暗夜に灯火を失う
老人と若者の言葉の重みが違う。
ある本にそんな皮肉が書いてあった。
長く生き、知識を蓄えただけで本当にそう言えるのか僕は疑問だった。
老人は長く生きているが、無知で何も苦ではない天国のような暮らしをしてきたなら。
若者はまだ少ししか生きていなくても、その少しの間に知識と地獄が凝縮されていたら、若者の言葉の方に重みが出るのではないか。
誰も僕の言葉なんか聞きたがらないだろうけれど。
「変な記者が接近してきた。何かを知っている風だった。お前も気をつけろ」
兄さんの言う、気をつけろというのは今後悪人を裁く時には失態をおかすなという意味なのか、その記者が屋敷にやって来る可能性があるという意味なのか。
その記者の話では出雲翔一の目と口が見つかり、彼は回復に向かっているとのことだ。僕が顔を見られたせいで、そっくりな兄さんが疑われているらしい。
「ど、どうしたらいい? 兄さん」
もはや兄さんの命令がなければ自分の意思で身体を動かすことができなくなるほど、兄さんを崇拝していた。
「出雲の目と口を公衆便所に捨てたのが間違いだったんだよ。指示を出そうにもあの時はそれどころじゃなかったし、俺が回収しに行った頃には誰かに発見されて警察が集まっていた。言いたくはないけど、これは明らかにお前の失態だよ」
兄さんは静かに僕を責めた。言い返す言葉もなく項垂れる。
だってあんな汚いもの、すぐに手放したかったんだ。
ああ、こんなんじゃだめだ。これからたくさんの悪人を懲らしめなくちゃいけないのに。
「いずれ強制的に屋敷へ人が押しかけてくるだろう。その前に、お前の力の証拠を全部片付けるしかないな」
僕の力の証拠は、つまり今まで必死に守ってきたもの。
宝石達と父さんと母さん。三角定規やナイフなどの道具と凶器。とても嫌だった。例え兄さんの命令だとしても、これまでの僕の時間を無にするなんて。
「全部を捨てるだなんて、できないよ」
「片付けるといっても一時的にどこかへ隠しておけばいいんだ。時間はない。行方不明になった母さんの右手も探し出さないといけないんだ」
力を持つ本人もどうにかしなくちゃな、と兄さんは呟いた。僕自身も敵の目から遠ざからないとだめらしい。それはそうだ、顔を見られているんだもの。こんなことなら出雲翔一の目を完全に潰しておけばよかった。でもどんなに汚れていても宝石を壊すなんて僕にはできなかった。
誰かが来る前に、屋敷を出て逃げ回ってもいつか見つかってしまう。そしたら僕はどうなってしまうのだろう。二度と宝石を手に取ることもできなくて、父さんと母さんにも、兄さんにも会えなくなる。
考えて考え抜いた兄さんは閃いたように指を鳴らす。
「いいことを考えた。お前の力を最大限に使う方法だ」
そうして、壁に飾っていた鋭いナイフを手にして笑っていた。
ナイフの冷たい刃が僕の頬に当てられた時、兄さんから言葉を聞く前にわかった気がしてしまった。
僕はもう僕として生きてはいけないんだということを。
✱✱✱✱✱
風間が肝試しに来たという屋敷へ知り合いの警察官数名と共に赴いた。
霧生一閃と共に、彼はここにいるだろうか。
門のチャイムが壊れていて使い物にならない。
しかし、扉には鍵がかかっておらず勝手な出入りができる状態になっていた。
逃げも隠れもしないという表れか、罠が仕掛けられているのか。はたまた絶対に犯行の証拠が露見しない自信があるのか。何にせよ癪に障る。
「馬鹿にしやがって…。この先、何があるかわからない。凶悪犯がいるかもしれない。気をつけて」
天宮は警察官達に注意を促しながら、先頭を切って敷地内に足を踏み入れる。
