荒天



人体ばかりでなく、人の心を知るために心理学の本を読んだ。


両親と一人の妹と住む女の子の話。姉妹は仲が悪く、同じ空間にいても一言も口をきかなかった。


相容れない魂同士が、たまたま姉妹関係に生まれてしまった運命の残酷さ。


でも、女の子は妹のことが本当は大好きだった。美しい横顔、可愛い背中を陰ながら見ている事しか出来ない。しかし妹の方はどん臭くて素朴な女の子のことが嫌いだった。


そうして月日が流れて二人は大人になる。


両親は早くにこの世を去り、二人きりになった姉妹は会話をしないで生活していくのに限界だった。


でも口を開けば喧嘩ばかり。絶えず言い争った。


妹の耐えない罵倒に我慢できなくなった女の子はついに我慢の限界を迎え、妹の頭を鈍器で殴り殺してしまう。


女の子は慌て死体を浴室に引きずり、綺麗にした。


さて、なぜ綺麗にしたのだろう。答えを考えてみた。


女の子は妹の口や鼻や肛門に綿を詰め始めた。そして巨大なナイフを使って腹部から胴体を取り除く。


手や足、頭の皮を剝いて手首、足首、首を切断。目、舌、脳みそを取り除く。あらかじめ準備していた防腐剤を頭部、全身に丁寧に塗る。綿と針金で作った芯を体に入れていく。


そう、女の子は妹を剥製にしたのだ。


死体の処理に困ったからか、妹を周囲に生きていると思わせたかったからか。


違う、妹を愛していたからだ。


両親が死んだことで、家にいる必要がなくなった妹が、いつの日か自分の傍を離れることを恐れていた。いずれは殺すつもりだった。殺したあと残された身体を、永遠に自分の傍にいさせるため剥製にした。


