雷陳膠漆


血まみれの手が、震えている。


口を切り取るのは初めてのことだ。


しかも男。女の人と比べて力の差が歴然だ。だから一苦労だった。


「出雲翔一。こいつは口が軽くて人の秘密をペラペラと喋るどうしようもない奴だ。その上いたいけな女の子の恥ずかしいところを撮影するとんでもない悪人なんだよ。今夜、俺がこいつを指定場所に呼び出す。お前はそこで両目と口を奪え。また連絡する」


兄さんはアパートと学校と屋敷を行き来して忙しそうだ。だけどそうして悪い人間の情報を集めて僕に伝えてくれる。


働き蟻と女王蟻みたいで、僕は内心得意になった。


見せられた写真の男の顔を覚える。悪者を退治するという初仕事の相手がこいつか。見た目によらず最低なことをする奴だ。許さない。


「兄さんはどこか行くの?」


「俺は約束があるからな。何かあっても常に以心伝心だ。安心しろ」


言われた通り僕は行動した。


兄さんが出雲を夜の外に呼び出して、僕は相手が人気のない夜道を独りになるのを狙った。


ばれないよう、帽子とマスクをつけてから襲った。でも、抵抗されて暴れられて取っ組み合いになった拍子にマスクを取られて顔を見られてしまう。


「霧生…!」


僕は慌てて相手の口を切り取り、怯んだところで両目を抉った。


声も出ず、目の見えない彼は自分の身に何が起きたのか理解できていない様子で、よろよろと歩き出し夜の闇に消えていった。


顔を、見られた。霧生と、言っていた。僕を知っているはずはない。なら、兄さんと間違えたのか。


心臓がバクバクする。


しかし相手に目も口ももう付いていないし兄さんはちょうど知り合いと一緒にいるし、アリバイはある。兄さんが疑われることはないだろう。


奪った目と口は公園のトイレに捨てた。なおも口は動いていて、霧生の名前を呼んでいるようだった。転がった目は僕を見上げて睨みつけていた。


霧生。あの声が消えない。


兄さんは、今何をしているのだろうか。


兄さんに預けた片目は、見知らぬ男の子を映していた。


男の子は、兄さんに何かを訴えている。そして、自分の片目を取って差し出してきた。兄さんに触れさせようとしている。どういう状態なのだろう。会話を聞き取ることができない。公衆電話から連絡をしてみるが応答しない。


言われた通りできたことを早く褒められたい、その一心だった。


しかしそれどころではない状況に直面しているらしいので叶わなかった。


なんだかさっきから見る宝石は全然美しくない。憎悪や絶望で濁っていて汚い。僕はやっぱり優しくて光っている女の人の宝石が見たいよ。


✱✱✱✱✱


朝起きて朝食を食べて、カウンセラーを受けて自由に過ごして、昼食を食べて昼寝をして自由に過ごして、夕食を食べて風呂に入って眠る。


そんな日々が過ぎた。雨ケ谷は視界が半分になった世界にだんだん慣れてくる。


衝動的な行為とはいえ、自業自得だ。早く犯人を晒しあげたくて、こんなことをしてしまった。


「馬鹿ね、大事な目をとるなんて」


雨ケ谷の見舞いに来たのは、母親と年の離れた妹である叔母の稲垣実雷だ。歳はまだ三十歳と若く、姉のような存在でありまた彼女も彼を弟のように可愛がっていた。


雨ケ谷を叔母夫婦がこれまで支援していたのだが、学校側には雨ケ谷との関係は話していない。それは単に甥が生徒だと知られれば教師の仕事がやりにくいという理由からだった。


保護者や家庭訪問など全面的に表へ出るのは叔父、つまり稲垣の夫が役割となっている。


「母さんの目を取り返すためなら何だってやるよ。そうだ、三日前くらいに新聞記者が来たよ」


「嫌ねえ、仕事だからって病んでる人の入院先まで押しかけるなんて」


「いや、あの人は使えそうだよ。世間に眼球盗難事件や出雲先生のことを公表してくれるはずだ。約束したんだ、被害者達の目を見つけ出して、僕の代わりに暗闇へ埋葬してくれるって」


本当は一つ一つの眼球を本人達の元に返したいが、どれが本人の物なのか把握する術はない。精神的な病におかされて意思疎通ができなくなっているのが大半だ。せめて、黒く景色を塗りつぶして余計なものを見えないようにしてやるしかない。