進んでいくほど天宮は腹の底が熱くなるのを感じた。門どころか、玄関ドアもご丁寧に開けられていた。どうやら絶対的な自信があるらしい。それか、証拠を全て消してすでに逃げていったのか。そうなると風間は人質に取られたか、あるいは共犯者だったか。
屋敷内のレンガの壁が見える。昼間だとうのに不気味な薄暗さがあった。
ドア下の溝にはネズミの死骸と大量の虫が這いずっている。
「鼻が曲がりそうだ」
鼻をつまみながら屋敷内に入る。この鉄錆と埃臭さ。とても人が住める環境ではない。
「霧生さん、いらっしゃいますか?」
かつてここに住んでいた、いや今現在も住んでいるかもしれない住人の姓を呼んだ。しかし応答はない。
孤独死があってもおかしくはないと警察官の一人が言ったのは、死臭のような臭いがするからだった。
天宮自身も死臭は嗅いだことがある。殺人現場、事故現場の取材をいくつもしてきたせいですっかり死体にも臭いにも慣れた。
死体に向かって手を合わせることもしばしばあった。無心に、ただそうしていた。
初めて見たのも嗅いだのも実の娘だった。それから何の感慨も浮かばなくなってしまったのだ。
命が尊いものだとか、神から授かったものだとか、神秘的なものに感じなくなってしまった。
娘を失った瞬間から、人として終わってしまったのだ。
ゴミと家具の散乱した屋敷内を慎重に歩いていく。臭いの強い方向を辿る。
「霧生さん、いませんか?」
変わらず返事はない。だが人の気配と物音がする。床の埃には、三人分の真新しい足跡が付いていた。この先にいることは間違いない。
どんどん臭いが強くなってくる。物音と人の話し声がした。天宮は警戒態勢に入る。いつ襲われても反撃できるようにしていなくては。相手は凶悪犯だ。
天宮と警察官は、長い廊下の奥にある部屋に踏み込んだ。
そこに、男が三人いた。最初に目が合ったのは棒立ちしている霧生だった。この世の終わりのような、悲しい表情をしていた。
彼の背後には両手を頬に当て、蹲って怯えている風間の姿があった。顔や身体のあちこちに血液が付いているが、目立った外傷は見当たらなかった。
二人の視線の先では、ある男が血だらけで壁にもたれながら気を失っていた。
警察官は男に駆け寄り、意識を確認したあと速やかに救急車を呼んだ。頭部を鈍器で殴られたらしい。額から血が流れ、衣服を赤く汚していた。
霧生の右手には、錆び付いたハンマーが握られていて、血がべっとりと付着し床に血溜まりができていた。
「動くな、ハンマーを置いて手を挙げろ!」
警察官が彼に拳銃や警棒を向ける。天宮はすかさず片手をあげて警察官に待ったをかけた。
「霧生先生、一体どういう状況なんです? この人は?」
霧生は血の気のない、乾いた唇を静かに動かした。
「…俺の、弟です」
「弟ですって?」
気を失っている男の顔は、よく見ると霧生にそっくりだった。
「俺は、風間さんがここへ肝試しに来て、首の取れた男を見たって聞いて、もしやと思って今日ここへ来ました。俺の実家でそんなものを見たと聞いたら、じっとしていられなくて…。こいつは、人の身体の一部をとることに快楽を覚えていた。女性の目を盗んでいたのも、出雲先生を襲ったのも、こいつです。父と、母を、殺したのも」
やがて彼の手からハンマーが放され、音を立てて床に落ちた。
つまり、霧生は、肝試しの話を通じて実家で異変が起きていることを知った。どうやら十八の時に出ていって以来八年、一度も家族と連絡を取り合わず帰ってもいなかったらしい。
風間に当時の状況を聞きながら同行してもらい、帰ってみると門が開かれていた。
荒れ果てた実家の屋敷に目を疑った。昔の面影はどこにもない。とても人の生活できる環境ではなかった。