殺す、というよりかは相容れず自分を好きになってくれない邪魔な魂を、心を身体から引き離しただけの儀式といえる。


女の子は妹のことが大好きだ。誰にも渡したくない。だから、文字通り自分だけのものにした。


まるで人形やぬいぐるみを扱うように。


人はこれを歪んだ愛情と言うだろうけど、僕にとっては美学的な話だ。


僕も、誰かに愛されて剥製にされたいと思った。


誰かを、人形にしてみたいと思った。


けど、そんな面倒なことをしなくても、それよりもっと良い力を与えられた。


バラバラになって神経が途切れても、人の身体の一部が機能し続ける力。おかげでいつまでも両親を思いのまま傍に置いておける、僕だけのものにできたんだ。


僕なら、この女の子の気持ちがよくわかる。


恵まれない子どもに神様は幸せをくださるというのは本当だった。


だけど、兄さんが来たことで幸せが静かに崩壊していく。


「屋敷を覗いたのは、この人か?」


兄さんがある男を連れてきた。以前、屋敷を覗かれて父さんを見られた。兄さんはそいつを捕まえてきたらしい。さすが兄さんだ。


男は縄でがんじがらめにされ、口はガムテープで抑えられている。


僕はじっと男の顔を眺める。この、怯えた目。


「うん、間違いないよ」


男は風間爽平というらしい。母さんの右手を持って行って、マジックショーの道具に使っていたという話を聞いて、僕はこいつを痛めつけてやろうかと思った。


「それで、母さんの手は?」


尋ねると、兄さんは残念そうに首を振る。


「まぁ、いいじゃないか。手の一本や二本あげたって」


耳を疑う。あんまりな話だ。可愛がっていたポチを、簡単に諦めるだなんて。盗まれた愛犬をそのまま泥棒にあげるのと同じことだ。


「じゃあ、代わりのものをちょうだい。そうじゃなきゃ平等じゃない」


「もちろん、手よりも価値のあるものをやる」


兄さんは鼻歌を歌いながらナイフを振り回して、男の頬にぴたりと当てた。男は「うー!うー!」と怯えて身体を震わせた。


「こいつをどうするの? 」


「顔の皮を剥げ」


兄さんはナイフを僕に投げて寄こした。唐突の指示に困惑する。


「かわ? 剥いでどうするの? こんなのポチの代わりにならないよ」


「お前の顔と交換するんだよ」


兄さんの言っている意味がわからなかった。顔を交換する。ということは、僕が僕でなくなってしまうではないか。しかも他人の顔の皮を被るなんて、気色が悪い。


「力を使えば、顔の皮膚を剥がしてもすぐくっつければ大丈夫だろ。移植と同じだ。いいか? お前が人の目を盗んだり、出雲翔一を襲ったことがばれ始めてる」


どきりとした。僕が失態をおかしたせいで、兄さんが困っている風だったからだ。


「ご、ごめんなさい兄さん。僕がしくじったせいで…」


「いや、過ぎたことを悔いても仕方がない。だからな、お前が捕まれば、二度とここには戻れないし一生檻の中で暮らすことになるんた。何の楽しみもない、飯を食って寝て飯を食って寝て排泄して風呂に入って寝る。この繰り返しをして死んでいくんだ。地獄だろう」


想像しただけで気が遠のく。自由のない拘束された日々が待ち受けている。それなら死んだ方がましだ。宝石も眺められなくなるじゃないか。


「お前は、他の人間として生きていくんだよ。全部こいつに罪をなすりつけよう、それしか道はない。皮を剥げ。あとは兄さんに任せろ」


自分が自分でなくなる。霧生灯也として生きていけない。


僕は言われるとおりにするしか自分の身を守れないらしい。わかっていても、本能的に首を横に振った。


「僕は、僕でいたいよ」


身動きのとれない男は、僕達の話を理解したのか力を振り絞り暴れ始めた。


兄さんは舌打ちをして男の頭を両手で固定した。


「ほら、押さえつけてやるから。誰か来る前に早く」


そう、兄さんに急かされて僕は男の顔にナイフを突き立てた。


「あがあああああああああああああああ!!」


痛みに男は絶叫した。下顎から額に向かって一周ナイフを滑らせる。顔を切り取るのは難しく、筋から引き剥がすのに苦労した。血でぬるぬると滑って綺麗に切れない。こんなことはしたくないけど、自分の手でやらないと皮膚が使い物にならなくなる。剥がしたら急いで僕の顔に貼り付けないと。


「はは、化粧パックみたいだな。次は早く自分の顔を」


男は叫ぶのをやめ、赤い筋を丸出しにした血まみれの顔を俯かせ気絶していた。


今度は僕が自分の顔にナイフを滑らせた。


痛い。血がぬめっているせいでスムーズにできない。けど、母さんに叩かれるよりは痛くない。


べりべりべりべりべり。


「はぁっ…はぁっ…」


僕は自分の顔を剥がすのに成功した。


そして、男と自分の顔を交換して貼り付けた。


作業が終わると、兄さんは僕の顔をした男の頭をハンマーで殴った。ガムテープや縄を解き、ナイフを握らせて壁に寄りかからせた。


「いいか、お前は世間では死んだことになる。これからは、風間爽平として生きていくんだよ」


休んでる暇はない。宝石と父さんと母さんをどこかに隠さなきゃ。早くしないと人が来る。


「だからな、血縁者が他に生きていたら色々と面倒なんだよ。霧生家の人間は、俺だけで十分だ」


玄関の方で誰かが呼んでいる声がした。まずい、もう誰かが来た。兄さんが、鍵を閉めた状態だと逆に怪しまれるからと言ってわざと鍵を開けておいたのだ。でもこんなに早く来るとは思わなかった。急いで証拠を…。