「出雲先生も被害にあったみたいね。意識が戻りつつあるみたいだし、目もまた見えるようになるから犯人はすぐ捕まるでしょうね」


稲垣は、母親の目を取り戻すという漫画や小説のような話を、それこそ最初は信じていなかった。彼の母親、自分の姉が口に出すのは全部妄想だと思っていた。しかし、この街で起きている女性の眼球が盗まれる事件の詳細を雨ケ谷から聞いていたこともあり、だんだんと彼に協力をするようになっていった。


四月。初めて学校で会った霧生一閃。甥に見せられたツギハギの顔写真と同じ顔。稲垣は姉の眼球を持ち去ったと思われる人物と距離が近い存在になった。


彼の家族構成から生い立ちまで隅々を調べるためにわざと愛想を振りまいたり、こまめに話しかけたりしたがなかなか自身のことを語ろうとしない。演技が下手なのか、警戒されている気がした。


校長室に保管されている彼の履歴書を盗み見ようと危険な行動も試みた。家族一覧には父親、母親、弟の名前と住所が記載されている。履歴書に貼られた付箋には、家族とは疎遠の文字が書かれていた。現在彼はアパートに一人暮らしのようだ。


疎遠している家族の住所をネットで調べてみると、花見丘にある立派な屋敷だった。実際に行ってみると、ネットに載る写真とは別もののように荒れ果てていて人が住んでいるとは思えないありさまだった。一部ではおばけ洋館と呼ばれているらしい。


雨ケ谷と稲垣は屋敷を観察した。巨大な門に設置された呼び出しボタンは破壊され、内側から施錠されている。


近隣住民にも情報を聞き出せるだけ聞き出した。


医者夫婦と二人の息子が住んでいて、長男は数年前に親に勘当されて出て行った。それ以来三人で暮らしているが、ここ一年ほど誰の姿も見ていないらしい。時々、真夜中に門の扉が開く音は聞こえるが何者なのかは確認できていない。


生活感がないものの、何者かが潜んでいることには間違いない。門だって梯子を使えば敷地内に入れる。だが女や青年が二人でやるのは危険過ぎる。稲垣の夫など身内の男にやらせるわけにもいかない。


そこで、雨ケ谷は唯一大人の友人である風間を肝試しに誘った。路上でマジックをしていた彼に近づいて仲良くなったのは、いつか役に立たせるため、たったそれだけの目的だった。


肝試し。これはただの名目で彼に屋敷を調べに行ってもらおうとしたのだ。ついに役立ってもらう時がきたというわけだ。


雨ケ谷にとって安全を優先すべきはまず母親、次に自分や身内、最後に他人。生命を脅かすことはまず他人にやってもらう。これが母親を溺愛したために作られた自己中心的で腹黒い本性だ。


雨ケ谷は肝試し直前に怖がるふりをして、屋敷の前で待っていると言った。風間は年下に勇姿を見せるため、速やかに屋敷の中へ入っていった。彼により内側から門の鍵は解錠され、扉は開かれた。まるで地獄へと続く暗い道が伸びていた。しばらく彼を待っていると、風間は息を荒らげながら全速力で飛び出てきた。


逃げろ、ここはやばい。


屋敷の方から誰かが走ってくる音が聞こえた。雨ケ谷は本能的に逃げた。捕まったら殺されるかもしれない。


走って逃げているうちに、風間と別れてしまいその日は彼が一体何を見たのか聞けなかったが、後日聞くことができた。


首が切れた男が、ソファに座っていたと。


悲鳴をあげたら中から男が追いかけてきた。咄嗟に顔を隠されたので目元しか確認できなかった。


眼球盗難事件の被害者、白藤が見たのと同じ証言だった。追ってきた男が誰なのかはわからない。霧生一閃の顔写真を見せるが、似ていたかもしれないと曖昧な答えをするだけであまり役に立たなかった。


確信。母親の眼球はあそこにある。


しかし屋敷の主の警戒は一層強まってしまっただろう。


警察に通報したとしても、首の切れた男や盗んだ眼球達は絶対に見つからない場所に隠されてしまっているに違いない。


長年大事に保管してきた収穫物を今更破棄することはできないはずだ。



稲垣は急いだ。弟の友達がおばけ洋館に肝試しへ行き、そこで首が切れた男を見たと霧生に伝える。そうすれば嫌でも彼は実家に戻るだろう。


案の定、彼は六日学校を休んだ。何をしていたのかはわからないが、肝試しの時に風間を屋敷から追いかけてきた人物と話をしているのかもしれない。やがてしっぽを出す時が来る。