屋敷内は廃屋のようにひどいありさまだった。窓ガラスには板が貼られ外の光は一切差し込まず、昼なのに真夜中の世界だった。
家族を呼びながら奥へ進むが、返事はなかった。かつて一緒に暮らしていた家族はどこに行ってしまったのだろう。
一階奥の部屋。家族四人で食事をする広いリビングルームだった。椅子やテーブルは意図的に破壊された跡があり、食器類は割れて床に散乱する。初めは気が付かなかったが、二体の見慣れない人形が転がっていた。風間が見たのは、そのうちの一体だったという。
それは変わり果てた両親の姿だった。首と胴体だけを残し、心臓にナイフが突き刺さり絶命していた。両手足は少し離れた場所に置いてあった。その傍には大量の眼球や血のついた生々しい凶器。そして、気が狂い悪魔のように変貌した弟が立っていた。
霧生は弟から襲撃にあう。兄だと名乗っても聞く耳を持たず大きなナイフを振り回して襲ってきた。風間は恐怖で身体が動かず腰を抜かした。彼を守るために霧生は何とか太刀打ちしなければと思い、たまたま近くに落ちていたハンマーを拾い上げ弟に反撃する。
弟の腹部を蹴り、しゃがみ込んで項垂れた隙に頭部目掛けてハンマーを振り下ろした。風間はその返り血を浴びたという。
唸り声をあげてじたばたと身体を動かした後、彼は力尽きた。それからすぐに天宮達が屋敷にやって来た。
以上が、出来事の流れだ。
弟、霧生灯也は兄に殴られ瀕死の状態であった。打ちどころが悪かったらしく、瞳孔は散大し脈拍も弱い。呼吸も浅かった。救急車が来るまでの間、応急処置を施したが数分後に息を引き取った。
「被疑者、死亡確認しました」
警察官が無線機で仲間に連絡をとった。
弟を自らの手で殺した事実に、霧生は顔を両手で多いながら嗚咽した。
「俺が、俺が悪かったんだ。両親に虐待されていた弟を置いて家を出たからこんなことに…。早く帰ってやればよかった。被害者の、皆さんに合わす顔がありません。これが、怖いということなんですね。どうか、弟の代わりに俺を裁いてください」
弟の血がついた手で涙を拭うたび、彼の顔は赤く染った。足を引き摺って冷たくなった弟に近づき手を握りしめる。
「ごめんな灯也、ごめんなぁ」
何度も謝罪の言葉を唱えて懺悔する彼を、誰が裁けるだろう。人を殺したことは間違いないが、正当防衛として認められるはずだ。
風間もまた、途切れ途切れな声で同じ証言をした。自分は屋敷の主に襲われ、霧生に助けられたのだと。
二人は人目もはばからず抱き合って泣いた。互いに命があってよかった、と。
元凶だと疑っていた男が、一変して悪者を退治した正義のヒーローになっている。
上手く、行きすぎやしないか。
記者の性分のためか、疑い深くなっている。
天宮だけは、どこか胡散臭さを感じながら床に転がっていた眼球を拾い集めた。もうひと仕事ある。雨ケ谷と約束した通り、人に知られないよう地面に穴を掘って盗まれた眼球を埋める作業をしなければならない。この中には彼の母親の目があるのだろう。しかしどれが誰のものなんてわかるはずもない。
驚いたのは転がる眼球の新鮮さだ。これらは半年以上前に奪われたもの。一つだけ原型がとどまっていない腐った眼球があり、それ以外のものは艶々としていて瞳の部分に潤いもある。まるで生きているようだった。
それに、犯人が死んだことで力の効果もなくなり、この眼球も徐々に腐っていくのかもしれない。わざわざ穴を掘って埋める必要はないのではないだろうか。
ひぃ、ふぅ、みぃ…。
被害者十人。そして雨ケ谷の母親の目があるはずだ。おかしい、いくら数えても十個しか眼球がない。
天宮は人の眼球を見続けたことで吐き気をもよおしながら辺りを探し回った。でもいくら探してももう一つの眼球は見つからなかった。もしかしたら家具や色んなものの下敷きになって潰れてしまっているのかもしれないと思い、諦めて十個の眼球を袋に詰めて懐に隠し持った。