「ぐっ」


喉が潰れたような重苦しい音が聞こえた。


父さんと母さんの方に目を向けると、二人は兄さんの手により心臓にナイフを刺されて死んでいた。当たり前だが、それまで動いていた手足も動かなくなっている。


集めた宝石達は箱から出され、床に転がった。


「兄さん、何、してるの?」


「スタジオ作りだよ。いかにも悪人と戦ったような雰囲気じゃないか」


満足気にそう言った後、兄さんは胸を刺したナイフの柄を床に落ちていた布切れで拭き取り、再びハンマーを握って僕の顔をした男の前に立った。


「ま、あとは野となれ山となれだ。ほら、誰か来るぞ。お前は隅っこで怯えたふりをしていろ。もちろん風間爽平としてな。何を聞かれても知らないふりをするんだぞ」


愛する両親に寄り添うことも、別れの言葉を送る時間もないまま、言われるとおり僕は蹲って怯えるふりをした。


いや、ふりなんかじゃない。


心の底から兄さんに恐怖した。


短い時間で、躊躇なく三人も殺せる神経。今まで見たことがないくらい生き生きとしていて、嬉しそうだった。


それからすぐに人がたくさん来て、兄さんは迫真の演技で被害者ぶった。


元々は僕を庇うため。全部僕のためにしてくれていることなんだろうけど、どうしても、恐ろしく思ってしまう。


兄さんは、ひょっとしたら悪魔なんじゃないかって。

✱✱✱✱✱



「退院おめでとう」


病室で荷物をまとめていると、叔母の稲垣がやって来た。


空は快晴で暖かい日差しが雨ケ谷を照らす。久しく、こんな穏やかな日はなかった。


「眼帯、似合ってるね」


「白藤さんみたいに眼窩エピテーゼを着けようかな。バイトしてお金を貯めて」


「私が買ってあげるわよ。退院祝いにね」


「退院より祝福するべきことがあるよ」


天宮は上手くやってくれたようだ。


風間を追って霧生の実家である屋敷に警察官と共に踏み込んだ。


盗まれた眼球を屋敷内で発見して、地中深くへ埋めたという朗報を知らせられた。


犯人は、死んだ。正確には、実の兄に正当防衛で殺されたらしい。


弟の霧生灯也。彼に邪な力があったのだ。


恐らく彼は幼い頃、母親のこぼれ落ちた眼球を拾い持ち去った。幼い子どもとはいえ、人の目を保管していたなど尋常ではない。生まれついての悪童だったのではないだろうか。いくら劣悪な環境で育ったとはいえ、やることがえげつない。


なんとも惨めな結末だが、死んで当然の人間ではないだろうか。ぜひその場面を目撃したかったと鼻で笑う。


「霧生一閃は、事件に一切関わっていなかったというけれど、本当かしら?」


「眼球盗難事件に直接関わっていなかったとしても、虐待をされている弟を見て見ぬふりした罪がある。庇っていれば違ったかもしれない。弟が真っ当に育っていたら、母さん以外の被害者は出なかったんじゃないかと思うんだ」


いじめをする側も黙って見ている側も同等の罪だと、稲垣は生徒に言い聞かせたことがある。


視覚情報を得て何も行動しないのが時に悪になるのは、人間だけ。


目が罪になるのは、人間だけ。


「お母さんのなくなった目、もう何も映さなくていいのね」


病院を出て稲垣の車に乗って、真っ直ぐ母親の入院する病院へ向かった。運転席にいる彼女はなぜかがっかりしたようにそう言った。


「皆、呪いからやっと解放されたんだ。中には亡くなった被害者もいるけど、生きているはもう見たくもない景色に悩むことはなくなった。天宮さんには感謝しなくちゃね」


目的が達成されて、霧生と風間がどうなっているのかは興味がなかった。二人が死のうが生きようが関係ない。金輪際関わることはない。母親がこれから元気になってくれれば、それでいい。


きっと、今度こそ息子である自分を見てくれる。そんな淡い期待を胸に、花束を抱えて母親のいる病室に行く。


頑丈な扉に閉鎖された病棟。まるで牢獄。もうすぐここから母親は出られる。退院したら、二人で平和に暮らすのだ。


看護師に扉を開けてもらい、奥へと進む。


暴れている患者、呻き声をあげる患者の横を通り過ぎて、ようやく母親のいる個室に着いた。


「母さん、僕だよ」


扉を開けてすぐに最愛の背中があった。


母親はつま先立ちで強化ガラスの窓の外を眺めていた。背後から見た姿は、前よりも細く、小さくなっていて白髪が目立ち老婆のようだった。


昔あった母親の姿はない。しかし、これからゆっくり時間をかけて元に戻っていけばいい。


息子の声に反応しない。それでも雨ケ谷はこちらに意識を向けてくれるよう声をかけ続けた。


「母さんの目、見つかったそうだよ。だけどたくさんあってどれが母さんのかはわからない。だから全部地中深くに埋めてもらった。もう失った目は何も見なくていい。親子で片目になっちゃった。これでも僕母さんのために頑張ったんだよ。こっち向いてよ」


