムルース男爵がアザレアのことを支援していなければ、一ヵ月前に貴族教育が始まったばかりのアザレアが簡略化されているとはいえリンカーネイトを問題なく修得し、オリエンテーションの内容も不自由なく理解し、そして──『リンカーネイト:オーバーライド』に辿り着くことなどできない。

 戦闘中のパトヴァシア先輩の言動を思い出せ。

 パトヴァシア先輩は、漏洩した情報に前以て当たりをつけていた。つまりそれは、ことを意味する。それも、おそらくは『派閥』加入初日の段階で。

 いくら縁故で引き取ったとはいえ、パトヴァシアが人情家とはいえ、普通ならばそれはあり得ないだろう。……おそらくアザレアは、一日にしてパトヴァシアからそこまで信頼されるほどの有能さを見せたのだ。ちょうど、オレみたいな感じで。

 そしてその背景には、家の最大限のバックアップと本人の努力がないとあり得ない。



「それに、私が認知されたことで人生設計がめちゃくちゃになったお母様も義弟も、信じられないくらい優しかったし」



 ヴィラムルース男爵家のことを語るアザレアの表情には、優しい笑みが浮かんでいた。

 少なくとも、彼女が偽っていたように新たな嫡子を冷遇していたりといった厳しい環境があった訳ではないのだろう。



「…………なら、なんでこんな」




「それでも、は間に合わなかったわ」




 ──そんなオレの問いを断ち切るように、アザレアは言った。

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