犯人は死んだ。これで、もう二度と目が傷つけられる事件が起きることはない。
ただ一つ疑問なのは、弟と霧生は本当に何の関わりもなかったのだろうか。
どうも、演技くさい涙が引っかかっている。
しかし、死人に口なし。真相はわからない。事件に関わっていたとしても本人が自供するわけがないのだから。
天宮は慣れた営業スマイルを使って霧生に接近する。
「霧生先生、これから事情聴取ですね。落ち着きましたか?」
相変わらず彼は赤い顔をして後悔の涙を流し続けている。
「ああ、天宮さん。なぜ、ここに来たんですか?」
「ワタクシもプロの記者ですからね。隅から隅まで調べ尽くさないと気が済まないたちでして。ああ、そうそう」
天宮は警察官の死角となる立ち位置で、ポシェットからある物を出して静かに床へ置いた。
霧生の顔色は変わり、滝のように流れていた涙はぷつりと止まった。風間も同様に、目を見開いて床に置いた物を凝視する。
天宮は小声で二人に語りかけた。
「風間さんの商売道具、マジックハンドですよ。ようは人の手です。さっき警察官の一人が、女性の死体の右手が一本足りないと騒いでいました。風間さん、あなたが肝試しに来た時に持ち去ったのでは?」
風間は何も答えない。しかし、なぜか目には怒りのようなものがこもっていた。
「さっきまでね、この手は動いていたんですよ。ポシェットの中で魚が飛び跳ねるようにね。でもワタクシがここに来て、霧生さんの名前を呼んだ瞬間に動かなくなったんです。わかりますか? 女性の死体は今さっき死んでしまったからこそ手も動かなくなったんだと考えられます。なぜ、霧生灯也は女性、つまり自分の母親を慌てて殺してしまったんでしょうね?」
突然帰った兄と、同行してきた見知らぬ男を前にしているのに、瀕死の父親と母親にとどめを刺す理由は何だろうか。
それと、一室に集められた罪の証拠の数々。
天宮は短時間である仮説を立てた。
隠す前に人が来たから、やむを得ず両親を殺したのではないか。
つまりはこうだ。
盗んだ眼球や生きているのが不思議な状態の両親を、兄弟は風間を脅しながらどこかに隠そうとする。きっと隠す作業を終えた後、風間に危害を加えるつもりだったのだろう。しかしその途中で自分達がやって来た。三人とも捕まるより、一人が犠牲になった方がましだと考えた霧生は、速やかな判断で両親を殺した後すぐに弟を殺して風間と口裏を合わせ、このシナリオを作り上げた。
「ぼ、僕は、何が何だかわからない。わからないけど、ごめんなさい。許して」
風間は目の前で殺人現場を目撃したことで取り乱していた。記憶が混乱しているらしい。実際、彼は人の手を商売道具に使ったという外道なことはしたが、実害はない。天宮は警察官を呼び、右手がここに落ちていたことを知らせる。
「別に、ワタクシは犯人に何の恨みもない。死んでしまいましたしね。これで被害者も救われるでしょう。これ以上調べる必要もない。ただ」
天宮は目を赤く腫らし、鼻水を垂らした霧生の耳元で囁いた。
「先生はかなりの饒舌で生徒から人気があったと、伺っています。その舌が二枚舌でないことを祈りますよ。目が盗まれる事件なんてのが、二度と起こらないといいですね」
そう言い残して天宮は去った。
「ほら、行くぞ」
霧生と風間は事情聴取を受けるためこれから警察署に向かう。
「はい…」
警察官に連れて行かれるほんの数秒間、霧生が笑っていたことは誰も気づいていなかった。
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