相変わらず反応はない。生命力が感じられず、部屋に置かれたベッドや椅子のように無機質な存在だった。


雨ケ谷の胸は締め付けられた。氷の槍で心臓を貫かれたように悲しくなった。


「母さん」


母親の骨ばった肩に手を触れてその顔を見た。


頬が痩け、皮一枚が張り付いたような顔。まともだった頃のかつての面影はどこにもない。まるで別人になってしまった。


まだ、遠い場所を見つめている。


眼球を地面に埋めたはずなのに、何も変わらない。一つ、残された目は、決して息子の方を見ようとはしなかった。


「あの子…。顔が、変わってしまった。けれど、幸せそうだわ…。これからも、ずっと一緒…」


雨ケ谷は花束を投げ捨て、母親の両肩を掴んで激しくゆさぶった。


「母さん! 俺だよ、 晴介だよ! 眼球は、暗闇しか映していないはずなのに、どうしてまだ僕を見てくれないんだよぉっ!」


患者が暴力を振るわれている様子を医療従事者は黙っていられない。雨ケ谷は数名に取り押さえられ、病室から引きずり出された。


「母さんを返せ! ここから出してやってくれ!」


重い扉が閉まり、親子の間を隔てた。


彼は知らなかった。霧生灯也が持つ十一個の眼球のうち、一つが行方不明だということを。


それは、母親のものだということも。


取り残された稲垣は、病室を去る前に姉へ感謝の言葉をそっと囁いた。


「姉さん、狂ったままでいてくれてありがとう。あの子は私がもらうわね。…ああ、言葉が通じないわよね。ごめんなさいね」


やっと、甥を手に入れた。ようやく自分のものになった。なんて最高な日だろう。


自分はこれから彼の母親となり、彼の目となり死ぬまで傍にいられる。


勝ち誇った気分の稲垣は、腹の底から湧き上がる幸福感を抑えきれず笑った。


笑わずには、いられない喜劇だった。


✱✱✱✱✱


「終わったよ、えりな」


天宮は今日も娘の遺影に向かって正座し、祈りを捧げる。仕事の成果が実ってほんの数人ではあるが苦しむ人を救えた。それはとても誇らしかった。


妙な事件は解決したのだが結局、娘がどこでバイトをしていたのかは知らずじまいだ。


生前、自分はもっと娘のことを知るべきだった。友人が何人いたのか、恋人がいたのか、人間関係もそうだが、娘の好きなことや嫌いなことさえわかっていなかった。父親らしいことはしてやれない、名ばかりの父だった。


記者として、娘のような自殺者を少しでも減らしていくこと。それが彼の唯一の生きがいだ。


しかし、今回のは骨が折れた。人間では有り得ない力が引き起こした悲惨な事件だった。これから人が進化していく中でそういった力を持つ者が増えたらと考えると恐ろしい。


だが、人が進化する中でもし自分にも何らかの力が授かるなら、迷いなく命を甦らせる力がほしい。


まずは娘を生き返らせて、次に善人を生き返らせる。


世界は善人で溢れ、平和になる。


そんな素晴らしい妄想をして、天宮は口角から涎を垂らした。


せっかく力を持つならば、世のため人のために使うべきだ。


「えりな、お前もそう思うだろう?」


優しく遺影に語りかけると、傍に飾っておいた女の子の人形がぽとりと落ちた。


「おっと、いけない」


天宮が人形に触れた瞬間、声が聞こえた。


私が生き返ったら海に行きたいわ。 お父さんは? お父さんはどこに行きたいの?


娘の声だった。愛しいえりなが、そんな風に尋ねる幻聴だった。


「そうだなぁ、俺は…お前がいれば地獄でもかまわないよ」


天宮は女の子の人形を憂いを帯びた眼差しで見つめた。


手のひらに収まるくらいの人形。それは、特別な素材で作られた世界で一つしかないもの。


エド・ゲインという映画を観た。 アメリカのシリアルキラーがモデルになっている。地元の墓場から女性の死体を掘り返し、死体でランプシェードやブレスレットなど家具やアクセサリーを作り出すという凶悪犯罪者だ。天宮は娘を亡くしたショックで自覚なく精神を病んだことにより、いつしかその凶悪犯を尊敬していた。