出雲の悪い噂を伝えたのは、わざと標的を与えるためだった。どうでもいいような人間が相手なら尚更加虐しやすいという犯罪者の心理を利用した。


そして結果的に両目と口を抉り取られる事件が起きた。霧生は自ら墓穴を掘ったのだ。


校舎内に敵が潜み、誘導させられたことにも気づいていないだろう。


「霧生が共犯者に出雲のことを話して、襲撃させたんだわ。 タイミング悪く、あなたは同じ時間帯に霧生と一緒にいて、彼のアリバイの証言者になってしまったけれど。…迂闊だった。あの時刻に晴介が私に黙って霧生と一緒にいたなんて。一言でも相談してほしかった。私は味方なのに。焦る必要はなかったはずでしょ? 自分の目を取るなんて取り返しのつかないこと、する必要もなかった。どうして、待っていられなかったの? 証拠はもうすぐ完璧に揃うのに」


過ぎたことを質問し責めても目が元通りになるわけがない。わかっているが、稲垣は声を荒げずにはいられなかった。


雨ケ谷は内面に秘めた思いを叔母に打ち明ける。


「ずっと憎んでいた写真の男が、母さんの目を持って行ったんだと信じていた。あいつは今まで恐怖を感じたことがないと言ったんだよ。ひどく、腹が立った。僕は毎日が怖くて仕方なかった。母さんが、どんどん遠くにいってしまうみたいで。…あいつが、犯人であってほしかったんだ。一生分の憎しみを向けていたんだから。でも、違ったんだ。僕の眼球を触らせても変化がなかった。あいつには何の力もない。もう一人の存在が、全ての始まりだったんだ」


眼球盗難事件を調べている最中に浮上したもう一人の存在。霧生の身内と思われる人物。


生まれてから一度も恐怖を味わったことがない理由が、今ならなんとなくわかる。


雨ケ谷の母親の目は、虐待されている男の子を見ていた。霧生も同様、その景色を見ながら成長していった。だから怖いという感覚が欠如しているのだ。


虐待されていたのは、恐らく弟。


霧生灯也きりゅうとうや。六つ下の弟が履歴書に書いてあった。近所の人に聞いたら、二人はとっても顔が似ていた兄弟だったって。あんたの母さんは、あまりにも似た兄弟の顔を見比べてるうちに区別がつかなくなったのね。あんたが憎むのは、その男よ」


だが、もう自分達はこれ以上動くつもりはない。


マジックショーのリーフレットを自然に渡すため、わざと霧生を怒らせて詫びの品と言って渡した。果たして実家へ肝試しに行き、見てはならないものを見た男を放っておくだろうか。今頃風間と接触し、彼の口を塞ぐために何かしらの対処をしているだろう。


そして、病院へ取材に来た記者も今、風間の元へ向かっている。天宮はこちらの味方で、その上正義感に溢れている。ベテラン記者としてこれまで数々の悪事を暴いてきた。眼球盗難事件も、あとは時間が流れて終わらせてくれる。


「僕は、もう疲れたよ。眼球盗難事件が解決しなくてもいいとさえ思えてきた。ただ、母さんを救えればそれでいい。後のことはどうでもいい。天宮さんが、母さん達の盗まれた目を見つけて、暗い土の中に埋めてくれれば、それで満足なんだ」


「そうよ、私達はもう十分やった。あとは流れに身を任せれば解決するわ」


雨ケ谷の燃えていた復讐心は鎮火し清々しい顔でそう言ったが、稲垣にとっては内心穏やかではなかった。


彼女は子どもがほしくても恵まれなかった。だから弟のような甥を、いつしか自分の子のように想っていた。秘めた想いは決して綺麗なものではなく、嫉妬や独占欲、溺愛が練り固まってできた汚いヘドロと化していた。


姉の眼球がずっと見つからなければ、自分がずっと母親の役割ができるのに、と。


稲垣は、事件の解決を祈るふりをして、自分の姉が生涯狂い続けることを願っていた。








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