なんて発想力、なんて神秘的。


いつまでも愛する娘を傍で感じられるには、その凶悪犯を見様見真似で実践するしかないと。


そして、できた。


彼が手に持つ女の子の人形は、娘の身体の一部でできているものだ。


本当はプラスティネーションをやりたかったが、素人ができるはずもなく、一般人がやれば批判の嵐だ。


遺体からばれない程度の髪を抜き、皮膚を切り取った。ぬいぐるみを作る手順を真似て袋を作り、火葬後、粉々になった遺骨を袋に詰めて縫い合わせ完成。両目はほくろ、鼻や口はまつ毛を使った。樹脂を塗装してはあるが、腐らないよう冷凍庫に保管している。毎朝祈る時、食事をする時、入浴する時、就寝する時は人形と一緒だ。裸では可哀想なので、慣れない裁縫をしてハンカチや布切れで服を作った。毎日着せ替えをしている。


「本当、世の中は狂った馬鹿ばかりで困るよ。皆、自分のことばかりだ。恐ろしくてたまらないよ。それでも父さんは頑張るからな」


お父さん、私、お友達がほしいな。


娘の寂しそうな声がする。


「そうだな、よし。今度死人が絡んだ事件が起きたら、材料を揃えて友達を作ってやろうな」


天宮は冷凍庫から出したばかりで、氷の張り付いた冷たい娘の人形を大事に抱きしめた。


人形と共に、徐々に腐り落ちていく自身の心に彼は気づいていなかった。


✱✱✱✱✱


何度も嘔気を誘い苦しめてきた残酷な景色が見えなくなったことで、眼球盗難事件はやっと終わったのだと白藤美雪は自覚する。


失った片目は、暗闇しか映していない。眠っている時も無理やり見せられていたあの悪夢は、消えた。



精神的にも安定したため、白藤は病院を退院し自宅で療養していた。夏休みが終わる頃にはまた学校に行けるようになるだろう。


自宅の庭のベンチに腰掛けて日光浴をしていると見覚えのある男がやって来た。



雨ケ谷の学校の教師である霧生だった。住所を調べて家までわざわざ訪ねてきたらしい。


あの日、事件解決の鍵を握る人物に会ってほしいと雨ケ谷から頼まれて実際に会ってみたが、神経衰弱していてろくに話せず体調を悪くして救急搬送された。しかし、彼の冷たい目だけは印象に残っている。



霧生は、あの日車内に落とした眼窩エピテーゼを届けに来てくれたのだ。白藤は驚きながら受け取り、静かに会釈した。


彼もまた、深々と頭を下げて事件の解決までの経緯を話した。


霧生よりも早く先に来た天宮から全てを聞いていたため、すでに知ってはいたが初めて聞くふりをして頷いた。


恵まれない小さな男の子が偶然、雨ケ谷の母親の眼球を拾ってしまったことが始まりの事件。


女性ばかりを狙ったのは、母親の代わりに優しい瞳を求めていたからではないか。


両親を殺したのは積もり積もった怨恨のためだろう。


憶測はいくらでもあった。でも死んでしまっては本人の口から聞き出すこともできない。


思えば犯人は可哀想な人なのだ。誰か傍に一人でも支えがいたら、違った人生を歩めていたかもしれないのに。


「全部、俺の弟がしたことだったんです。死んでも決して許されないことをしたんです、あいつは。本当に、申し訳ありません。お詫びのしようもありません」


白藤は涙をこぼした。二度と戻らない眼球を想って泣いたのではない、怒りや悲しみや喜びが混ざりあって、その感情をどう表現したら良いのかわからずに泣いてしまったのだ。


「お詫びをしてくれる、というなら一つお願いを聞いてもらえますか? 事件とは、関係ないことですけど」


白藤はしゃくりあげながら霧生に頼み事をした。


友人、風間爽平のことだ。


「風間さんと、共に行動をしたそうですね。彼の裏面を、知ったのでしょうか」



彼と白藤が友人になったきっかけは、彼の母親だった。


だいぶ前、まだ自分が被害にあわず普通に学校へ通っていた頃だ。学校帰りに白藤は道端で手探りをしてうろうろしている女性を見かけた。五十、六十歳くらいだろうか。どうやら目が見えていないらしい。電柱や塀に身体をぶつけては転び、道の真ん中を歩いては車に跳ねられそうになっていた。


白藤が声をかけると、道に迷ってしまったそうだ。やはり視力が弱く、聴力も弱い。鞄の中に身体障害者手帳があった。そこに名前と住所が書いてあったので、白藤は端末で検索し女性を家まで送り届けることにした。


しかし、転んだりぶつかったりしただけではできないような傷が、身体のあちこちに目立つ。


頬やこめかみに真新しい内出血。よく見ると腕や首にもある。


もしかしたら、誰かにやられているのかもしれない。本人に聞くと、自分で転んだの一点張りだ。警察に通報しようとする白藤を必死に止める。


ややあって自宅に着いた。チャイムを押すと、中から出てきたのは風間爽平。テレビでよく見かけるマジシャンだ。女性は彼の母親であった。


「送り届けてくださり、ありがとうございます。ほら、母さん。汚れた服を取り替えよう」


風間は白藤に礼を言った後、優しい声で母親に話しかける。家の中に入っていく女性は、先程より元気がない。


彼が、母親を虐待している可能性も考えた。しかしこの有名で優しそうな男がそんなことをするだろうかとも思った。


警察に通報して、もし勘違いだったら。上手く繕って警察を騙した後、虐待がエスカレートしたら。


自分が介入したことで最悪なシナリオしか想像できず、嫌な汗が吹き出る。



白藤は、強行に出た。


「あの、図々しいんですけど、私、風間さんのファンなんです。時々でいいから、遊びに来てもいいですか? これも何かの縁ですし、お母さんとも、仲良くなったので」


本当はファンでも何でもない。ただ、母親のことが心配だった。それだけの一心で咄嗟に出た言葉だった。


ドアを閉めようとした彼は、一瞬眉をひそめたがすぐにテレビで見るような柔らかく少年らしい笑顔になった。


「もちろん。君は母の恩人だからね。ファンと言わず友達になってほしいくらいだ。だけど他の人には内緒だよ。家にわんさか押し寄せられたら困るからね」


普通は虐待していれば、他者の訪問も関わりも拒否するだろう。彼は唐突の頼みを受け入れた。やはり、考え過ぎだろうか。それとも少女一人に恐れる必要がないという表れだろうか。


それから時々風間宅を訪れ母親の安否を確認した。送り届けた日から傷が増えた様子もない。でも息子がいる時より不在時の方が彼女の表情は和らいでいるようだった。白藤にも少しずつ心を開いている様子だ。


「美雪ちゃん、これからもずっと家に遊びに来てね。お願いね」


母親は白藤が帰って行くのを寂しそうにしていた。風間爽平の友人というより、母親の友人になっていった。


だが、悲劇は起こる。


白藤が、眼球盗難事件の被害者になった。それ以来、母親とは会っていない。風間爽平とはメールで少しやりとりをした程度で、母親は元気に過ごしているということだけしかわからなかった。


「私、自分のことで精一杯で、風間さんのお母さんどころじゃなくて会いに行けなかったんです。馬鹿でした。虐待を疑った時点で、警察に通報するべきだったのに。相手が、有名人で、そんなはずはないって、先入観が前に出てしまって、怖かった…。だから霧生さん。私の代わりに会って、お母さんが虐待されていないか見てほしいんです。そして私のことを伝えてください。必ず会いに行きますって」


白藤は嘆いた。確かに、少女が一人立ち向かったところで人気マジシャンという地位と名声を持った悪人には勝てない。誰も疑わない。むしろファンの嫌がらせに思われ彼女の方が悪人になるかもしれない。


怖くて誰にも言えなかった罪。誰にも責める権利のない罪。


霧生はベンチに座る白藤と同じ目線になり、静かに語りかけた。


「風間はね、自分のしたことを悔いたんですよ。今回の事件のショックで、生まれ変わって別人のようになりました。人を傷つければいつか自分に返ってくると学んだんでしょう。嘘だと思うなら、自分の目で確かめるといい。大丈夫、お母さんも無事だから」


一人の人間を改心させた弟の人生は、無駄ではなかったのかもしれないと霧生は困ったように笑った。


白藤はひどく安堵して涙を流した。


彼女は優しい。だから、改心したと思った風間がすでにこの世にいないと知ったら、また彼の母親を想って発狂するかもしれない。


霧生はぞくぞくと這い上がってくる興奮を抑え、彼女と一緒に涙を流してやった。





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